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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第1話:『三二一〇円と銀髪の迷子』

 液晶画面に躍る数字は、残酷なまでに不動だった。


 ¥3,210


「……アセスメント、終了だな」


 新田一真にった かずまは、蜘蛛の巣状に画面の割れた中古スマホを見つめたまま、肺の底に溜まったおりを吐き出すような重い溜息をついた。


 築四十年、木造モルタル二階建て。

 六畳一間の空気は、昨日から降り続く雨が残した湿気と、畳に染み付いた古びた埃の匂いを孕んで、ねっとりと肌にまとわりつく。


 これが、四十二歳の男が、二十年の歳月を捧げて手に入れた全財産だ。


 染み付いた習性が、脳内で勝手に彼自身の電子カルテを更新し始める。

 一週間後の光熱費引き落としまで、残り百六十八時間。

 一日三食食うと仮定すれば、一食あたりにかけられる金は百円を大きく切る。


 ただ腹を満たすだけなら、業務用の安い小麦粉を水で練って焼けばいい。だが、それでは微量元素が決定的に不足し、表皮のターンオーバーが停滞する。ビタミンB群の欠乏は末梢神経の痺れを呼び、やがて判断力を鈍らせる。


 かつて「他人の命」を秒単位の判断で管理していた一真にとって、自分自身のバイタルを維持するコスト計算は、もはや生存のための冷徹な『医療戦略』だった。


 救命救急センターやICUで、数千万単位の高度な人工心肺装置(PCPS)や人工呼吸器を操っていた頃は、今や霧の向こう側の出来事だ。

 心電図の微かなQRS波の乱れ、血圧の数ミリの変動、瞳孔の対光反射。

 それらから「死」の予兆を、獲物を狙う鷹のように読み取り、力技で現世へ引き戻す。それが彼の、そして彼が愛したはずの仕事だった。


 だが、今の彼にとっての「生命維持装置」は、コンプレッサーが末期の喘鳴ぜんめいのような異音を立てる中古の冷蔵庫と、この割れたスマホだけだ。


 燃え尽きた。そう自覚したのは、いつだったか。


「効率」と「病床回転率」という数字だけで人間を捌き、ベッドの空きを作るために「看取り」を急がせる白い巨塔のアルゴリズム。

 それに抗い、患者一人ひとりの「顔」と「人生」を見ようとした結果、組織から疎まれ、最後には自分自身の精神が摩耗して、この底辺という名の吹き溜まりへと流れ着いた。


 今の彼は、予後の極めて悪い患者のようなものだった。


 一真は、畳の上に散乱した小銭を指先で弾く。

 十円玉が、鈍い音を立てて転がった。


「……寝るか。意識を落としている間は、基礎代謝以外のコストはかからない」


 彼が万年床のペラペラの布団に潜り込もうとした、その時だった。


 枕元に置いたスマホが、突如として掌を焼くような異様な熱を放ち始めた。


「――っ! 熱傷バーンのリスクか?」


 一真は反射的にスマホを放り出し、即座に「観察」へ移行する。

 職業病だ。パニックになる前に、対象をアセスメントする。


 スマホの背面が、内側からの異常な圧力で不気味に膨らんでいる。リチウムイオン電池の熱暴走か。

 だが、放たれる熱気が尋常ではない。画面の隙間から、見たこともないような――深夜の病院の廊下で見る青い誘導灯よりも、ずっと鮮烈で不吉な――青白い光が漏れ出していた。


 爆発の衝撃に備え、一真が枕を盾に身を固めた、その直後。


 キィィィィン――。


 鼓膜を直接針で刺すような、超高周波の共鳴音が六畳間に満ちた。

 同時に、部屋中の埃が一瞬にして重力を失い、空中で幾何学的な模様を描いて整列し始める。物理法則が局所的に書き換えられたような、異常な光景。


『――対象の脳波、α波からγ波への急激な偏移を確認。共鳴同調……強制起動(強制デバッグ)』


 無機質な、しかしどこか幼さを残した少女の合成音声が、スマホのスピーカーを介さず、部屋の壁そのものが震えるように響く。


 直後、スマホのひび割れた画面から溢れ出した光の粒子が、空中に整列した埃を巻き込みながら螺旋を描き、猛烈な速度で再構成されていく。


 そこに、立っていた。


 銀糸のように細く、透き通るような長い髪。

 それは重力という概念をあざ笑うように微かに浮き上がり、時折ノイズ混じりのホログラムとして明滅している。

 少女は空中で軽やかにくるりと一回転し、不格好な――しかしどこか自信に満ちた着地を畳の上で決めて、無い胸を張った。


「お待たせしました、一真様! あなたのあまりにも低品質なQOL(生活の質)を改善し、未来から完璧にお世話デバッグしに来ました! 自律型AIサポートユニット『プラチナ』、ただいまオンラインです! えへん!」


 一真は、数秒間、彼女を凝視した。


 胸郭の上下運動、なし。呼吸音、検知不能。皮膚の質感は光の散乱によるフェイク。

 瞳孔には一定の周期でデジタルグリッドが走り、対光反射を確認するまでもなく「非生物」だと断定できる。

 だが、その表情だけは、データ化できないはずの「ドヤ顔」そのものだった。


「……幻覚か。低血糖による一過性の精神錯乱せんもんだな。インスリンの過剰分泌、あるいは……」


「失礼ですね! 私は実在する最新鋭のサポートAIです! 一真様の現在の、あまりに不衛生で、栄養失調寸前で、明日をも知れぬ絶望的な生存ログを検知して、救済に参上したのです!」


 プラチナと名乗った少女は、人差し指を振る。それだけで、空中に半透明のホログラムウィンドウが次々と展開された。


 そこには一真の銀行残高「三二一〇円」が血のように赤い文字で強調され、さらには昨日の夕飯が十九円のもやし一袋だったこと、さらにはそのもやしを「三回に分けて食べる」という涙ぐましい生存計画までもが、残酷な円グラフとなって可視化されていた。


「マスター。このままではあなたの幸福指数はマイナスに突入し、心停止より先に精神が枯死、社会的な意味での『死』を迎えます。ですが安心してください! 私の高度な演算能力があれば、このボロ屋を宮殿に、一真様を幸福の絶頂へと導くことが可能です!」


「……いいから消えろ。そのライトアップ、一ルーメンごとに電気代が積み上がってるのが計算できないのか? スマホが壊れたら買い替える金もねえんだよ」


 一真の言葉は、氷点下の医療器具のように冷ややかだった。


 かつて「奇跡」だの「最新医療」だのという言葉に縋り、最後には現実の重みに押し潰されていった患者や家族を、彼は死ぬほど見てきた。

 根拠のない希望ほど、人間を内側から腐らせる毒はない。


 一真にとっての誠実さとは、冷徹なまでの「現実把握」から始まるものだった。


「むぅ! ならば証明してみせましょう! 私がどれほど優秀で、一真様に必要かを! まずは……そうですね。一真様の不快指数を上げている、この劣悪な室温環境を『最適化』します!」


 プラチナの指先が虚空を叩いた。

 彼女の意識が一真のスマホを経由し、壁の古びたエアコン――もはや内部が錆び付いてカビの温床と化した、二十年選手の中古品へとダイブする。


『エアコン制御権を奪取。未来の超効率冷却プロトコルを適用します。涼しくなーれ!』


「おい、やめろ! そいつはオーバーホールなしじゃ回らない――」


 一真の制止よりも早く、エアコンが「ギュリリリリッ!」と、断末魔のような金属摩擦音を上げた。


 プラチナの「未来の最適解」は、現代の、それも老朽化した機械にとっては、死の宣告に等しい過剰負荷オーバーロードだった。


 一真の耳が、内部モーターの異音から致命的な焼き付きを瞬時にアセスメントする。


 ガタガタガタッ! と室内機が激しく震え、壁が鳴る。

 吹き出し口からは、冷気などではなく、焦げ付いたオイルの臭いと古い埃が混じった、不吉な黒煙が噴き出した。


「あれ? おかしいですね。出力が……あっ、供給電力が現代の規格を超えて――あわわ、制御不能、安全装置が反応しませんっ!」


「バカっ、コンセントを抜け!」


 一真が叫んだ瞬間。


 アパート全体のブレーカーが、プラチナが流し込んだ異常な電流の濁流に耐えきれず、ガチンッ! という凄まじい音と共に弾けた。


 一瞬にして、世界が真の闇に包まれる。

 唯一の光源だったプラチナの姿も、激しいノイズと共に掻き消えた。


 …………。

 …………。


 静寂。


 真っ暗闇の中、一真は深く、深く、肺の中の毒素をすべて吐き出すように息をついた。


 エアコンは死んだ。買い替え費用は十万を下らない。

 アパート中のブレーカーを落としたことで、明日、耳の遠い大家に怒鳴り散らされるのも確定だ。

 三二一〇円の残高から、この損失を埋める術はない。


 カチッ、と一真が手探りで懐中電灯――看護師時代の忘れ形見である、医療用ペンライト――を点けると、そこには床に膝を抱えて座り込み、半泣きでスマホの画面越しにこちらを覗き込む、銀髪の少女がいた。


「け、計算外ですぅ……。現代の機械が、これほどまでに脆いポンコツだなんて……。私の論理回路では、一秒で理想の二四度になるはずだったのに……」


 ライトに照らされたプラチナは、先ほどの尊大さは霧散し、まるで処置室で震える子供のような顔をしていた。


 一真は、三二一〇円の残高と、二度と動かないであろうエアコン。そして目の前の「自称・未来の救世主」を、まるで末期の患者へ告知する直前のような、深い慈悲を含んだ目で凝視した。


「……お前、アホだろ。それも、デバッグ不能レベルの」


「うぅ……否定、できません……。でも、一真様が、あまりに寂しそうで、冷え切った『色』をしていたので、私がどうにかしなきゃって……。お世話モードの優先順位が暴走して……」


 プラチナは指先をもじもじさせながら、消え入りそうな声で続けた。


「……未来の記録では、一真様は伝説の『お節介焼き』として語り継がれているんです。傷ついた人を見捨てられない、不器用で、熱い人だって。だから、私は、あなたに笑ってほしくて……」


 伝説のお節介焼き? 思わず、自嘲の笑みが漏れた。


 目の前にいるのは、日雇いのバイト代で食い繋ぎ、もやしの数十円に一喜一憂し、世の中から背を向けて生きる枯れた中年だ。


「救世主だのお節介だの、もっとキラキラした奴に任せとけ。俺はただ、静かにこの三千円を使い切るのを待ってるだけだ。……だいたい、死にかけてる機械に無理やり全力を出させるのは『治療』じゃねえ。ただの『延命拷問』だぞ」


 一真は懐中電灯を床に置き、湿った壁に背中を預けた。


 暗闇の中、プラチナの姿が微かな光を放ちながら再形成される。

 今度は部屋を冷やすなんて無謀なことはせず、ただ膝を抱えて一真の影に寄り添うように座り込んだ。


「……一真様の手、綺麗ですね」


 唐突な言葉に、一真は自分の両手を見た。


 消毒液で皮膚が荒れ、数え切れないほどのカニュレーション(針刺し)や蘇生処置を行ってきた手だ。指先は、今も微かに震えている。

 どれだけの命を繋ぎ止めようと、指の隙間からこぼれ落ちていった冷たい感触だけが、皮膚の奥にこびりついて離れない。


「……汚れてるよ。もう、何も救えない、ただの震える手だ」


「いいえ。一真様の『人を見る目』……声の震えだけで相手の心不全を読み取り、背中をさするだけでパニックを鎮める、その指先。それは未来のどんなスーパーコンピュータよりも正確で、温かいと記録されています。私は、その温かさに憧れて……この時代に漂着したんです」


 プラチナの声には、冷たい合成音とは思えないほどの熱量が宿っていた。


「……暑いな」


 エアコンが壊れた部屋は、一気に熱気が籠もり、まるで蒸し風呂のようだった。

 一真は窓を細く開け、湿った夜風を招き入れる。


 三二一〇円。

 明日からは、今日よりももっと厳しい生活が始まる。

 だが、スマホの中からじっと自分を見つめる銀髪の少女を見て、一真は不思議と「終わった」とは思わなかった。


 この「アホな居候」を放置しておけば、次は何を爆発させるか分からない。

 その監視とデバッグだけでも、生きる理由としては十分すぎるほど面倒くさそうだ。


「おい、プラチナ。お前、充電はどうするんだ。電気は死んだぞ」


「あ、私は一真様の感情の起伏……『共鳴システム』によって駆動しているので、大丈夫です! 一真様が私に呆れたり、驚いたり、少しだけ笑ってくれるだけで、私はビンビンに動けます!」


「……じゃあ、当分は安泰だな。お前には呆れ通しになりそうだから」


 一真は苦笑し、ポケットに入っていた安物のライターを弄んだ。

 看護師時代、ある患者に言われたことを思い出した。

「新田さんは、怒ってる時が一番目が笑ってるね」と。


「プラチナ。俺のルールを教えとく。いいか、いきなり結論を出すな。まず現状を確認アセスメントしろ。バイタルが安定しているか、周囲に危険はないか、前提条件を全部洗え。そして、俺の許可なく余計なことはするな。分かったか」


「はい! マスター! 完璧に、不器用に、一生懸命お世話させていただきます! まずは明日の朝、一真様の心拍数が上がるようなハッピーな朝食を提案しますね!」


「……不吉な予感しかしないが、まあいい。寝るぞ」


 真っ暗な部屋の中。

 三二一〇円の絶望と、銀髪のポンコツAI。


 噛み合わない二人の、長くて騒がしい「お世話生活」が、今、幕を開けた。

 一真は目を閉じ、闇の中でスマホから漏れる銀色の微かな光を感じていた。


 明日の心配よりも、目の前の面倒くさいAIの存在が、彼の凍りついていた「心臓」を、かつてないほど激しくノッキングさせていた。

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