第31話 リーフィアの過去
夕暮れ時、牧場に柔らかな橙色の光が降り注ぐ頃、白石悠真は納屋の屋根の修理を終えていた。大雨で少し傷んでしまった部分を、丁寧に直し終えたところだ。
「これで雨漏りの心配はなくなったな」
悠真は満足げに納屋を見上げ、手に持った金槌をポケットにしまった。作業で汗ばんだ額を腕で拭うと、ふと視線を山の方に向けた。そこには、一人佇むリーフィアの姿があった。彼女は山の稜線を眺めているようで、どこか物思いに耽っている様子だった。
「どうしたんだろう」
悠真は不思議に思いながらも、一旦家に戻り道具を片付けた。黒猫のルナが玄関先で丸くなって眠っており、悠真の足音に目を覚まして小さく「ニャア」と鳴いた。
「ごめんな、ルナ。起こしちゃったか」
悠真がルナの頭を撫でると、黒猫は気持ち良さそうに背伸びをした。夕飯の準備をしようと思ったが、リーフィアの様子が気になり、悠真は山の方へと足を向けた。ルナも静かに彼の後を付いてきた。
――――――
山の斜面に立つリーフィアは、銀色の髪が夕暮れに金色に輝いていた。彼女は手のひらを広げ、夕焼けに染まる空を見上げている。その姿は儚く、どこか郷愁を帯びていた。
「リーフィア」
悠真の声に、彼女はゆっくりと振り向いた。
「悠真さん……」
彼女の目には、いつもと違う光が宿っていた。悠真は彼女の隣に立ち、同じ方向を見つめた。
「もしかして、何か思い出したのか?」
記憶を失ったリーフィア。彼女の過去については、断片的な記憶以外、何も分かっていなかった。悠真の問いかけに、リーフィアはゆっくりと頷いた。
「はい……少しだけ」
彼女の声は静かで、風にかき消されそうなほど小さかった。
「今日のこの夕焼け空を見ていたら、急に……私が住んでいた場所を思い出しました。山の上にある、小さな集落で……」
リーフィアは言葉を詰まらせた。思い出すことは、彼女にとって苦しいことなのかもしれない。悠真はそっと彼女の肩に手を置いた。
「無理に思い出そうとしなくていい。少しずつでいいんだ」
「ありがとうございます、悠真さん」
リーフィアは微笑んだが、その目には憂いが残っていた。彼女は再び山の方を見つめ、小さく息を吐いた。
「私の村は、『月影の民』と呼ばれる人々が暮らす場所でした。自然と共に生き、森の力を借りて暮らす、小さな集落です」
「月影の民……」
悠真はその名前を初めて聞いた。リーフィアは続けた。
「私たちは、自然の恵みを大切にし、月の光を糧に生きる種族です。私は……村の守護者の役目を持っていたはずなのですが……」
そこで彼女の言葉は途切れた。思い出せない部分が多いのだろう。彼女は自分の手のひらを見つめ、弱々しく微笑んだ。
「何があったのかは、まだはっきりと思い出せません。ただ……村が何者かに襲われ、私は逃げるように言われたことだけは覚えています」
ルナが小さく鳴いて、リーフィアの足元に寄り添った。黒猫が彼女を慰めるように、足にすり寄る。リーフィアはルナを優しく抱き上げた。
「それで、この辺りまで来たものの……力尽きてしまったのですね」
「そこで俺が見つけたわけか」
悠真が言うと、リーフィアは優しい目で彼を見つめた。
「はい。悠真さんに命を救われ、この牧場で新しい日々を過ごせたことは、私にとって大きな幸運でした」
二人の会話の間、西の空は徐々に赤みを増し、やがて紫色へと変わっていく。最初の星が、静かに空に姿を現した。
「村のことが気になるなら、探しに行ってもいいんだぞ」
悠真の言葉に、リーフィアは少し驚いた様子で彼を見つめた。
「いいのですか?」
「もちろん。記憶を取り戻すのは大事なことだ。それに……」
悠真は少し照れくさそうに頬を掻いた。
「一人で行くのは危ないからな。俺も付き合うよ」
リーフィアの瞳が小さく震えた。彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「悠真さん……」
彼女はゆっくりと頭を横に振った。
「ありがとうございます。でも、今はまだ……私自身がはっきりと思い出せていないのです。それに……」
リーフィアはルナを抱きながら、ふと視線を牧場の方に向けた。夕暮れの中、遠くには雷を操る羊のベルが草を食む姿が見える。
「今は、この牧場での生活が大切です。ここには私の居場所があります」
悠真は安堵の表情を浮かべた。正直なところ、彼もリーフィアが牧場を離れてしまうことを少し恐れていたのだ。
「そうか。でも、思い出したいときは言ってくれよ。手伝えることがあれば協力するから」
「はい、ありがとうございます」
リーフィアは微笑み、夜風に揺れる銀髪をそっと耳にかけた。
「不思議ですね。記憶の一部を思い出したというのに、私は悲しくありません。むしろ……安心しているんです」
「安心?」
「はい。私が誰なのか、どこから来たのか、それを知る手がかりができたことで。でも同時に……」
彼女は牧場を見渡し、優しい眼差しを向けた。
「ここでの生活が、私にとって大切だということを、改めて実感したからです」
悠真も彼女に倣って牧場を見渡した。動物たちが思い思いに過ごす姿、整えられた見学路、豊かな植物たち。そのすべてがリーフィアの手によって、より豊かになっていた。
「リーフィア、夕飯の支度をしよう。今日は何か特別なものを作ろうか」
「はい!私も手伝います」
二人が山を下り始めると、ルナも軽やかに二人の後を追った。空には月が姿を現し始めていた。その光がリーフィアの銀髪を優しく照らし、彼女の足取りは次第に軽くなっていった。
――――――
食事の後、リーフィアは自分の部屋で小さな箱を開けていた。中には、彼女が倒れていたときに持っていた、たった一つの持ち物があった。月の光を浴びると淡く光る、銀色の葉の形をした小さなペンダント。
「月影の民の守護者の証……」
彼女はそっと呟き、ペンダントを握りしめた。まだ全てを思い出したわけではないが、このペンダントが自分のアイデンティティと深く関わっていることだけは確かだった。
突然、部屋の窓から「メェー」という声が聞こえた。リーフィアが驚いて窓を開けると、羊のベルが窓の外で彼女を見つめていた。
「あら、ベル。こんな時間にどうしたの?」
ベルは小さく鳴き、リーフィアの手をそっと鼻で触れた。まるで彼女を慰めているかのようだった。リーフィアは微笑み、ベルの頭を優しく撫でた。
「ありがとう、ベル。あなたたちがいてくれて、私は本当に幸せよ」
ベルは満足げに鳴き、穏やかな夜の闇の中へと戻っていった。
「いつか、全てを思い出す日が来るでしょう」
リーフィアはペンダントを胸元にかけ、窓の外を見た。満月に近い月が、牧場全体を銀色に照らしている。
「でも今は……この場所で、悠真さんと一緒に牧場を守るのが私の使命」
そう呟いたリーフィアの表情には、もはや迷いはなかった。彼女は窓を閉め、ランプの明かりを消した。明日もまた、牧場での穏やかな一日が始まるだろう。
――――――
翌朝、悠真が目を覚ますと、いつもより香ばしい朝食の匂いが漂ってきた。居間に行くと、リーフィアがエプロン姿で朝食の準備をしていた。
「おはようございます、悠真さん。今日は特別に、月影の民の伝統的な朝食を作ってみました」
テーブルには、ハーブの香りがする丸いパンと、蜂蜜をかけた果実のサラダ、そして澄んだスープが並んでいた。ルナは既に自分の朝食を食べ終え、窓辺で毛づくろいをしていた。
「これが月影の民の料理か。見た目も綺麗だな」
「はい。思い出しながら作ってみました」
リーフィアの表情は晴れやかで、昨日の憂いは消えていた。悠真はそんな彼女を見て、安心した。
「じゃあ、いただこう」
朝食を食べながら、二人はこれからの牧場の予定について話し合った。リーフィアは、月の光を好む植物を増やしたいと言う。それは月影の民としての彼女のルーツを大切にしたいという気持ちの表れだった。
「リーフィア」
「はい?」
「無理はするなよ。記憶を取り戻すのも大事だけど、今を生きることも大切だから」
リーフィアは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。悠真さんのおかげで、私は自分のペースで記憶と向き合うことができています。本当にありがとうございます」
朝食を終え、二人は牧場の仕事に取りかかった。窓の外では、ベルが草原を元気に駆け回っている。その角から時折小さな電光が走り、朝の空気を震わせていた。
穏やかな朝の光の中、牧場は今日も平和に一日を始めていた。リーフィアが月影の民の記憶を少しずつ取り戻していくように、この牧場での日々も、彼女の新たな思い出として積み重なっていくのだろう。




