第二十話:語られざる契約
裏切り者。
その言葉の毒は、李 雪蘭の心を深く深く蝕んでいた。
故郷が帝国に滅ぼされたこと。
それは力及ばずという、仕方のない現実であった。
だが内側から腐り、崩れ落ちていたのだとすれば話はまったく違う。
彼女が信じ、命を懸けて守ろうとしたすべてが汚されていく。
その悍ましい事実に、雪蘭はもはや眠ることさえできなくなっていた。
書庫室の寝椅子に横たわっても、その瞼の裏に浮かぶのは故郷の最後の光景と、金 逸臣の血を吐くような叫び。
『影の将軍』を探す戦いは、いつしか彼女自身の過去を清算するための、弔い合戦へと意味を変えていた。
◆◇◆
麗華と雪蘭は麒麟堂で、皇帝・暁 飛燕にすべての事実を報告した。
金 逸臣が語った『裏切り者』の存在。
麗華は、飛燕がこの新たな情報を、宰相を追い詰めるための格好の武器として利用するだろうと考えていた。
だが、飛燕の反応は彼女の予想とは少し違っていた。
彼はもちろん、この新たな遊戯の展開に興奮していた。
だがそれ以上に、彼は目の前の雪蘭の、その壊れそうな姿から目を離すことができなかった。
血の気を失い、氷のように冷たい表情。
だがその瞳の奥では、絶望と怒りの嵐が吹き荒れている。
初めて飛燕は、彼女の中に軍師『月影』ではない、ただ一人の傷ついた人間の魂を見た。
自分の民に裏切られ、故郷を失った孤独な魂を。
その瞬間、彼の瞳に宿っていた愉悦の光が、ほんのわずかに揺らいだ。
それは玩具を見つめる目ではなかった。
やがて飛燕は、一つの決断を下した。
それはあまりに意外な、そしてあまりに“彼らしくない”一手であった。
「……麗華。金 逸臣に伝えよ」
飛燕は静かに告げた。
「『裏切り者』の名と、そのすべての証拠を差し出すのであれば、命だけは助けてやると。……故郷の寺院で、残りの人生を静かに送ることを許す、と」
それは、あまりに寛大すぎる処置であった。
だが、それは冷徹な計算に基づいた一手でもあった。
死んだ人間は何も語らない。
生きた証人こそが、最大の武器となる。
そして何よりも。
それは、彼の隣で静かに佇む一人の女に対する、皇帝からの静かなメッセージでもあった。
朕は、ただ冷酷なだけの王ではないと。
◆◇◆
金 逸臣は、飛燕の提案を受け入れた。
彼の目的はもはや帝国の転覆ではない。
自らの家族と故郷を裏切った真の裏切り者をこの世から抹殺すること。
その一点に絞られていた。
彼は自分が知るすべての事実を白状した。
そして、告げられた裏切り者の名は――
宮廷の誰もが予想だにしなかった人物の名であった。
宰相ではない。
皇太后の一派でもない。
その男は、礼部尚書。
宮廷の祭祀や儀礼を司る穏健派の重鎮。
かつて月の国で文官として仕え、戦の後は、いち早く帝国に降伏し、その知識を買われ今の地位を築いた男。
誰もが彼を、時代の流れにうまく乗った処世術の達人だと思っていた。
だがその裏の顔は、違った。
彼は、月の国が滅びる間際に自らの保身と帝国での栄達を約束され、引き換えに月の国の軍事機密を帝国に売り渡していたのだ。
西門への援軍を意図的に遅らせたのも、すべて彼の仕業であった。
全ての構図がひっくり返る。
本当の敵は、派閥争いの中にいたのではない。
それは、故郷の仮面を被り、宮廷の最も深い場所に潜んでいた一匹の毒蛇だったのである。
麒麟堂に重い沈黙が落ちる。
雪蘭、飛燕、そして麗華。
三人の視線が交錯する。
彼らは今、図らずも同じ一つの敵を共有することになったのだ。
飛燕は、もはや雪蘭を玩具として見てはいなかった。
この複雑に絡み合った過去の糸を解きほぐすには、彼女の月の国での知識と記憶が不可欠であった。
麗華は、自らの使命をはっきりと理解した。
この傷ついた主君を守り、共に裏切り者を討つのだと。
そして、雪蘭は。
彼女は、自らに与えられた新たな、そしてあまりに過酷な使命を悟った。
平穏な昼寝を取り戻すための戦い。
それは自らの手で、故郷の最後の膿を出し切り、その忌まわしい過去を完全に葬り去る戦いへと意味を変えたのだ。
盤上は一新された。
ここからが本当の最終章。
昼寝猫の最後の戦いの幕が、今、静かに上がった。




