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彼女が頁を閉じるまで。

作者: あちょー
掲載日:2026/08/03

       ●


 木陰のベンチに彼女が座った。

 白い帽子が隣で影を落とした。

 膝の文庫に指先を置いていた。

 少年の靴音が手前でふと鈍る。

 彼女の視線が頁の上で止まる。

 少年は銀の水筒へ目を落とす。

 帽子のつばを風が持ち上げる。

 彼女は帽子より彼を見ていた。

 少年も歩幅をわずかに緩める。

 二人の間を蝉の声が満たした。


       ●


 俺は、その前を三度通った。


 一度目は、偶然だった。

 二度目は、自動販売機へ行くためだった。

 三度目は、もう言い訳がなかった。


「さっきから、よく通るね」


 彼女は本から顔を上げずに言った。

 俺の足が止まる。


「道だから」

「同じ道を三周する人、初めて見た」


 ページの端を人さし指で押さえたまま、彼女は顔を上げた。

 笑ってはいない。怒ってもいない。

 ただ、俺の次の言葉を待っていた。


「座っていい?」


 彼女は白い帽子を持ち上げ、自分の反対側へ置き直した。

 空いた場所を手のひらで一度払う。


「どうぞ」


 俺はベンチの端へ座った。

 二人の間には、一人分ほどの隙間が残った。

 彼女はすぐに本へ戻った。

 俺が炭酸飲料の缶を開けると、音が思ったより大きく響いた。

 彼女の指が止まる。


「ごめん。うるさかった?」

「蝉よりは静か」


 缶を一度見ただけで、また次の行を読み始める。

 俺も黙った。

 風が吹くたび、木の葉の隙間から光が落ちた。

 日差しが本の上へ移ると、彼女は帽子を手に取った。かぶるのかと思ったが、そうではなかった。

 本へ影を作るように、片手で傾ける。

 数行読み、光が外れると、帽子を元の場所へ戻した。

 それだけの動きなのに、目が離せなかった。


「面白い?」


 俺が聞くと、彼女は右のページを最後まで読んだ。

 親指を紙の下へ入れる。

 まだ、めくらない。


「面白いよ」


 答えてから、ページをめくった。


「どんな話?」

「帰る話」

「どこへ?」

「最初にいた場所へ」

「それだけ?」


 彼女は本を少し閉じ、間へ指を挟んだ。


「帰るだけでも、難しいことはあるから」

「たとえば?」


 銀色の水筒へ伸びた手が止まった。

 彼女はしばらく水筒を見たあと、ふたを開けた。


「帰っても、前と同じではないかもしれない」


 二口だけ飲み、ふちの水滴を親指で拭う。


「それなら、帰らなければいい」

「帰らないと、変わったことにも気づけないよ」


 水筒を足元へ戻す。

 底が傾かない場所を選び、手を離した。


「慎重だな」

「倒れたら困るから」

「中身、水だろ?」

「水でも困るよ」


 当然のように言われ、俺は自分の缶を見た。

 ベンチの横で少し傾いている。

 直そうとしたとき、彼女が先に靴先で押した。

 缶が真っすぐになる。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 彼女は本を開き、しおりのひもを背に沿わせた。


「今日、暇なの?」

「まあ」

「図書館の本を抱えて、公園を三周するくらいには?」


 俺は膝の上の二冊を隠そうとした。

 彼女の口元が、わずかに緩んだ。

 笑われたはずなのに、嫌ではなかった。


「君を見かけたから」


 俺は言った。

 彼女は本から顔を上げた。


「それで三周?」

「一周目は偶然」

「二周目は?」

「確認」

「三周目は?」


 答えられなかった。

 彼女は急かさない。

 開いた本の中央へ指を置き、俺が口を開くまで待っていた。

 ごまかすのか。

 黙るのか。

 それとも、話すのか。

 その間を埋める言葉を、彼女は一つも足さなかった。


「話してみたかった」


 ようやく言うと、彼女は目を伏せた。

 ページの端を、指先で上から下までなぞる。

 それから本を閉じた。

 しおりは挟まなかった。


「最後まで読まなくていいの?」

「今は、こっちの方が大事だから」


 本の角を揃え、膝の上へ置く。


「何を話す?」


 話しかけることばかり考えて、その先を用意していなかった。


「好きなものとか」

「君の?」

「まずは、そっちの」


 彼女は帽子の内側から、小さな木の葉を一枚取り出した。

 指でつまんだまま考える。


「静かな場所」

「ここ、蝉がうるさいけど」

「人が静かならいい」


 木の葉をベンチの後ろの土へ置いた。


「ほかには?」

「冷たい水。本」


 水筒を見てから、膝の文庫本に触れる。


「帽子は?」

「好きというより、必要」

「似合ってる」


 帽子のつばに触れていた手が止まった。

 彼女は俺を見る。

 軽すぎたかもしれないと後悔した頃、ようやく口を開いた。


「ありがとう」


 帽子を持ち上げ、頭へ載せる。

 後ろの髪を片手で外へ出し、つばの左右を指でつまんだ。

 鏡も、俺の顔も見ない。

 自分が落ち着く位置へ、静かに整えた。


「どう?」

「かぶった方が似合う」

「さっきも似合うって言った」

「今の方が」


 帽子の下で、彼女の目が少し細くなった。


「君は?」

「何が?」

「好きなもの」


 彼女は水筒を両手で挟んだ。

 冷たさを確かめるように、指をゆっくり動かしている。


「今は、この時間」


 指が止まった。

 言ってから、顔が熱くなった。

 彼女は何も言わない。

 ただ、水筒のふたを一度だけ撫でた。


「私、今日でここに来るの、最後なんだ」


 蝉の声が急に大きくなった。


「どうして?」

「引っ越すから」


 彼女は本を鞄へ入れた。

 角が引っかからないよう、入り口を片手で広げている。


「いつ?」

「今日の夕方」

「そんな急に」

「前から決まってたよ。言ってなかっただけ」


 彼女は帽子を外し、膝の上でつばの形を整えた。

 すぐには顔を上げない。


「だから、帰る話を読んでたの?」

「うん」

「連絡先、教えて」


 帽子を整えていた指が止まった。


「まだ今日、初めて話したのに?」

「今日話さなかったら、もう終わってた」


 彼女は顔を上げた。


「だから、今聞く」


 彼女は帽子を両手で持ったまま、俺を見ている。

 少しだけ迷っていた。

 それでも、目はそらさない。


「後悔しない?」

「何もしない方がする」


 彼女は息を吸った。

 帽子のつばを握る指へ、少し力が入る。


「じゃあ」


 そこで言葉を切り、一度だけ目を閉じた。


「次は、三周する前に話しかけて」


 帽子をかぶり、鞄を肩へ掛ける。

 俺も立とうとした。


「まだ座ってて」

「送るよ」

「今日はいい」


 彼女は鞄から水筒を取り出し、俺へ差し出した。


「これ、預かって」

「どうして?」

「次に会う理由」


 銀色の水筒は、まだ少し冷たかった。

 俺が受け取ると、彼女は指を離した。

 けれど、手はすぐに引かなかった。

 俺の手の中で水筒が安定するのを見てから、ゆっくり下ろす。


「引っ越すんだろ?」

「会いに来るかもしれない」

「なら、俺が返しに行く」


 彼女は帽子のつばを下げた。


「うん」


 数歩進み、足を止めた。

 肩が小さく揺れている。

 振り返った彼女は、片手で口元を押さえていた。


「嘘」


「え?」

「引っ越すっていうの」


 帽子の下で、彼女の目が弓なりになる。


「……性格、悪いな」


「うん」


 彼女は空いた手を背中へ隠した。


「三周も待たされたから、一回くらい困らせたかった」

「待ってたのか?」


 彼女は答えなかった。

 帽子のつばを指でつまみ、少しだけ下げる。

 それでも、隠し切れなかった口元は笑っていた。


「帰る話も嘘?」

「それは本当」


 文庫本の入った鞄を、軽く押さえる。


「嘘をついたのは、引っ越すところだけ」

「水筒は?」

「預ける」

「明日も来るのに?」

「明日も来るから」


 彼女は背中を向けた。


「ごめんね。また、明日」


 白い帽子が、木漏れ日の中を遠ざかっていく。

 今度は一度だけ振り返り、帽子のつばへ手を添えた。

 俺はベンチに座ったまま、水筒を握っていた。

 彼女が残した一人分の隙間には、帽子の丸い跡が残っている。


 その跡が消えるまで、俺は立てなかった。


       ●


 木陰のベンチで彼女が笑った。

 白い帽子を彼女が端へ寄せた。

 膝の文庫を閉じて彼を待った。

 少年の靴音が今度は近づいた。

 彼女の視線が頁から彼へ移る。

 銀の水筒を彼女が受け取った。

 帽子のつばを風が持ち上げた。

 彼女は押さえず彼へ微笑んだ。

 少年は彼女の隣へ腰を下ろす。

 二人の間を蝉の声が満たした。


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