第十八話:揺れる筆先
都の裏社会。
そこは後宮の華やかさとは対極の世界であった。
法も秩序も届かぬ混沌と欲望が渦巻く場所。
生真面目な武官である王 麗華にとって、その濁った空気は呼吸するのも困難なほどであった。
彼女は商人の用心棒を装い、雪蘭からの簡潔な指示だけを頼りに、この底なしの沼のような世界を歩き回っていた。
麗華は信頼できる部下と共に闇市場の調査を開始した。
希少な薬草を扱う密売人。
武具を流す盗賊団。
そして、上質な紙や墨を専門に扱う闇商人。
だが調査は難航を極めた。
『影の将軍』はあまりに用心深く、その尻尾を掴むことはできなかった。
「……駄目だ、雪蘭。奴はあまりに巧妙すぎる。全ての取引が別々の人間によって行われている。繋がりが見えぬ」
書庫室で焦燥を露わにする麗華に、雪蘭はうたた寝から目覚め、静かに告げた。
「……お前は、一人の人間を探している。それが間違いだ」
「何?」
「金 逸臣のような男が、自ら市場に顔を出すはずがない。彼は幾人もの手駒を使い、それぞれに別の役割を与えているはずだ。一人の買い手を探すな。複数の買い手の〝共通点〟を探せ。購入された品々を全て一つの地図の上に並べた時、浮かび上がる〝模様〟があるはずだ」
その言葉に麗華は、はっと目を見開いた。
彼女は再び、膨大な闇市場の取引記録を洗い直した。
そして、ついに見つけ出したのだ。
ある者は薬草だけを。
ある者は紙と墨だけを。
またある者は蛮族向けの干し肉と塩だけを。
それぞれが別々の場所で取引を行っていた。
だが、その全ての取引の中心点を地図の上で結ぶと、ただ一つの場所が浮かび上がった。
都の貧民街の片隅にひっそりと佇む、一軒の薬屋。
表向きは街の病人を相手にする、しがない薬屋だ。
だがそこは、薬草を仕入れ、毒薬を調合し、そして都の誰からも注目されることのない、完璧な隠れ蓑であった。
亡霊の巣を見つけ出したのだ。
◆◇◆
「……では、どうする? 今すぐ突入するか?」
麗華の問いに、雪蘭は静かに首を横に振った。
「駄目だ。それでは奴を取り逃がす。あるいは証拠を全て燃やされてしまう。……罠を仕掛ける」
雪蘭の立てた策はこうだ。
薬屋には手を出さない。
代わりに手駒の一人、紙と墨を買い付けていた『学者先生』を捕らえる。
そしてその逮捕の知らせを、意図的に闇市場にリークする。
自分の重要な供給網の一つが絶たれたと知れば、『影の将軍』は必ず狼狽する。
彼は逃亡するか、あるいは証拠を隠滅するために、必ず動く。
麗華は雪蘭の策の通り行動した。
そして部下と共に薬屋の周囲を完全に包囲し、息を殺してその時を待った。
張り詰めた時間が流れる。
やがて陽が落ち、夜の帳が下りた頃。
薬屋の煙突から一本の細い煙が立ち上るのが見えた。
薬草を煎じる匂いではない。
紙が焼ける焦げ臭い匂いだ。
(……動いた!)
まさにその瞬間。
一人の伝令が麗華の元へと駆け込んできた。
雪蘭からの伝言だった。
そこに書かれていたのは、ただ一文字。
『──今』
「突入せよ!」
麗華の号令が夜の静寂を引き裂いた。
兵士たちが一斉に薬屋へとなだれ込む。
店内の奥では、一人の男が必死の形相で地図や巻物を暖炉へと投げ込んでいた。
男は隠し持っていた短剣と毒針で激しく抵抗したが、武の達人である麗華の敵ではなかった。
彼女の剣が男の武器を弾き飛ばし、その身を床に押さえつける。
月明かりがその男の顔を照らし出す。
年の頃は三十代半ば。
その顔には深い憎悪と疲労が刻まれている。
だがその面影は、古文書庫で見たあの記録書の中の少年と、確かに一致していた。
金 逸臣。
帝国を内側から蝕んでいた、『影の将軍』の正体。
その亡霊は、今、確かに捕らえられた。
麗華は床に組み伏せられた男を見下ろしながら、遥か宮殿の方向を見上げた。
今頃、あの書庫室では。
自分の主である、あの無気力な猫が、ようやく訪れた平穏の中で、満足げな寝息を立てていることだろう。
長かった狩りは、終わったのだ。




