彼女が頁を閉じるまで。
●
木陰のベンチに彼女が座った。
白い帽子が隣で影を落とした。
膝の文庫に指先を置いていた。
少年の靴音が手前でふと鈍る。
彼女の視線が頁の上で止まる。
少年は銀の水筒へ目を落とす。
帽子のつばを風が持ち上げる。
彼女は帽子より彼を見ていた。
少年も歩幅をわずかに緩める。
二人の間を蝉の声が満たした。
●
俺は、その前を三度通った。
一度目は、偶然だった。
二度目は、自動販売機へ行くためだった。
三度目は、もう言い訳がなかった。
「さっきから、よく通るね」
彼女は本から顔を上げずに言った。
俺の足が止まる。
「道だから」
「同じ道を三周する人、初めて見た」
ページの端を人さし指で押さえたまま、彼女は顔を上げた。
笑ってはいない。怒ってもいない。
ただ、俺の次の言葉を待っていた。
「座っていい?」
彼女は白い帽子を持ち上げ、自分の反対側へ置き直した。
空いた場所を手のひらで一度払う。
「どうぞ」
俺はベンチの端へ座った。
二人の間には、一人分ほどの隙間が残った。
彼女はすぐに本へ戻った。
俺が炭酸飲料の缶を開けると、音が思ったより大きく響いた。
彼女の指が止まる。
「ごめん。うるさかった?」
「蝉よりは静か」
缶を一度見ただけで、また次の行を読み始める。
俺も黙った。
風が吹くたび、木の葉の隙間から光が落ちた。
日差しが本の上へ移ると、彼女は帽子を手に取った。かぶるのかと思ったが、そうではなかった。
本へ影を作るように、片手で傾ける。
数行読み、光が外れると、帽子を元の場所へ戻した。
それだけの動きなのに、目が離せなかった。
「面白い?」
俺が聞くと、彼女は右のページを最後まで読んだ。
親指を紙の下へ入れる。
まだ、めくらない。
「面白いよ」
答えてから、ページをめくった。
「どんな話?」
「帰る話」
「どこへ?」
「最初にいた場所へ」
「それだけ?」
彼女は本を少し閉じ、間へ指を挟んだ。
「帰るだけでも、難しいことはあるから」
「たとえば?」
銀色の水筒へ伸びた手が止まった。
彼女はしばらく水筒を見たあと、ふたを開けた。
「帰っても、前と同じではないかもしれない」
二口だけ飲み、ふちの水滴を親指で拭う。
「それなら、帰らなければいい」
「帰らないと、変わったことにも気づけないよ」
水筒を足元へ戻す。
底が傾かない場所を選び、手を離した。
「慎重だな」
「倒れたら困るから」
「中身、水だろ?」
「水でも困るよ」
当然のように言われ、俺は自分の缶を見た。
ベンチの横で少し傾いている。
直そうとしたとき、彼女が先に靴先で押した。
缶が真っすぐになる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は本を開き、しおりのひもを背に沿わせた。
「今日、暇なの?」
「まあ」
「図書館の本を抱えて、公園を三周するくらいには?」
俺は膝の上の二冊を隠そうとした。
彼女の口元が、わずかに緩んだ。
笑われたはずなのに、嫌ではなかった。
「君を見かけたから」
俺は言った。
彼女は本から顔を上げた。
「それで三周?」
「一周目は偶然」
「二周目は?」
「確認」
「三周目は?」
答えられなかった。
彼女は急かさない。
開いた本の中央へ指を置き、俺が口を開くまで待っていた。
ごまかすのか。
黙るのか。
それとも、話すのか。
その間を埋める言葉を、彼女は一つも足さなかった。
「話してみたかった」
ようやく言うと、彼女は目を伏せた。
ページの端を、指先で上から下までなぞる。
それから本を閉じた。
しおりは挟まなかった。
「最後まで読まなくていいの?」
「今は、こっちの方が大事だから」
本の角を揃え、膝の上へ置く。
「何を話す?」
話しかけることばかり考えて、その先を用意していなかった。
「好きなものとか」
「君の?」
「まずは、そっちの」
彼女は帽子の内側から、小さな木の葉を一枚取り出した。
指でつまんだまま考える。
「静かな場所」
「ここ、蝉がうるさいけど」
「人が静かならいい」
木の葉をベンチの後ろの土へ置いた。
「ほかには?」
「冷たい水。本」
水筒を見てから、膝の文庫本に触れる。
「帽子は?」
「好きというより、必要」
「似合ってる」
帽子のつばに触れていた手が止まった。
彼女は俺を見る。
軽すぎたかもしれないと後悔した頃、ようやく口を開いた。
「ありがとう」
帽子を持ち上げ、頭へ載せる。
後ろの髪を片手で外へ出し、つばの左右を指でつまんだ。
鏡も、俺の顔も見ない。
自分が落ち着く位置へ、静かに整えた。
「どう?」
「かぶった方が似合う」
「さっきも似合うって言った」
「今の方が」
帽子の下で、彼女の目が少し細くなった。
「君は?」
「何が?」
「好きなもの」
彼女は水筒を両手で挟んだ。
冷たさを確かめるように、指をゆっくり動かしている。
「今は、この時間」
指が止まった。
言ってから、顔が熱くなった。
彼女は何も言わない。
ただ、水筒のふたを一度だけ撫でた。
「私、今日でここに来るの、最後なんだ」
蝉の声が急に大きくなった。
「どうして?」
「引っ越すから」
彼女は本を鞄へ入れた。
角が引っかからないよう、入り口を片手で広げている。
「いつ?」
「今日の夕方」
「そんな急に」
「前から決まってたよ。言ってなかっただけ」
彼女は帽子を外し、膝の上でつばの形を整えた。
すぐには顔を上げない。
「だから、帰る話を読んでたの?」
「うん」
「連絡先、教えて」
帽子を整えていた指が止まった。
「まだ今日、初めて話したのに?」
「今日話さなかったら、もう終わってた」
彼女は顔を上げた。
「だから、今聞く」
彼女は帽子を両手で持ったまま、俺を見ている。
少しだけ迷っていた。
それでも、目はそらさない。
「後悔しない?」
「何もしない方がする」
彼女は息を吸った。
帽子のつばを握る指へ、少し力が入る。
「じゃあ」
そこで言葉を切り、一度だけ目を閉じた。
「次は、三周する前に話しかけて」
帽子をかぶり、鞄を肩へ掛ける。
俺も立とうとした。
「まだ座ってて」
「送るよ」
「今日はいい」
彼女は鞄から水筒を取り出し、俺へ差し出した。
「これ、預かって」
「どうして?」
「次に会う理由」
銀色の水筒は、まだ少し冷たかった。
俺が受け取ると、彼女は指を離した。
けれど、手はすぐに引かなかった。
俺の手の中で水筒が安定するのを見てから、ゆっくり下ろす。
「引っ越すんだろ?」
「会いに来るかもしれない」
「なら、俺が返しに行く」
彼女は帽子のつばを下げた。
「うん」
数歩進み、足を止めた。
肩が小さく揺れている。
振り返った彼女は、片手で口元を押さえていた。
「嘘」
「え?」
「引っ越すっていうの」
帽子の下で、彼女の目が弓なりになる。
「……性格、悪いな」
「うん」
彼女は空いた手を背中へ隠した。
「三周も待たされたから、一回くらい困らせたかった」
「待ってたのか?」
彼女は答えなかった。
帽子のつばを指でつまみ、少しだけ下げる。
それでも、隠し切れなかった口元は笑っていた。
「帰る話も嘘?」
「それは本当」
文庫本の入った鞄を、軽く押さえる。
「嘘をついたのは、引っ越すところだけ」
「水筒は?」
「預ける」
「明日も来るのに?」
「明日も来るから」
彼女は背中を向けた。
「ごめんね。また、明日」
白い帽子が、木漏れ日の中を遠ざかっていく。
今度は一度だけ振り返り、帽子のつばへ手を添えた。
俺はベンチに座ったまま、水筒を握っていた。
彼女が残した一人分の隙間には、帽子の丸い跡が残っている。
その跡が消えるまで、俺は立てなかった。
●
木陰のベンチで彼女が笑った。
白い帽子を彼女が端へ寄せた。
膝の文庫を閉じて彼を待った。
少年の靴音が今度は近づいた。
彼女の視線が頁から彼へ移る。
銀の水筒を彼女が受け取った。
帽子のつばを風が持ち上げた。
彼女は押さえず彼へ微笑んだ。
少年は彼女の隣へ腰を下ろす。
二人の間を蝉の声が満たした。




