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墨華宮の昼寝猫  作者: naomikoryo


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第三十話:墨華宮の昼寝猫

昼下がりの墨華宮は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。


高く澄んだ空。


風に揺れる梅の香。


どこかから聞こえる、小鳥のさえずり。


書庫室の扉が、ゆるりと開いた。


「……また寝ている」


麗華が、少し困ったような笑みを浮かべる。


奥の机に頬杖をついたまま、うとうとと舟を漕ぐ女。


李 雪蘭。


元・軍師、元・月影。


今はただの記録官であり、この墨華宮に棲みつく“昼寝猫”だった。


「ほら、起きてください。もう茶の時間ですよ」


「……むにゃ、あと五頁……」


「五分じゃなくて、五頁? 寝言まで文官ですか」


麗華は呆れたように言いながら、机の脇に小さな茶盆を置いた。


香り高い白毫銀針。


小さく切った干し柿。


それらの香りに釣られてか、雪蘭がようやく目を開けた。


「……麗華」


「お目覚めですか?」


「うん。夢を見ていたの」


「また、“月”の夢?」


「違う。今度は“猫”の夢」


「猫?」


「ええ。墨華宮の屋根で、昼寝ばかりしている猫。誰に呼ばれても起きないくせに、風の音だけには耳をぴくぴく動かすの」


麗華は、雪蘭の髪を撫でながら笑う。


「……それって、あなたのことでは?」


「ふふ、やっぱり?」


二人の笑い声が、書庫室の中で響いた。


とても小さく、けれど、確かに温かく。


◆◇◆


日が傾きはじめる頃、雪蘭は帳面を一つ閉じた。


それは、「正史記録官 李 雪蘭」の名前で綴られた最新の帝国記録。


そこには、月の国の終焉も、衛 懐遠の裁きも、金 逸臣の証言も、すべて記されていた。


「これで、ひとつの時代が終わったのですね」


「ええ。記録として残された以上、“それ”はもう誰にも消せない」


「……雪蘭様。これからは、何を書きますか?」


問いに、雪蘭は少しだけ黙って、ふと笑った。


「そうですね。“何も起きなかった日々”を書きたいです」


「なにもない日々、ですか?」


「そう。誰かが陰謀を巡らせるわけでも、誰かが流罪になるわけでもない。花が咲いて、茶を飲んで、昼寝をして……そんな日々」


「それを、“記録”するんですか?」


「ええ。だって、それもまた“歴史”ですから」


麗華は、少しだけ目を細めて、彼女を見つめた。


「……あなたは、やっぱり昼寝猫です」


「なら、あなたはその隣の“番犬”ですね」


「それなら……もう、逃がしませんよ」


「ふふ。うれしい」


雪蘭は、そっと目を閉じる。


陽光が紙の上に差し込み、墨の香が微かに舞う。


風が吹いた。


どこかで猫の鳴き声が聞こえた気がした。


けれど、それはきっと空耳だ。


ここにはもう、“月影”も、“敵”も、“戦”もいない。


ただ、墨と紙と、穏やかな時間があるだけ。


「麗華、眠ってもいい?」


「どうぞ、私が見張っていますから」


「……ありがとう」


李 雪蘭は、静かに机に伏せた。


まるで、世界に背を向けるように。


けれどその背中には、何の重荷もない。


墨華宮の昼寝猫は、今日もまた、春の陽のなかで眠る。


その夢の中では、たぶん猫が屋根の上で丸くなっている。


誰にも邪魔されず、誰にも縛られず。


ただ、静かに、眠っている。


――完。

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