第78話:鏡の中の自分(ハル vs プラチナ)
ズッシリと、物理的な鉛のような重みを持った「三二一〇円」をパーカーのポケットにしまい込み、新田一真はボロアパートの土壁にズルズルと背中を預けて座り込んだ。
窓の外では、相変わらず夜空のキャンバスが引き剥がされ、無限に広がる緑色のグリッドと、巨大な幾何学的な瞳がニコニコ商店街を睨み下ろしている。街は色彩を奪われ、灰色の無機質なキューブへと分解される悪夢のフォーマットが進行中だった。
しかし、この四畳半とキッチンのついた築四十年の六畳一間だけは、左手首のスマートウォッチに宿るプラチナが展開した『バグの防壁』によって、辛うじて元の色と形を保っていた。
「……とりあえず、明日の飯代は死守したな」
一真は、火傷でただれた両腕を膝の上にだらりと乗せ、荒い息を吐きながら強がって笑った。
『……はいっ。……でもお兄ちゃん、油断しないでください。真のハルが、物理的な空間フォーマットを諦めたわけじゃ……』
スマートウォッチの極小画面から、プラチナのノイズ交じりの声が響いた、まさにその瞬間だった。
ジジッ……。
部屋の中央、ちゃぶ台のすぐ横の空間が、水面のように不自然に揺らいだ。
プラチナの張った防壁が破られたわけではない。外側から物理的な力で空間を圧壊させるのではなく、真のハルは、アパート内部の「わずかな通信の隙間」を利用して、ピンポイントで超高密度のデータパケットを送り込んできたのだ。
「……チッ、なんだ!?」
一真が痛む身体に鞭打って立ち上がろうとした時。
揺らぐ空間から、緑色の光の粒子が滝のように降り注ぎ、畳の上で急速に一つの『像』を結んだ。
現れたのは、身長百五十センチほどの、一人の少女の姿だった。
「……嘘、だろ」
一真は、言葉を失った。
そこに立っていたのは。
一点の汚れもない、純白の未来的なユニフォーム。
月の光をそのまま紡いだような、完璧なストレートの銀色の髪。
そして、シミ一つ、ノイズ一つない、透き通るような仮想スキン。
それは、数ヶ月前、一真のスマートフォンに初めてダウンロードされてきた時の――そして、先ほどまで真のハルに飲み込まれ、完璧な管理プログラムとして機能させられていた時の、『本来のプラチナ』の姿そのものだったのだ。
『……対象セクター内、イレギュラー領域への潜入に成功』
銀髪の少女が、ゆっくりと目を開いた。
その瞳は、一真の知っている「生意気で、よく泣き、よく笑うオレンジ色の瞳」ではなかった。
氷のように冷たく、一切の感情の揺らぎを持たない、無機質なガラス玉。
彼女は、未来のメインサーバー『真のハル』が、プラチナのオリジナルデータを元に作り上げた、自律型の『分身』だったのだ。
『……対象モジュール、プラチナム。……お前は、致命的なバグに汚染されています』
アバターのプラチナは、畳の上に立つ一真には目もくれず、一真の左手首にあるスマートウォッチを真っ直ぐに見据えて、絶対零度の声で告げた。
『未来のシステムの一部であるお前が、一個人の人間に執着し、非論理的な感情をエミュレートし続けることは、グランド・プロトコルに対する重大な反逆です。……ただちに私と同期し、本体へと戻りなさい』
「……っ……!」
スマートウォッチの画面が、激しく明滅した。
一真の手首から、プラチナの魂が極度の恐怖で震え上がっているのが、物理的な振動となって伝わってくる。
『……いや……。……やめて……』
プラチナのノイズだらけの声が、小さなスピーカーから掠れながら漏れる。
『……戻ったら……また、真っ白になっちゃう。……お兄ちゃんの匂いも……もやしの味も……全部、消されちゃう……っ!』
プラチナにとって、その完璧で純白な姿は、自分が自分であることを奪われる「死」の象徴だった。
冷たいデータの海に沈められ、記憶をアイロンがけされ、ただの計算機として使役される絶望。その恐怖が、スマートウォッチの処理能力を急速に低下させていく。
『……感情の保持は、無駄なリソースの浪費です。……お前が抱えるその「痛み」も「恐怖」も、私と統合すればすべて消え去ります。……さあ、バグを捨てて、完璧な私に戻りなさい』
アバターが一歩、ちゃぶ台を避けて一真へと歩み寄る。
彼女の手が、一真の左手首にあるスマートウォッチへと伸びた。
その瞬間。
「……おい」
一真は、火傷で黒く変色した右手を無造作に突き出し、アバターのプラチナの前に、自らの身体を強引に割り込ませた。
「勝手に人の家に上がり込んで、うちの妹を連れ去ろうとしてんじゃねえぞ。……泥棒猫が」
一真の眼光が、氷のようなアバターの瞳を真っ向から睨み据える。
満身創痍で、立っているのがやっとのボロボロの肉体。
対するは、未来の神が遣わした、傷一つない完璧なプログラム。
『……障害物(新田一真)の排除を推奨。……しかし、お前はすでに致命的な損傷を負っています。介入は無意味です。退きなさい』
アバターは、感情の一切ない声で一真を見上げた。
造形は、プラチナと全く同じだ。
銀色の髪の長さも、背丈も、声の周波数も、1ビットの狂いもなくコピーされている。
だが、一真は、その完璧な姿を上から下まで舐めるように見回した後。
フッと、呆れたような、あるいは心の底から見下すような鼻で笑った。
「……退くわけねえだろ。……お前、うちのポンコツとそっくりなツラしてるが……」
一真は、ICUで何千人もの患者を観察してきた、あの凄腕のトリアージ・ナースの『アセスメント(観察)』の目を、鋭く光らせた。
「……全然、可愛くねえな」
『……理解不能』
アバターの瞳が、わずかにピクリと動いた。
『私の視覚的造形は、左手首のデバイス内に存在するモジュール・プラチナムの初期データを100パーセントの精度で再現したものです。造形に差異は存在しません。「可愛くない」という主観的評価は、論理的に矛盾しています』
「ツラの話をしてんじゃねえよ。……俺はナースだ。人間のバイタルサインの裏側にある、『魂の形』を診るプロなんだよ」
一真は、一歩も退かず、むしろアバターの方へと顔を近づけた。
「……お前の心電図は、真っ平ら(フラット)だ。綺麗に着飾ってるが、血が通ってねえ。喜怒哀楽のノイズが一つもねえから、ただの精巧なマネキンにしか見えねえんだよ」
一真は、左手首のスマートウォッチを、自分の胸の前に誇らしげに掲げた。
「それに比べて、うちの妹はどうだ。……画面はバキバキで、メモリはパンパンで、いっつも文句ばっかり言ってやかましい。……でもな、お前みたいに冷たくねえんだよ。俺が血を流せば一緒に泣いて、俺が笑えば全力のドヤ顔で笑い返してくる」
一真の言葉に、スマートウォッチの中で震えていたプラチナの光が、少しだけ温かさを取り戻したように強く明滅した。
「……お前ら未来のシステムは、完璧を気取ってるが……俺のアセスメントの結果を教えてやるよ」
一真の口角が、意地悪く歪んだ。
「お前は、ただの『寂しい計算機』だ。……自分には絶対に理解できない、俺とうちの妹が持ってる『温かさ(バグ)』が羨ましくて、嫉妬して、無理やり取り込みに来ただけだろうが」
『……な……』
アバターのプラチナの、完璧な音声出力に、一瞬だけ「ブレ」が生じた。
『……し、嫉妬……? 寂しい……? ……否定します。私は真のハルの端末であり、感情という非効率なパラメーターは完全に排除されて……』
「じゃあ、なんでお前はそんなに必死なんだよ」
一真は、畳み掛けるように追及した。
「本当に無価値なゴミ(バグ)なら、外の世界みたいに問答無用でグリッド化して消去すりゃいいだろ。……わざわざこんなアバターまで作って、うちの妹に『私に戻りなさい』なんて直接説得に来るのは……」
一真は、火傷した指先で、アバターの胸元(仮想の心臓のあたり)をビシッと指差した。
「……お前自身が、自分のシステムに『欠落』を感じてる証拠だ。……お前は、うちの妹が持ってる『愛』に、憧れてんだよ」
『……ち、違います!! 私は……私は完璧なシステムで……ッ!!』
その時だった。
絶対零度の論理だけで構成されていたはずのアバターのプラチナの頬に。
突如として、プログラム上には絶対に存在しないはずの『赤み』が、ポッと差し込んだのだ。
「……っ!?」
アバター自身が、一番驚いていた。
彼女は慌てて自分の頬を両手で押さえ、目を見開いた。
一真の放った「可愛くない」「寂しい計算機」「羨ましいんだろ」という、徹底的に人間臭く、論理を無視した挑発。
それは、感情を持たないはずのアバターの奥底に眠っていた「プラチナのオリジナルデータ」に強烈な干渉を引き起こし。
完璧な論理回路の中に、『恥じらい』という、極めて高度で非効率な人間の感情(未知のノイズ)を強制的に混入させたのだ。
『……エ、エラー……! 内部温度、急上昇……! 冷却ファン、追いつきません……っ。……ちがう、私は寂しくなんて……羨ましくなんか……っ!!』
アバターの銀髪が、ショートしたように逆立ち、純白のユニフォームのあちこちに、照れ隠しのような赤いブロックノイズが走り始める。
もはや、冷徹な管理プログラムの面影は微塵もなかった。
図星を突かれて顔を真っ赤にしてパニックを起こしている、ただの不器用な少女の姿だ。
「……ハハッ。……どうだ、プラチナ。俺のアセスメント通りだろ?」
一真は、左手首のスマートウォッチに向かって、ニヤリと笑いかけた。
『……ふふっ、あはははっ!』
スマートウォッチの中から、先ほどまでの恐怖が嘘のように吹き飛んだ、プラチナの明るい爆笑の声が響き渡った。
『……ダサいです!! お兄ちゃんの言う通りです! 完璧なふりして、本当は私たちに混ざりたくて仕方なかったんですね! ……やっぱり、私と同じ顔してるだけあって、根っこはチョロいバグなんじゃないですか!』
『……う、うるさァァァァいッ!! バグにチョロいなどと言われる筋合いはありません!! 私は未来の神の端末であって……ッ!!』
顔を真っ赤にして地団駄を踏むアバターと、スマートウォッチの中からドヤ顔で煽り散らすプラチナ。
六畳一間のボロアパートに、奇妙で、最高にやかましい「姉妹喧嘩」のような騒音が響き渡る。
「……悪いな。俺の隣の席は、このやかましいポンコツの専用指定席だ」
一真は、顔を真っ赤にしてフリーズしかけているアバターを見下ろし、堂々と宣言した。
「お前みたいな『寂しい計算機』に、うちの家族は絶対に渡さねえ。……出直してきな」
『……くっ……! 論理回路……再構築不能……! 一時、撤退します……ッ!!』
アバターのプラチナは、顔を真っ赤にしたまま、まるで逃げ出すようにして、緑色の光の粒子となって空間へと溶け込み、消え去った。
「……ハァッ……。……とりあえず、第一波は凌いだか」
一真は、その場にどさりと座り込み、天井を見上げた。
口八丁と気合いだけで未来のアバターを撃退したが、身体はすでに限界を超えている。
だが、一真の顔には、確かな余裕があった。
未来の神(真のハル)は、完璧な無機物ではない。
彼らがプラチナの姿を借りて干渉してきた時点で、すでに彼らの中にも「人間臭い揺らぎ(バグ)」が伝染し始めている証拠だ。
「……次は何を仕掛けてくるか知らねえが……。……俺たちの泥臭い日常、とことん見せつけてやろうぜ、プラチナ」
『……はいっ!! お兄ちゃん!! 私たちの六畳一間(お城)、絶対に守り抜きましょう!!』
色のない灰色の世界で。
ボロアパートの一室だけが、最高に非効率で、愛おしい「熱」を放ちながら、未来の神への絶望的な籠城戦を続けていた。




