第七話 パジャマくん。
鍋から立ち上がる湯気。
小気味いい包丁のリズム。
すぐ隣の彼の手元から聞こえる。
久しぶりにきた彼の部屋は相変わらず。
見慣れたマグカップ。調味料の並び。
前とそのまま、変わっていなくて。
それだけで、頬が少し緩んだ。
「「あ、ごめん」」
キッチンで、二人の動線がぶつかる。
同じタイミングで身を引いて、また少しだけ重なる。
それだけで、ちょっとおかしくて。
彼をみると、同じ表情。
そのまま二人で笑い合った。
ひと通り落ち着いて、
ベッドに並んで腰を下ろす。
私はテレビ、彼はスマホ。
パジャマ姿で、それぞれ勝手に過ごしている。
ときどき、お互い見ているものに触れながら。
テレビから流れる旅行番組をみて、
来週行ってみる?なんて当たり前に話が進む。
そんな当たり前が、心地いい。
――夜が、静かに沈んでいった。
淡い光の中、
部屋の中に呼吸だけが残る。
言葉が途切れて。
その沈黙が少しだけ、長く感じられた。
視線が、外せない。
彼の指が、頬をなぞる。
あたたかい指先。
けれど、触られている実感だけがほんの少し遅れる。
そのまま指先が髪に滑り込んできて。
目が、合う。
言葉を挟む余地なんて、
最初からなかった。
彼の視線が、私の唇に落ちる。
遅れて、指先がそれをなぞる。
ゆっくり近づいて。
けれど、何も言わないまま。
唇が重なる――
世界が、消えた。
音も、輪郭も。
思考さえも、途中でほどけて。
ただ触れた熱だけが、ゆっくりと溶けていく。
「……ん」
息が混ざって、うまく呼吸できなくなる。
どちらのものか分からない吐息だけが鮮明で。
触れて、離れて、また触れて。
唇の隙間から、かすかな熱が行き交う。
どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。
息が戻ってきたとき、彼の瞳がすぐそこにあった。
――どうしようもなく、ただ愛しい。
何か言わなきゃ、と思う。
でも言葉は、どこにも見つからない。
胸の奥に広がる熱だけが、たぶんそれを知っている。
彼が、かすかに笑う。
「……水、取ってくる」
その声がやさしくて、胸の奥がふっと緩む。
でもその優しさが、少しだけ寂しい。
パジャマ越しの体温が、離れて。
ベッドの端がわずかに沈む。
その瞬間。
反射のように、息と一緒にこぼれた。
「……璃央」
彼が振り返る。
柔らかな光の中で、こちらを見る。
「なに?」
「……なんでも、ない」
彼は、ふっと笑む。
全部見透かしているように。
「すぐ戻るよ」
扉が静かに閉まる。
夜が、静けさを取り戻す。
唐突に、部屋が広く感じた。
璃央がただ、部屋を出ただけなのに。
そっと、璃央がいた場所に手を置いた。
確かな温度がまだ、残っていた。
寂しくて、苦しくて、早く戻ってきてほしくて。
触れたまま、しばらく手を離せなかった。
ふと顔を上げたとき、
引き出しがわずかに開いているのに気づいた。
綺麗なネイビーの小さな箱が覗いていた。
星モチーフの下に、
『ASTEL & ELIN』。
……三浦さん。
そういえば。
彼のキービジュアルが好評で、
問い合わせが増えたと聞いた。
『モデルは誰なのか』
そういう連絡も、来ているみたいで。
別件の打ち合わせのとき、三浦さんは嬉しそうに言っていた。
その帰り際。
彼に、何かを手渡していたのを思い出す。
……サンプル?
その時、璃央の足音が聞こえた。
その音に、思考を遮られる。
次の瞬間、扉が開いて。
ペットボトルの水を片手に、彼が戻ってきた。
そっとテーブルの上に置くと、また私の隣に腰を下ろす。
そのまま覗き込むように、私を見てきて。
「……まだ足りないって顔、してる」
「してない……っ」
挑発的な温度で。
意地悪な視線で。
甘さを含んだ言葉で。
私をこんなにも簡単に翻弄する。
「続き、ほしい?」
「……っ」
でも、悔しいけれど。
そのたび、何度でも。
そんな璃央に惹かれてしまう。
――何度も、初めてになる。
ただの夜。
ただの会話。
同じ時間は、
きっと、続いていく。
「顔、赤くなってる。かわいい」
それでもこれから先、
また違う璃央を知っていくのだろうと。
そんな予感だけが、静かに残っていた。




