19,救済への密談
援軍の兵隊達が中心都〈神住み広場〉へと駆けつけた頃には、鬼熊は既に柵の壊れた檻の中で静かに大人しくしており、援軍の兵隊は傷付いた同胞を王宮内の医療場へと運ぶ役目を担った。
〈生け贄祭〉の為に集まっていた民衆は、直ぐ様に自分の家へ帰れという命令を受け、下流階級の者達は世渡り橋で、中流階級から上流階級の者達は中心都の家へと各々帰って行った。
何故、兵隊達を三十名近くも負傷させた鬼熊が、今では自ら檻の中に入って大人しく眠っているのか。疑問を持った国王の配下達が聞き込みを行ったところ、民から返って来た答えは信じ難いものだった。
「高等学生ぐらいの少女が、鬼熊を操った」
馬鹿げた返答だが、仮にそれが事実だとすれば、太陽国は他国を圧倒させる力を手に入れたという事になる。国王の配下達は、国の力を不安定にさせる宝を見つけ、期待に口を歪ませた。
夕暮れ時、幾つかの小さな村と草原を抜け、鈴音と椎名は花宮村の旅館〈みやさわ〉へと帰ってきていた。お千代のいない草臥れたこの旅館ならば、身を隠すには最適だと椎名が判断した為である。道中、馬を走らせている間、二人は一言も話さなかった。
〈みやさわ〉の一室で、椎名が何処からか見つけてきた例の渋いお茶を飲み、一息付いた。そして静かな沈黙の後に、椎名が慎重に話を切り出した。
「鈴音さんは、鬼の言葉を話せるの? それとも、鬼を操れるの?」
鈴音は遂に聞かれたか……と思って、あれこれと返答を考えた。しかし、中々良い返しの言葉が見つからず、黙っていると無視をしているようで決まりが悪いので、結局正直に答えた。
「鬼と……会話が出来ます。すみません」
椎名は鈴音の返答に噴き出して、笑いながら首を振って言った。
「いやいや、謝る必要はないよ。僕は鬼に恨みも偏見も持ってないからね。色々事情がある様だし、それを敢えて聞こうとも思わないよ」
鈴音は素直に驚いた。鬼に恨みを持っていない人なんていない……と勝手に決め付けていた為だ。事情を詮索されないのも喜ばしかったが、それだけ聡く優しい椎名に隠し事をしている自分が、酷く悪い人間に思えた。椎名が深刻な顔に戻って続ける。
「問題は、鈴音さんがあの一件で有名になってしまったことだね。鬼と話せるなんて物凄く珍しいことだし。何より、あの光景を見たら、鈴音さんが鬼熊を操ったように見える。鬼熊の武力は相当だからね。それを利用しようという輩が出てくるだろう」
「操るなんて……わたしは鬼熊と交渉しただけです」
「交渉……?」
それから鈴音は、鬼熊との会話を椎名に全て話した。椎名は時に何か言いたげな様子を見せたが何も言わず、鈴音が全て話し終えるまで黙って聞いてくれた。鈴音の話しが全て終わると、椎名はより一層深刻な面持ちになり、困ったように溜め息をついた。
「まず、中心都に入るのが難しいね。世渡り橋の警備は間違い無く増強されているだろうし。鬼熊への警備も更に強化されているだろうね。そもそも鬼熊が何処にいるのかも分からない……脱出手段も無し。不可能としか思えないよ」
「そうです、わたし一人では対処出来ません。だから、椎名さん、助けて下さい」
「助けてあげたいけどねぇ……」
鈴音にはある計画があった。しかし、それを行うには椎名の協力が必要だ。だが、もしそれが最悪の形で失敗すると、二人とも死罪になることだって有り得る。それでも、鈴音には実行するしか選択肢は無い。もしあの鬼熊の下へと鈴音が向かわなければ、鬼熊は今度こそ死人が出る程に暴れるだろう。意を決して、鈴音は切り出した。
「椎名さんには獣医さんのお友達が中心都におられますよね?」
「……ああ、清丸のことだね」
「その清丸さんに頼まれて、鬼熊の様子を見に来た……と、嘘を付いてくれませんか?」
鈴音の頼みに、椎名は顎に手を当てて考え出した。ここで許可を貰わないと、この計画は始まる前に終わってしまう。中心都に入る方法の一つとして、〈仕事の手助け〉と言うのがあるのだが(勿論、多少の実績がないと中心都には入れて貰えない)、それを利用しようと考えたのだ。
もう一つ別の方法が無い事も無いのだが、これを行ってしまうと、それこそ鈴音は武力として利用されてしまうだろう。故に、鈴音は縋る思いで尋ねた。暫くしてから、椎名が口を開いた。
「清丸は聡いから、多少の無茶な行動でも理解してくれるだろう。でも、鬼熊が解毒薬を貰った後にどんな行動をするか分からない……どちらにしても暴れ回る可能性が無くは無いでしょ?」
椎名の言葉に、鈴音は首を横に振って、懐に仕舞っておいた青い袋を取り出し、中から親指ほどの薬瓶を取り出した。中には赤い色の液体が入っている。
「これが、〈鬼狂いの実〉の解毒薬です。〈鬼狂いの実〉は一度解毒薬を与えただけでは、その毒を全て取り除くことが出来ません。約半年掛けて薬を飲み続けないと毒が甦ります。それ程、強力なんです。だからこそ、鬼熊はそれまで、わたしを襲うことが出来ません」
「国王は鬼熊を処刑するつもりでしょう。どうするつもりだい?」
椎名が少し言い辛そうに、しかしはっきりと言った。鈴音は再度首を横に振り、答えた。
「鬼熊の力があれば、わたし達二人共中心都を脱出することが出来る筈です。その後、人気の無い場所で鬼熊を離して、わたしがそこへ定期的に通います」
「それでも、半年経った後に襲ってくる可能性は消えない」
「鬼の種族には、言葉さえ分かれば人間と意思疎通できる程の意思というか……理性みたいな物があります。半年間も自分を助けようとしていた人を、食べようとは思わない……筈です。ただの熊なら分かりませんけど……」
椎名は再び黙り、鈴音は彼の返答を待った。心臓の音が高鳴る。
椎名は突然立ち上がると、医者の道具一式を持って、微笑んで鈴音に言った。
「法律を破るのは初めてだよ」
深夜、漆黒の闇に月の光が輝かしく光り、辺りを薄暗くさせている。春の暖かい風がソヨソヨと吹き渡り、草原に生えている草花をユラユラと揺らした。
『まさか鬼熊が暴れるとは……』
『仕方があるまい……我々の活動も年々幅が広がっている』
『そうだとも、機会はまだまだある』
『我々の願いが届くまで、人間には犠牲になってもらわねば……』
頭に鋭い角を生やした赤い目の集団が、ボソボソと会話をしながら、中心都から去って行った。
不気味な集団が去ってから半刻も経たぬうちに、鈴音と椎名は中心都の堀の前へと辿り付いた。橋は既に警備が増強しており、何者も中心都へと通さぬようにしている。堀の反対側には警備兵がズラリと並んでおり、侵入者の発見に勤しんでいた。そこへ、椎名が大きな声で叫ぶ。
「私は椎名文瀬と言う医者の者だ! 我が親友であり獣医、富沢清丸の命を受けて来た! 彼に確認の後、急いで我々を通して頂きたい! 早急に頼む!」
二人の挑戦が、暗闇の中で始まった。