第1話 世界一幸せな少年
僕の名前は佐倉悠真。中学三年生だ。
僕の家には電気が通っていない。
水道も止まっているし、ガスなんて随分前から使っていない。窓ガラスは割れていて、玄関には赤いペンキで「人殺し」と書かれている。
父が逮捕されたのは三年前。母も共犯として逮捕されたが、裁判が終わる前に拘置所で亡くなった。父は昨年、死刑判決を受けている。
両親が逮捕されたあと、僕は親戚の家を転々とした。最後に引き取ってくれた叔父は、僕のために残されたお金を持っていなくなってしまった。
だから今は一人暮らしだ。
もっとも、正式に認められた一人暮らしではない。役所には叔父と暮らしていることになっている。
朝食は、昨日の給食で残しておいた食パンだ。少し湿っているが、半分食べて残りはおやつ用に鞄へしまった。
制服はまだ乾いていなかった。昨日、帰り道で川に落とされたせいだ。ストーブもないので一日で乾かすのはなかなか難しい。
まあ、着ていればそのうち乾くだろう。
玄関を出ると、隣の家のおばさんがゴミを出していた。
「おはようございます!」
「……まだいたの、あんた」
「はい!」
「早くどこか行ってちょうだい。近所迷惑なのよ」
「はい?今から学校に行くところですよ?」
「あーもうそういう意味じゃないわよ!」
おばさんはゴミ袋を僕の足元に投げつけた。中から生ゴミがこぼれる。
「ほら、片付けなさいよ! あんたのせいで散らかったじゃない!」
「はーい」
袋を拾い中身を戻した。少し手が汚れたけれど学校で洗えばいい。
おばさんは舌打ちして家に戻っていった。今日も元気そうで何よりだ。
*
学校に着くと教室で黒瀬君たちが待っていた。
僕の同級生で、父が起こした事件でお姉さんを亡くしている。
背が高くて運動神経もいい。女子にも人気があるらしい。
「おい、人殺し」
頭から水をかけられた。冷たい。11月の水道水はなかなか厳しい。
「おはよう、黒瀬君」
「おはようじゃねえんだよ!」
腹を蹴られ床に転がった。教室に笑い声が広がる。
「お前さ、なんでまだ学校来てんの?」
「え?義務教育だから?」
「は?」
「いや、僕もよく分かんないんだけど、先生が卒業までは来いって—―」
「そういう意味じゃねえよ!」
また蹴られた。なるほど、違ったらしい。
「おい、聞いてんのか!」
「うん?」
「お前の親父が何人殺したか言ってみろよ!」
「三十七人だよ」
「お前!よくそんな平気な顔してられるな!?」
「えっ、何か間違えた?」
「そういうことじゃねえんだよ!」
難しいなぁ。
黒瀬君が僕の髪を掴み、机に顔を叩きつけた。
「謝れよ!」
「ごめんなさい」
「謝って済むなら警察はいらねえんだよ!」
「確かに」
「は?」
頭を踏まれた。
でも、言っていることは間違っていないと思う。謝るだけで全部解決するなら、警察の仕事は随分減るだろうし。
「お前、俺のこと馬鹿にしてんのか?」
「え、してないよ」
「じゃあなんで笑ってんだよ!」
「えっ、笑ってた?」
どうやら頬が緩んでいたらしい。教室の隅で女子たちがこちらを見ている。
特に窓際の黒髪の女の子は、今日も素晴らしく冷たい目をしていた。
正直、あの目は結構好きだったりする。
僕には少し変わった趣味があった。綺麗な女の子に罵られたり、見下されたりすると嬉しくなるのだ。自分でも変態だと思う。
「何ニヤニヤしてんの。マジで気持ち悪い」
その女の子が言った。
「ありがとう」
「……は?」
あ、しまった。本音が出た。
「いや、ごめん。なんでもないよ」
「ほんとキモい。死ねばいいのに」
もう一回言ってくれないかな。
「おい! 何ニヤニヤしてんだ?聞いてんのか?」
「すみません」
「お前さぁ、マジでなんで学校来てんの?早く死ねよ犯罪者」
「あの…犯罪者は僕の親であって、僕は犯罪者じゃないんだよ?」
「あ?てめえ調子乗ってんじゃねえぞ!」
黒瀬君に顔を蹴られた。痛い。男子なのが少し残念だ。
教室をよく見ると僕の机がなかった。
昨日は確か、窓際の一番後ろにあったはずなんだけど…。
「お前の机、便所にあるぞ」
「そうなんだ。ありがとう!」
「早く取りに行ってこいよ。消えろ、目障りなんだよ」
「うん!」
男子トイレの個室で、便器の上に机が置かれていた。天板には汚物が塗りつけられ、椅子は水浸しになっている。
誰が運んだのだろう。結構重いのに大変だったと思う。
机を廊下へ運んでいると、担任の田島先生とすれ違った。
「佐倉、何をしている?」
「んっ、机を運んでいます」
「そんなことは見れば分かる。もう授業が始まるぞ」
「はい、すみません」
「それと、その臭いをどうにかしろ。ほかの生徒の迷惑だ」
「はい」
先生は机を一瞥し、そのまま教室へ入っていった。
僕も急いで机を運んだ。教室に戻ると、みんなが鼻をつまんでいた。
「うわ、くっせえ!」
「こっち来んなよ!」
「お前、マジで死ねよ!」
どうやら、机を洗ってから持ってくるべきだったらしい。
でも、水道を使うと授業に遅れてしまう。難しいところだ。
「佐倉!」
田島先生が黒板を叩いた。
「お前のせいで授業が始められないだろう!」
「すみません」
「廊下に出てろ!」
「はい」
机を持って廊下に出た。教室の扉が閉まり中から笑い声が聞こえた。
僕は机を壁際に置き、窓の外を眺めた。
今日はいい天気だ。昨日は雨だったから晴れてくれて嬉しい。
授業が終わっても、先生は僕を呼び戻さなかった。
次の授業も、その次も。
昼休みになると、教室から黒瀬君たちが出てきた。
「おい、来いよ」
連れていかれたのは体育館裏だった。
そこには同級生が十人ほど集まっていた。
「お前、今日の昼飯抜きな?」
「え、それは困るよ。今日の給食がないと明日まで持たないよ」
「知らねえよ、そんなこと!」
腹を蹴られた。空腹のせいかいつもより痛い。
「お前の親父に殺された奴らは、もう飯も食えねえんだぞ!」
「げほっげほっ、そう、だね」
「だったらお前も食うなよ!」
「え、でも、お腹は空くよ?」
「ふざけんな!」
「まだ食べたいものとかあるし」
「知るか!」
黒瀬君が僕を蹴り倒した。周囲の男子たちも加わり、背中や足を何度も蹴られた。
「三十七人分だ!」
「人殺し!」
「死ねよ!」
「一! 二! 三!」
誰かが数え始めた。途中から何人も同時に蹴るので、数はすぐに分からなくなった。
どうせなら一人ずつにしてほしい。あと、できれば女子がいい。
「数え間違えたら最初からだぞ!」
僕は頭を抱えて丸くなった。痛いなぁ。みんな今日はずいぶんと元気だ。
「おい、こいつまだ動いてるぞ」
「水持ってこいよ」
頭からバケツの水をかけられた。今度は泥水だった。
「うわ、くっせえ!」
「便所の横の水だからな!」
「えっ、そうなの?」
「飲めよ」
「いやぁ、それはちょっと」
「飲めっつってんだよ!」
顔を掴まれ口元にバケツを押しつけられた。
さすがに困った。お腹を壊したら明日の学校が大変だ。
「やめてよ。お腹壊しちゃう」
「知るかよ!」
しばらくして、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「行こうぜ」
「こいつどうすんの?」
「ほっとけよ」
みんなが校舎へ戻っていった。僕はその場に座り、制服についた泥を払った。
今日はなかなか大変だったなぁ。
でも、黒瀬君のお姉さんの話を聞くたびに少し不思議に思う。
彼のお姉さんが亡くなったのは本当に残念なことだ。まだ若かっただろうし、やりたいこともたくさんあっただろう。
でも、彼が僕を殴る理由はよく分からない。
僕を殴ってもお姉さんとの思い出が増えるわけではないし、生き返るわけでもない。
それに、僕と黒瀬君は別々の人間だし、父だって僕ではない。
まあ、人それぞれ考え方は違うのだろう。
しょうがないよね。
*
放課後、家に帰ると玄関の扉が開いていた。
鍵は昨日までついていたはずなのに、金具ごと壊されていた。
中に入ると見知らぬ男が二人いた。
「帰ってきたか」
「こんにちは」
「お前が佐倉の息子だな」
「はい」
男の一人が近づき、僕の顔を殴った。
「お前の父親に、俺の妻と娘を殺された」
「そうだったんですね」
「ふざけるな!」
また殴られた。
「お前ら家族は全員死ぬべきなんだよ!」
「えー、そうかなぁ」
「何だと?」
「僕、まだ死にたくないんだけど」
男は僕の髪を掴み、壁に叩きつけた。
「お前の母親も、最後まで命乞いしてたそうだな」
「お母さんが?」
「ああ。拘置所でな。あの女、殺されたんだよ」
初めて聞く話だった。母は病気で亡くなったと聞いていた。
「そうだったんだ」
「お前も同じ目に遭わせてやる」
男はそう言って、床に落ちていた家族写真を踏みつけた。
写真には、まだ事件が起こる前の僕たち三人が写っていた。
お父さんもお母さんも笑っている。懐かしいなぁ。
あの日は動物園に行ったんだっけ。帰りに食べたソフトクリームがすごく美味しかった。
「おい、聞いてんのか!」
「うん」
「お前の親は人殺しなんだぞ!」
「知ってるよ」
「だったらそんな写真、なんで大事にしてんだよ!」
「え?」
僕は首を傾げた。
「だって、お父さんとお母さんだもん」
男が黙った。
「悪いことしたのは知ってるよ。でも、僕に優しくしてくれたのも本当だし」
「……ふざけやがって」
「僕、お父さんもお母さんも大好きだよ」
次の瞬間、男が僕を蹴り飛ばした。
「二度とそんなこと言うんじゃねえ!」
「えー……」
それは困る。
好きなものを好きと言ってはいけないのは、少し変だと思う。
でも、この人にも事情があるのだろう。
僕は床に散らばった写真の破片を見つめた。
お父さんは死刑判決が出ているし、お母さんはもういない。
二人と過ごした時間は本当に楽しかった。できればもっと一緒にいたかったけれど、ずっと一緒にいられるわけではない。
それにお母さんが死んだからといって、僕がお母さんを好きだったことも、一緒に過ごした時間もなくなるわけではない。
だから、僕は今でも幸せだ。
「……お前、何笑ってんだ?」
男が低い声で言った。
「えっ?」
「気持ち悪いんだよ!」
また殴られた。
どうやら、僕は笑っていたらしい。そういえば昔からよく言われる。
こんな状況で笑うなんておかしい、と。
でも、幸せなのだから仕方がない。僕は今日も生きている。
それだけで、十分嬉しいことだと思う。
男たちが帰ったあと、僕は壊れた写真を拾い集めた。
明日は学校だ。
そういえば、明日の給食はカレーだったはず。楽しみだなぁ。
—―その夜、僕の家に火が放たれた。
目が覚めたときには部屋の中が煙でいっぱいだった。
玄関の方から火が上がっている。どうやら外から火をつけられたらしい。
「あれ、火事だ」
とりあえず逃げよう。
毛布を頭から被り窓へ向かった。割れたガラスの隙間から外へ出ると、庭に転がった。
振り返ると家が燃えていた。
せっかく段ボールで塞いだ窓も全部燃えている。昨日直したばかりだったのに、ちょっともったいない。
「おい! 出てきたぞ!」
道路の向こうから声がした。
昼間、家に来ていた男たちだった。
「しぶといガキだな!」
「こんばんは」
「……お前、何で生きてんだよ!」
「え? 逃げたから?」
「ふざけんな!」
男が走ってきて、僕を蹴り倒した。
「お前の親父は、俺の家族を焼き殺したんだぞ!」
「うん」
「だったらお前も同じ目に遭えよ!」
「えー、それは困るなぁ」
「何が困るんだ!」
「まだ明日の給食、食べてないし」
「……は?」
「カレーなんだよね。僕、カレー好きなんだ」
男は僕の顔を殴った。
もう一人が腕を掴み、道路へ引きずっていく。
「お前みたいな奴が、何で幸せそうにしてんだよ!」
「えっ?」
不思議なことを聞く人だ。
「だって、僕、幸せだよ?」
「ふざけんな! お前には何もねえだろうが!」
「そうかなぁ」
確かに、家は燃えている。
お父さんもお母さんもいない。お金もないし、お腹も空いている。
でも、それと幸せかどうかは別の話だと思う。
「僕さ、生まれてこられただけで、すっごく運がよかったと思うんだよね」
「……何?」
「だって、僕が生まれるまでに、どれだけたくさんの人が生きてきたんだろうって考えるとさ」
男が僕の胸ぐらを掴んだ。
「黙れ!」
「それに、日本に生まれたんだよ? すごくない?」
「何言ってんだ、てめえ!」
「学校にも行けたし、ご飯も食べられたし、漫画も読めたし。楽しいこといっぱいあったよ」
また殴られた。でも、僕は本当にそう思っていた。
生まれることができた。
目が見える。耳が聞こえる。空が青いことも雨が冷たいことも知っている。
甘いものを食べたときの嬉しさも、誰かと笑ったときの楽しさも知っている。
それだけで、十分すぎるほど恵まれている。
「お前……頭おかしいんじゃねえのか?」
「えー、そうかなぁ」
「死ぬんだぞ! 今からお前、死ぬんだぞ!」
「うん。そう、みたいだね」
男が僕を道路に押さえつけた。
もう一人が鉄の棒を持って近づいてくる。
ああ、これは本当に死んじゃうかもしれない。
――ちょっと残念だ。
明日のカレーは食べたかったし、まだ読み終わっていない漫画もある。
でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
だって、僕はもう、十分に幸せだったから。
「死ね!」
鉄の棒が振り下ろされた。
視界が揺れた。地面に倒れ、空が見えた。
綺麗な星空だった。
そういえば、こんなにゆっくり星を見るのは久しぶりかもしれない。
僕はぼんやり考えた。
もし生まれてこなかったら、この星空も知らなかったんだろうなぁ。
お父さんにもお母さんにも会えなかった。
美味しいご飯も面白い漫画も、好きな女の子の顔も知らなかった。
そう考えると、なんだかすごいことだと思う。
生まれてきて、本当によかった。
遠くでサイレンが聞こえた。
誰かが叫んでいる。もう、あまりよく聞こえない。
でも、最後に一つだけ思った。
—―ああ。
いい人生だったなぁ。
そして、僕は死んだ。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
少々長い第1話となりましたが、本作は転生ものということもあり、転生前の物語はできるだけ1話にまとめたいと考え、このような構成にしました。
本日は第3話まで公開いたします。
以降、毎日12時、21時の1日2話更新を予定しています。
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