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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第5話:『一万三千円の、贅沢な無駄』

 新田一真にった かずまの指先が、ATMから吐き出された紙幣の感触を、確かめるようにゆっくりとなぞった。


 一、二、三……。


 一万円札が一枚と、千円札が数枚。

 そして、ジャラジャラと重たい音を立てて落ちてきた小銭が少々。


 三日間、炎天下の建築現場で泥にまみれ、住宅予定地の頑固な雑草と格闘し続けて手に入れた、血と汗の結晶だ。

 元々の残高と合わせれば、現在の所持金は一万三千円強。


 一週間前、画面の割れた中古スマホに映る「三二一〇円」という絶望的な数字に呼吸を止めていた男にとって、それはもはや国家予算にも匹敵する巨万の富に思えた。


(家賃の更新料の積立に五千円。光熱費の予備に三千円。残りの五千円を食費に回せば、一日あたりの許容コストは一気に跳ね上がる。……跳ね上がる? ふっ、笑わせるな。世間じゃそれを『底辺』と呼ぶんだ)


 自嘲気味な思考を打ち消すように、パーカーのポケットの中でスマホが激しく震えた。


「マスター! 見てください、この美しい右肩上がりのグラフを! 私たちの総資産が、前日比で約三〇〇パーセントの爆発的成長を遂げました! これこそが一真様の労働力と、私の完璧なスケジュール管理による相乗効果シナジーです! さあ、祝杯の準備を!」


 無人になった夜のATMコーナー。

 スマホの画面から這い出したプラチナが、物理法則を無視してくるくると回転し、祝砲のようなノイズと光の紙吹雪を撒き散らしている。

 銀色の髪が歓喜に揺れ、彼女の瞳には「効率」という名の勝利の光が宿っていた。


「……静かにしろ。一万そこらで浮かれるな。駅前の浮浪者だって、いい日はもっと稼いでる」


 一真は素っ気なく言い放ち、紙幣を折り曲げて財布の奥深くにねじ込んだ。

 だが、その指先はわずかに震えている。


 かつて、人の生死に直結する数千万単位の高度な医療機器を動かし、一晩の当直で何十人もの命を繋ぎ止めていた頃には決して味わえなかった感覚。


 手のひらに残る土の感触と、一万円札の圧倒的な質量。

 それは、彼の「死に体」だった人生に、ようやく微かな血の巡りを感じさせるものだった。


「さあ、マスター! この貴重な軍資金をどう運用しますか? 私の演算によれば、まずは長期保存が可能な高効率栄養素バルクプロテインの一括購入、あるいは私の処理能力を向上させ、一真様の睡眠効率を向上させるための最新デバイスへの投資が最適解です! さあ、ポチりましょう、今すぐに!」


「……不採用だ。投資だの運用だの、そんな小難しいことはしねえ」


「ええっ!? なぜですか! ここで一気に生存インフラを整えなければ、またすぐに三二一〇円の奈落に逆戻りですよ! 効率、効率を最優先してください! 感情は論理に従うべきです!」


 プラチナが必死に食い下がるのを横目に、一真は夕暮れの商店街へと足を踏み入れた。


 古びた精肉店から漂う揚げたてのコロッケの匂い。

 八百屋の親父が売れ残りの大根を叩き売る威勢のいい声。

 帰路を急ぐ人々が放つ、生活の、泥臭い熱気。


 世界は相変わらず不親切で、不条理で、そして……腹が減るほどに、賑やかだった。


「プラチナ。……今日は給料日だぞ」


「給料日……? はい、労働の対価を受け取る日であることは定義されています。ですが、それが私の演算にない特別なパラメーターを付与するのですか?」


「……ああ、あるんだよ。給料日ってのはな、『無駄』をするための日なんだ」


 一真が立ち寄ったのは、商店街の端にある、二十四時間年中無休を謳う小さなコンビニエンスストアだった。


 いつもなら一円でも安い見切り品を探してスーパーを三軒はしごし、ラベルを睨みつけては「一円あたりのカロリー効率」を計算する一真が、迷うことなくチルド棚へ手を伸ばす。


 彼がカゴに入れたのは、自分用の、普段なら絶対に手に取らないプレミアムな缶ビール。それも一本ではなく、奮発して二本だ。

 そして、総菜コーナーにある、不健康なほど分厚いハムカツ。


 プラチナは、その「非効率な買い物」を目の当たりにして、スマホの中で深刻な警告音を鳴らし続けていた。


「マスター、正気ですか!? コンビニの価格設定は、一円を争う私たちの生活にとって、スーパーの特売価格と比較して一五〇パーセント以上の割高です! ビールにいたっては、栄養学的に見れば脱水を促進し、脳細胞を無意味に破壊する毒物でしかありません! 一真様のニューロンが泣いていますよ!」


「うるせえ。……最後に、これだ」


 一真が最後に手に取ったのは、スイーツコーナーの最上段に鎮座していた、金色のラベルが貼られた『最高級・炭火焼プリン』だった。

 一個、二百八十円。特売のもやしなら、十数袋は余裕で買える値段だ。


 手に取ると、ずっしりとした重みと、高級感のあるガラス容器の冷たさが伝わってくる。


「……プリン? 一真様、甘いものは苦手だと仰っていたはずでは? それに、その価格は生存コストの重大な圧迫です! 算出データによれば、これを買うことで明日の昼食のグレードが確実に一段階下がります!」


「……いいから黙って見てろ」


 一真は千円札を支払い、ビニール袋を下げてアパートへと戻った。


 *


 いつもの六畳間。

 一真は、昨日買ってきたばかりの、まだ真新しい無骨な陶器のマグカップをちゃぶ台の上に置いた。

 落とせば割れる、不完全な器。だからこそ、彼はそれを乱暴に扱うことはなく、そっと、音を立てないように置いた。


 そこに、冷えた琥珀色のプレミアムビールをなみなみと注ぐ。

 きめ細かい泡が力強く弾け、豊かな麦の香りが狭い部屋に広がっていく。


 そして、その隣。

 スマホの画面の目の前に、あの金色のラベルのプリンを置いた。


「……ほら。食え。……いや、同期しろ」


 プラチナは、呆然とプリンを見つめていた。

 ホログラムの少女が、スマホの物理的境界線を越えて、プリンの容器に触れようとする。


 もちろん、彼女に実体はない。指先はガラスの容器を通り抜け、光の粒子が虚しく散るだけだ。

 だが、一真がその蓋を開けた瞬間、濃厚なカスタードと焦がしキャラメルの甘く、少しだけほろ苦い香りが、埃っぽい部屋の空気を一変させた。


「……一真様。……これ、私のために……?」


「お前も、この三日間うるさかったからな。深夜にバイブレーションで部屋を破壊しようとしたり、俺の労働中に『塩分補給を!』って勝手に通知を鳴らしまくったり……。……その『無駄な努力』への、手間賃だ。受け取れ」


 一真は、マグカップを持ち上げた。

 プラチナも、少し戸惑いながら、ホログラムのグラスを作り出し、一真のマグカップへとそっと掲げた。


 カチン、という音は鳴らない。

 だが、二人の間には確かな「祝杯」が交わされていた。


 一真は、ビールを一口煽った。

 喉を焼く心地よい苦味と、弾ける炭酸。それが食道を通り、空っぽの胃の腑に落ちていく感触。


「……くぅ、……生きてるな、俺」


「…………」


 プラチナは何も言わず、じっとプリンを見つめていた。

 彼女の銀髪が、感情の揺らぎに合わせて微かな光を放ちながら、ゆるやかに波打つ。


 一真がビールの旨さに目を細めるたび、その「生の躍動」が共鳴レゾナンスシステムを通じて、まるで電熱線のように彼女のコアへと流れ込む。

 プラチナは、そっとホログラムのスプーンをプリンに差し込む仕草をした。


 一真が、実際にプリンを一口食べ、その濃厚な卵のコクと、ほろ苦いキャラメルを脳で味わう。

 その瞬間。

 プラチナのシステム内に、かつて未来のデータバンクで処理してきたどんな巨大な情報よりも、純度の高い、圧倒的な『幸福のログ』が叩き込まれた。


「……あ、……あまい。……あまくて、……この演算処理装置の奥が、ショートしそうなくらい熱くなる味がします」


「……熱いのは、お前のオーバーヒートしそうなチップだろ。プリンなんて、ただ甘いだけの、栄養学的には無意味な食いもんだ」


「いいえ。……一真様が、三二一〇円の防衛線を死守するために、あんなに泥にまみれて働いたのに。……それをこんなに簡単に、私のために使ってくれた」


 プラチナのオレンジ色の瞳が、潤んでいるように見えた。


「その『非効率な優しさ』が、味覚データの解像度を爆発的に上げているんです。……私、今、自分がただのプログラムであることを忘れそうです」


 プラチナは、満面の笑みを浮かべた。

 それは、未来の管理社会で彼女が向けられてきた「完璧な機能への感嘆」ではない。

 不器用な元看護師の残骸マスターからの、対等な「分け前」に対する、等身大の、少女のような笑顔だった。


「マスター。……私、決めました」


「……何をだよ。またろくでもねえ大掃除か?」


「いいえ。……私、もっともっと、一真様を『お世話』します。もやしの十円の安さを笑い、プリンの三百円の無駄を慈しむ。そんな、マスターの不器用で最高に人間臭い生き方を、世界で一番近くで記録し続けます。……たとえ、未来のシステムが『それは重大なエラーだ』と叫んでも」


 一真は、使い古されたライターの火を一度だけ灯し、そしてすぐに消した。

 三二一〇円から始まった話が、いつの間にか「一万三千円で少女にプリンを買う話」になっていた。

 そのことの滑稽さと、不思議な充足感が、じわじわと胸に広がる。


 かつての自分は、もっと機械的だった。

 患者を救うのは「仕事」であり、救えなかったのは「確率」だった。そう割り切らなければ、心が摩耗して死んでしまうと思っていたからだ。


 だが、今の自分は、スマホの中のポンコツAI一人を喜ばせるために、三日間も泥にまみれて働いた。

 その非効率な充足感が、一真の凍りついていた「人間」としての部分を、ゆっくりと解かしていく。


「……一真様。私は、未来から来ました。そこには、飢えも、三二一〇円の絶望もありません。……でも、そこには一真様の不器用なプリンもありませんでした」


 プラチナの声が、かつてないほど澄んだ響きを持って六畳間に広がる。


「……マスター。……私、……未来に帰りたくなくなっちゃいました」


「…………」


 一真は、何も言わなかった。

 残っていたビールの最後の一滴を飲み干し、空になったマグカップをちゃぶ台に置く。

 コトリ、という陶器の重たい音が、部屋に馴染んだ。


 スマホの画面の前には、プリンが半分だけ残っている。

 明日の朝、プラチナが目覚めた時に、まだそこにあるように。


「……アホ。帰りたくても、帰り方すら分かんねえだろ、お前。エアコンすら直せねえポンコツなんだから」


「あわわ! またそれを言いましたね! 私、今の言葉を『最上級の未練肯定』としてバックアップしておきますから!」


「……勝手にしろ。……寝るぞ」


 電気を消す。

 暗くなった部屋に、プラチナのホログラムだけが、薄い光の粒となって漂う。


「……おやすみ、プラチナ」


「おやすみなさいです、マスター。……今夜は、何もしません。約束します」


「……信用してねえけどな」


 一真は目を閉じた。

 プリンの甘い余韻が、まだ喉の奥に残っている。

 それだけで、今夜は十分だった。

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