18,王者との交渉
鬼熊−−鬼の種族において、最も危険とされている生物。世界で最も獣害事件を数多く引き起こし、人間も鬼人も非常に恐れている獣である。制御する術は赤鬼が吹く特殊な音階の指笛だけであるが、野生の鬼熊には稀に指笛が通じない者もいる。人間や鬼人の力で押さえ込むことは不可能であり、一度獲物として認識されれば、何処へ逃げても執念深く追い掛けてくる。
百年戦争中は飼育された鬼熊を赤鬼が操る事によって、人間に多大な被害を及ぼした。しかし、野生の鬼熊は飼育されたものより更に強靭だと伝えられている。一千年前の伝説によれば、僅か一頭の鬼熊によって、鬼人の村が十八つ壊滅させられたらしい。全生物の王者と呼ばれている怪物、それが鬼熊だ。
その怪物が今、各国から様々な点で優秀だと呼び声高い太陽国の、正に中心で解き放たれている。頑丈な丸太作りの檻を顎や腕で簡単に砕き、今や鬼熊は、自由を手に入れていた。
「国王軍! 槍を構え! 行け!」
王族直属部隊……鎧を纏った数十人の一団が、槍を高々と掲げ、鬼熊に相対していた。しかし残念ながら、本来備わっている力量が違う。直属部隊の隊員達は鬼熊の豪腕による一撃で大多数が吹き飛び、地面に体を思いっきりぶつけていた。
群集達は出来るだけ鬼熊から離れようと訳も分からずに走り続け、至る所でぶつかり合ったり転げたりしている。鈴音は努力して群集を掻き分け、鬼熊に出来るだけ近付こうとしていた。何人もの人にぶつかり、何度も転げて、体の至る所が痛んだが、構っている場合ではない。鬼熊に、例え武装している人間であっても敵う筈が無いのだから。鬼熊を何とかして止めなければ……何人もの犠牲者が出る。
鬼熊の姿がまだ見えていない内に、誰かが鈴音の手を引いた。鈴音が振り返ると、椎名が必死の形相で鈴音の手を握り、進行を止めようとしている。
「何をするつもりだい!? ここから離れよう!」
悲鳴と絶叫が飛び交う中、鈴音は椎名の言葉に返事をする暇さえ惜しかった。しかし、椎名の力は強く、ずれた眼鏡の奥にある瞳は真剣そのものだ。鈴音は、逃げ惑う群集によって遮られた視界の中で、鬼熊がいるであろう方向を向いて鬼の言葉で叫んだ。
『鬼熊! お願い! 暴れないで、話しを聞いて!』
聞いたことの無い言語を叫ぶ鈴音に、椎名は全く意味不明といった表情をし、一瞬手を握る力が弱まった。その瞬間に鈴音は思い切り腕を振って、椎名の手から逃れ、必死に走った。心の中では、椎名の手から強引に自分の手を振り払ったことに対する謝罪を繰り返し思い浮かべた。
『止まって……鬼熊!』
鈴音は息を絶え絶えさせながら、必死に叫ぶ。漸く群集を抜けて、鬼熊の姿が見えると、そこには地獄のような光景が広がっていた。生け贄の石造は地面に投げ倒され、国王直属部隊で立っている人間は一人しかおらず、他の隊員達は鎧を砕かれ、血に塗れながら、ぐったりと横たわっている。辺りには槍の破片や鎧の欠片、更に血が飛び散っていて、凄惨な有り様であった。
「鬼……熊……」
最後まで立っていた隊員が倒れて、動かなくなった。彼の兜は最早、原型を留めておらず、額から血を流している様子がよく見える。
『愚かなり、弱き種族よ。我等高貴なる種族の血肉となるがいい』
鬼熊は血に濡れた鼻面を鳴らしながら、最後に倒れた隊員に四足で歩いて向かった。鈴音は鬼熊の動きを止めるために、喉を痛める程大きな声で叫んだ。
『鬼熊!!』
鬼熊は歩みを止めて、後方を振り返った。そこには今先ほど倒した兵隊達が横たわっているのと、呼吸を乱して立っている人間の娘がいる。その更に奥には、広場の外から現在どんな状況にあるのかを恐れながら眺めている、逃げた大衆がいた。鬼熊は首を傾げて、数歩離れた場所にいる娘に向かって尋ねた(無論、答えが返ってくるなど期待してはいないのだが)。
『気のせいか? お前は今、鬼の言葉を話したーー』
『話せるだけじゃなくて、アナタの言葉を理解することも出来ます』
鈴音の返答には、流石の鬼熊も驚いているようだった。しかし、突然に納得したような表情になると、冷酷な笑みを浮かべて、嘲りを含んだ口調で言った。
『成る程、知っておるぞ。カイナがほざいていた、鬼動物の言語を全て理解する人間……』
鈴音は一瞬、聞き間違いだと思った。カイナ……大きな体躯(この鬼熊程ではないが)に、溢れる正義感を持った鬼猪の優しい表情を思い出す。しかし、何故この鬼熊がカイナのことを知っているのだろうか?
『カイナを知っているのですか?』
鈴音が尋ねると、鬼熊は相も変わらず冷酷な微笑を浮かべ、どうでもいいと言いたげな口調で答えた。
『あの森でカイナは顔が広いからな……だが安心しろ。俺様は奴等の仲間などではない。俺様にとってお前はただの人間……そして俺様は腹が減っている。残念だな、お別れだ』
鬼熊はニタリと笑うと、ゆっくり鈴音に近付いて来た。食べられる……鈴音は対処の仕方が分からず、どうしようもなく立ち竦んでいた。広間の外では、群集達が絶叫やら悲鳴やらを上げている。そこで鈴音は、椎名の言葉を思い出した。
(そうだ……鬼熊は毒で弱っている……)
鈴音は決心を付けて、恐れを出来るだけ声に出さないように言った。
『今わたしを食べてしまえば、アナタは命を落とします』
鬼熊はその言葉を聞いた途端に、残酷な笑い声を上げて、鈴音の直ぐ目の前で立ち上がった。群衆からは一斉に悲鳴が上がり、何人かは逃げ去っていった。鈴音は嫌な汗が全身から出て、体中が震えるのを抑えられなくなった。自分の何倍もある巨大な体躯に、大きな恐怖を感じているのだ。
(彼の気分次第で……わたしは直ぐにでも食べられてしまう……)
『俺様の生死がお前のような小娘に左右されると思うのか!? 滑稽滑稽!!』
鬼熊は鈴音を見下ろして愉快そうに叫ぶ。鈴音は震える手をギュッと握り、遥か頭上にある鬼熊の赤い目を真っ直ぐに見詰めて言った。
『アナタは、毒に侵されています……鬼人だけが解毒法を知っている毒です。そして、今その解毒薬の製薬法をこの国で知っているのは、わたしだけです。わたしがいなくなれば、アナタは毒に命を奪い取られるでしょう』
出任せでは無かった。カイナを知っているということは、この鬼熊はあの島、〈神住み島〉の者だ。〈神住み島〉において、鬼熊が死に至る程の強力な毒を持っている動植物は僅か一つ、〈鬼狂いの実〉だけである。医者である椎名が残り数日の命と言っていた辺り、おそらく鬼熊はそれを口にしてしまったのだろう。そして弱っているところを、太陽国の人間に見付かって捕らえられた。
〈鬼狂いの実〉の解毒方法を知っているのは、鬼人界でも数名だけだ。だからこそ人間の有名な獣医でも、この鬼熊を治すことが出来なかった。鈴音はレインおじさんに、その解毒薬を作る術を教えて貰っているので、製薬法を知っている。
『……俺様は……』
鬼熊は目に見えて動揺していた。鈴音は、今が好機と話し続けた。
『最近、赤い実を口にしませんでしたか? それは強力な毒の実です。長い間食べた者を苦しめて、体力を極限にまで減らして命を奪います。毒が活動している時間帯は苦しいですが、毒が活動を弱める昼間は楽になります。さぁ、心当たりはありませんか?』
鬼熊はズバリと言い当てられたらしく、立ったまま赤い目で鈴音を見詰めている。鈴音も真っ直ぐに鬼熊を見上げていた。暫くの沈黙が流れ、鈴音が言葉を切り出す。
『わたしが……責任を持って、アナタを治します。だから、今は大人しくして下さいませんか? 毒は早急に治す必要がありますが、鬼熊であるアナタなら、まだ時間はあります。必ず助けに来ますから……』
『俺様はまだ死ぬ訳にはいかぬ』
『分かっています。約束です』
鬼熊は再び四足の体勢になり、自らが壊した檻へと向かった。
『日の出までだ。それを過ぎてもお前が来なければ、今度こそ俺様は人を食らう』
最後にそう言うと、鬼熊は柵の無い檻の中で足をたたんで眠り始めた。鈴音がホッとしたのと同時に、大きな歓声が広場の外から巻き起こった。




