番外編『麗華記』①:白き猫と、沈黙の宮
墨華宮――
帝都の一角にある、最も静かで、最も忘れられた場所。
衛士の間ではこう囁かれていた。
「あそこには幽霊猫が棲んでいるらしいぞ」
「書庫にずっといて、誰とも喋らないってな」
「目が合うと、記憶を抜かれるんだとよ」
下らない噂。
でも、その言葉の響きが、なぜか耳に残っていた。
……そして今、その“幽霊猫”と呼ばれる女の、真向かいに座っているのが、このわたしというわけだ。
名を、麗華という。
元は、皇帝直下の近衛女官隊に所属していた。
剣術も書法も一通りこなし、過去には二度、謁見の場で警護に当たったこともある。
それなりの誇りが、あった。
けれど、ある日を境に、わたしは異動を命じられた。
「記録部局・墨華宮補佐」
左遷――とまではいかない。
だが、“現場”から外されたことに変わりはなかった。
周囲は皆、同情とも蔑みともつかない目を向けてきた。
わたし自身も、そう思っていた。
「なぜ記録官なんて……護衛を外すほどの失態はしていないはずなのに」
だが上司は、わずかに口角を上げて、こう言ったのだ。
「まあ、行ってみれば分かるさ。“あの人”の隣というのは、そう簡単なものじゃない」
“あの人”――李 雪蘭。
墨華宮に配属されてから二年。
帝国最年少で文官に登用された才媛。
……と、記録にはある。
だが実際には、誰も彼女のことをよく知らない。
現に、墨華宮には人の気配がほとんどない。
わたしが最初に足を踏み入れたときも、そこにはたったひとりの女が、無言で机に向かっていた。
白い衣。
結わえた黒髪。
俯いた横顔には感情の影が薄く、まるで彫像のようだった。
……ああ、これが。
「幽霊猫」――
誰かがそう呼んでいたのを思い出した。
眠そうに見えて、決して眠らない。
人と交わらず、音も立てない。
でも、静かに、記録の中に“噛みつく”女。
「幽霊」なんて呼ばれても、本人はまるで気にしていないのだろう。
わたしに向けられたのも、ただ一言だけだった。
「どうぞ、お好きな席へ」
それきり。
声をかけなければ、雪蘭は一日中、何も話さない。
まるで本当に、“言葉を使わなくなった人間”のようだった。
(……これが、記録官?)
驚きと、少しの苛立ち。
でも、それ以上に感じたのは――
(この人は、一体何を見て、何を考えているの……?)
という、得体の知れない違和感だった。
◆◇◆
数日が過ぎた。
わたしは淡々と書類の整理や写しの補助をこなした。
近衛隊にいた頃に比べれば、単調な作業だ。
でも――つまらなくは、なかった。
それは、雪蘭の筆跡を見たときに気づいた。
どの記録も、簡潔で、整っていて、そして美しかった。
整然とした文。
余白の取り方。
墨の濃淡。
まるで筆先だけで物語を描いているようだった。
「……綺麗な、字ですね」
ある日、そう呟いた。
無意識だった。
けれど、雪蘭はふと、こちらを見た。
「そう、思いますか」
初めて、目が合った。
驚くほど、静かな瞳。
感情がないのではない。
深く、深く沈められているだけ。
(この人は……本当は、何を隠してるの?)
なぜだろう。
そのとき、雪蘭の瞳の奥に“孤独”を見た気がした。
それから、わたしは時々、話しかけるようになった。
返事は少ない。
でも、ほんのわずかに頷いたり、目線を向けたり。
猫のしっぽが、机の下で揺れるように。
気づけば、わたしの心にも変化が生まれていた。
(……少し、楽しいかもしれない)
人に言ったら笑われるだろう。
護衛官から記録補佐なんて、落ち目だと。
でも、そうじゃない。
この人の隣には、“ただの護衛”では見えなかった世界がある。
誰も知らない帝国の、裏の記録。
誰も語らなかった“何か”を、あの人は記そうとしている。
それが何かは、まだ分からない。
でも、知りたいと思った。
この人の中にあるものを、もっと。
(幽霊猫、か……)
わたしはふと、微笑んだ。
なら、その猫の隣にいるのは――
そうだな。
夜に目を覚ましたまま、眠れなくなった者でいい。
夢のない猫と、夢を失ったわたし。
ふたりで夜を越えるのも、悪くない。




