魔王様、喰われて人と出会う ②
「――来るっすよ!」
何かを察したナナが鋭く叫んだ。
その直後、全員が肌で理解した、頭上の闇が蠢き、バクンガがその巨大な顎を再び開いたことを。
やるしかない、一か八かだ!
「ビアス!」
「はいっ!」
即座に応じたビアスが両手を広げると、俺たちを包み込むように巨大な球体の水壁が展開された。
それを待っていたかのように、ナナが胸元から巾着を取り出す。
「これを使って!」
中身の粉末を水壁へと投げ入れた。
「ビアス、一気に混ぜて!」
「了解です!」
ビアスの魔力が水を激しく撹拌する。
粉末が混ざり合った水壁は、内側から結晶が走るようにピシピシと音を立て、瞬時に分厚い氷の防壁へと変貌した。
俺たちを閉じ込んだ完全密閉の氷球。
その直上から、鼓膜を圧するほどの《ゾザーッ!!》という轟音と共に、怒涛の勢いで大量の砂が降り注いできた。
「ルナル!」
俺は叫んだ。この状況を打開できるのはルナルの『風』しかない。
だが、ルナルは動なかった。
火球の淡い光に照らされた彼女は、ただ真っ直ぐに俺の瞳を射抜くように見つめ、一言も発さずに立ち尽くしている。
外側では、降り積もる砂の質量が氷の球体を軋ませ、死のカウントダウンを刻んでいる。
まずい、一刻の猶予もない。
バクンガの食事が終われば、俺たちは砂の海の底だ。
「ルナル! 急げ、何をしている!」
だが、そこだけ止まったかのような優雅な足取りで、ゆっくりと、確実に俺との距離を詰めてくる。
……何を考えている? 何を待っているんだ? あまりに完璧な連携を繰り返してきたせいで、言葉などなくても繋がっていると過信していたのだろうか……。
俺の判断ミスだ。
最愛の妻であっても明確な指示が必要だった。
今すぐ説明しなければ……だが、この極限の数秒で、間に合うのか……。
「リエス。そこに愛はあるんか?」
「は?」
ルナルは表情一つ変えずにそう言った。
世界が崩壊しようとしているこの瞬間に、彼女が口にしたのはあまりに場違いな、それでいて彼女らしい絶対的な問いだった。
「ルナル……」
反論しようとした俺の言葉を、彼女は人差し指で制した。
その瞳には、外側の崩落など眼中にもないような、灼熱の情念が宿っている。
「あんた! それはあたしを愛しとるから頼んでんのかって聞いてんねん!」
「待て! 今はそれどころじゃないだろ! 氷が……」
「それどころやろっ! さっきから聞いとったら部下ばっかり頼りにして! あたしがおるやろ! あたしを頼れば、あたしがおれば、全て事足りるっちゅーてんねん! あたしを愛してるんか? なあ、好きやでって言うて!!」
ルナルは俺の襟首を両手で力任せに掴み、逃がさないと言わんばかりに引き寄せた。 鼻先が触れそうなほどの至近距離。
彼女の荒い吐息と、魔力の高まりによる熱気が、俺の肌を焼く。
「いや、本当にそれどころじゃ……」
極限状況でのあまりに純粋で強烈な愛の要求に、俺は気圧され、たまらず視線を横に逸らした。
だが、その先がいけなかった。
すぐ側で身を縮めていたビアスが、頬を赤らめ、潤んだ瞳で『ひゃぁ……』と熱っぽい溜息を漏らしながら、指の間からこちらを凝視している。
さらにその隣では、ナナが仮面の角度を微調整し、少しでも特等席でこの痴話喧嘩を観察しようとする『野次馬オーラ』を全身から立ち昇らせていた。
「あー! 目ぇ逸らしたぁ! リエス! あんたまさか、この期に及んでやましいことでもあるんちゃうやろなあ!?」
「おいリエス! ルナル様がどれだけお前に純情を捧げてるのか分からねぇのか! てめぇが『あいしてる』の五文字を吐き出しさえすりゃあ、ルナル様の風が、このクソ砂野郎をぶっ飛ばしてくださるって言ってんだろうがよ! 男を見せやがれ、このボンクラ魔王!」
ルナルの肩の上で、イッスンがこれ幸いとばかりに罵声を浴びせてくる。
「……今、何と?」
その時、地を揺さぶるような重低音が響いた。
見れば、感電気絶から意識を取り戻したばかりの仁右衛門が、怒髪天を突く勢いで立ち上がっていた。
その瞳は狂気じみた赤色に発光し、殺気で周囲の温度が数度下がったかのように感じられる。
彼は愛刀『霧切』の柄に手をかけ、今にもその刀身が姿を現わそうとしている……いや、元に戻されているだけで、既にイッスンの首は数度切られているのかもしれない……そんな感覚。
「この緊急時に及んで、殿を『ボンクラ』と評したか……。不敬っ! 万死に値するっ! それはすなわち、殿の奥方様への深き慈愛を疑う大罪にござる! 殿にとって愛を囁くなど、朝餉の飯を喰らうより容易き日常の所作! それすら見抜けぬお主の浅ましき忠義心、拙者がこの場で根こそぎ叩き直してしんぜようッ!!」
仁右衛門の背後には、憤怒のあまり実体化したかのような不動明王の幻影すら見え隠れしていた。
非常にまずい。愛の告白を待つ妻、煽る部下、そして表現過激な忠臣。
これ以上時間をかければ、外部の重圧に押し潰される前に、内部の混沌で千載一遇の脱出チャンスを逃すことになる。
……仕方ない、ここは、恥を捨てる。
「わ、 分かった。言う。言うから、みんな落ち着け」
喧騒が嘘のように引き、氷球の中が水を打ったような静寂に包まれた。 聞こえるのは、外壁を虚しく叩く砂の《ザーッ》という微かな摩擦音だけ。 俺は覚悟を決め、喉の奥まで上がってきた心臓を押し戻すように、一度だけ重い生唾を飲み込んだ。 そして、目の前で勝利を確信したような笑みを浮かべるルナルの瞳を、真っ向から見据えた。
ルナルは誘うような視線を絡めたまま、艶めかしく舌で唇をなぞると《ミチャリ》と濡れた音を鳴らした。
その無防備で暴力的な色香に、俺の心拍数は羞恥と興奮のデッドヒートを繰り広げる。
……たった五文字。この一言を引き出すためだけに、これほどの窮地と、これほどまで過剰な演出が必要なのか?
不条理の極致だが、彼女という生き物にとって、この『儀式』こそが魔力を点火させる唯一の火種なのだ。
屈辱だが、愛の誓いを受けた後のルナルが、神話の化身に等しい破壊力を振るうのもまた、抗いようのない事実。
今はただ、彼女の力がバクンガを内側から爆散させないことを、個人的に祈るしかなかった。
「ルナル――愛して――」
俺が最後の『る』を言い終えるより速く、世界が暗転した。
ルナルのしなやかな手が俺の後頭部を強引に引き寄せ、力強く、熱烈に、その唇を重ねてきたからだ。
《――ドォォォォンッ!!》
刹那、氷球の内側でルナルの魔力が臨界点を突破した。
炸裂する衝撃波。全員を包んだ氷の球体は、予備動作も助走も一切なく、初速からトップスピードという異常な加速で発射された。
重力を置き去りにした慣性が俺たちの体を床へと叩きつける。
氷球は垂直に落下する砂の滝を真っ向から逆流し、閉まりかけたバクンガの巨大な顎を、暴力的な突風で無理やりこじ開けた。
視界がバクンガの体内から、一気に地上の光へと突き抜ける!
突き刺すような強烈な日差しが、透明な氷を透かして眩しく差し込んだ。
気が付けば、俺たちはバステッド・デザートの上空数百メートルを舞っていた。
眼下を見れば、砂の海から全長百メートルはあろう怪物の巨体がゴソゴソと這い出し、空へと逃げ出した「エサ」を恨めしそうに見上げている。
「う、動けない……」
急上昇の強烈なG(重力)に底面へと押し付けられ、全員が這いつくばったままピクリとも動けない。
だというのに。 ルナルだけは、この極限の加速の中でも俺の唇を離さず、押し倒した俺の体の上に豹のように覆い被さっていた。
高揚感の収まらない彼女は、俺の襟を左右に力任せに引き開く。
露わになった俺の胸元を、潤んだ、それでいて獲物を定める獣のような瞳で見下ろしていた。
「ひゃぁっ、ひゃあああ……!」
すぐ横で、ビアスが真っ赤な顔をして両手で顔を覆う。だが、指の隙間からはその様子をしっかりと凝視していた。
一方、ナナは微塵も動じる様子なく、仮面の奥から『いいものが見れた』と言わんばかりに《グビリ》と喉を鳴らした。
「奥方様、お気持ちは重々承知しておりますが、今はまだ……。今宵は宿を別にいたしますので、どうか今はそのお気持ちをお納めください」
仁右衛門の言葉で、ようやく我に返ったルナルが離れた。腕で口元の涎を拭う。
「さっすが仁ちゃん、よ~分かってるやん! イッスン、今夜はどっかに遊びに行っといで」
「ハハッ! ルナル様のお心のままに!」
……夫婦だから、することはする。だが、公の場で宣言するのはチョット違うと思う。
恥ずかしさで俺のメンタル死にそう……。
浮遊感を伴いながら、氷の球体は砂漠の熱風に乗ってゆっくりと移動を始めた。 眼下では、砂を巻き上げて蠢いていたバクンガが、獲物を諦めたように再び地中深く潜っていく。その巨大な波紋が砂漠に円を描き、やがて静寂が戻った。
どうやら殺さずに脱出できたようだ。
しばらく空の旅を続けると、陽炎に揺れる地平線の向こう側に、黄金色の砂に抱かれた巨大なオアシスであり、バステッド・デザートの首都、【ユウラシエル】の街並みが姿を現した。
まるで砂場の城のように、砂漠の砂と同系色の街並みが、地面からその形でせり上がったように見える。
「ふふ、リエス、ええ眺めやろ?」
俺の上に跨ったまま、ルナルが耳元で甘く囁く。
それにしても、彼女の魔力操作は相変わらず脱帽ものだ。
俺の敏感な場所を、わざとらしく、それでいて逃がさない絶妙な力加減の指先で弄びながら、一方でこの巨大な氷の塊を、まるで見えないレールの上を滑らせるかのように精密にコントロールしている。
「……ああ、絶景だな。色んな意味で」
俺の自嘲気味な答えを聞いて、ルナルは満足げに笑い、氷球の進行速度を落とした。
やがて、ユウラシエルの外縁、乾いた大地へと氷の球体が吸い込まれるように着地した。
「殿、この氷は拙者が」
地面に降り立つなり、仁右衛門が鋭い居合いの構えを見せた。
《チンッ》と、耳心地の良い金属音を立てて刀が鞘に納まる。
抜きを見せない、相変わらずの神速。
氷には何ら変化はないが、恐らく切れている。
「さあ、奥方様. 仕上げを」
仁右衛門の合図に、ルナルが茶目っ気たっぷりに「フッ」と真上へ息を吹きかける。
すると、球体の上半分が巨大なカプセルトイの蓋が弾け飛ぶかのように勢いよく跳ね上がり、砂煙を上げて地面に転がった。
《ドシャッ!!》
その開放された天辺に盛られた砂から、予期せぬ遠心力に放り出された三つの影が、まるで噴水のように中から飛び出した。
「あ~っ!」「いでっ!」「キャン!」
それぞれ悲鳴、怒号、および鳴き声を上げながら、三つの落下物が無様に砂地へと着地する。
「ペッペッ! ……あ~ててて、どうなってんだ? いきなり色々ありすぎで訳分からん」
うつ伏せで倒れていた男が、呻き声を上げながらゆっくりと上半身を起こした。
無造作に伸ばされた黒髪、その顔や腕の隙間には、これでもかというほど細かな砂が張り付いている。
そのすぐ隣では、2メートルはあろうかという長い尻尾を持つ、真っ白で犬のような姿の魔族が、ブルブルと身震いし、毛並みに溜まった砂を豪快に散らしていた。
それは、目の周りが隈取のように黒く縁取られた、白い狼を思わせる風貌の魔族――『ガスモミラ』だった。
ガスモミラは、大きな鼻をヒクつかせながら、警戒を解かずにこちらをチラリと確認した。
人間と、ガスモミラがなぜこんな所に?
「おじさん大丈夫?」
「ああ、お前は大丈夫か?」
「うん」
「……あれ? エロアは?」
男はハッとしたように周囲を見渡すと、数メートル先、地面に逆さまに突き刺さるようにして、上半身を砂に埋めてピクリとも動かない『足』を見つけた。
「やべえ! 白狼、エロアを掘り起こすぞ!」
男の声に、ガスモミラ――白狼と呼ばれた魔族が即座に反応した。
白狼は小さな前脚で必死に砂を掻き分け、男も爪が割れるのも構わず必死に掘り進める。
ようやく引きずり出されたのは、ぐったりと力なく首を垂れた人物だった。
男はその肩を激しく揺さぶり、無骨な手でその頬を何度も叩いた。
「おい、エロア! 目を開けろ! こんな砂まみれの地獄でくたばるんじゃねぇぞ! 俺ぁまだ、お前から秘蔵のエロDVDを貸してもらってねぇんだ!」
白狼が男の言葉に呼応するように、天を仰いで悲痛な咆哮を上げた。
男は絶望に染まった顔で再び空を見上げ、乾いた笑いを漏らす。
「いっそのこと、腹を空かせた魔獣にでもくれてやって、血肉にするのが鳥葬ってやつか……。クソ、あいつならこんな時でも『魔族と一体化最高!』とか何とか言って笑うんだろうな……」
一人と一匹による、早すぎる弔いの儀式。それを俺たちは、かける言葉も見つからず静観するしかなかった。
「殿……恐らくあの者は異界よりの客、それも同郷の者かと。見捨ててはおけませぬ。拙者が手助けを」
俺が頷いて見せると、仁右衛門が男たちに声を掛けようと歩き出す。だが、その肩をナナが指先一つで制した。
「仁さん待って。ここはあっしに任せて欲しいっす。ウジャニールの術には、こういう時のための『気付け』の技もあるんで。悪いようにはしないっす」
ナナはそう告げると、愛らしくもどこか不気味な仮面を揺らし、呆然とする男たちをエロアの側から遠ざけた。
彼女は意識のないエロアを跨いで立ち、深呼吸を一つ。その指先に、鋭く、それでいて繊細な魔力を集中させる。
「秘術『活指』」
ナナの指先が、エロアの鎖骨、こめかみ、そして鳩尾を電光石火の速さで突いた。
脱力しきっていたエロアの指先が、突かれる度にピクピクと痙攣し、まるで急速にポンプで血を送り込まれたかのように、その肌がみるみるうちに赤みを帯びていく。
生気が、内側から爆発的に戻ってきているのが分かった。
男はその景色を呆然と見ていた。
「もう大丈夫っす。強制的に全神経を叩き起こしたから、すぐに目を覚ますはずっすよ」
「本当ですか!? あぁ、ありがとうございます! あんた、命の恩人だ!」
男が涙を流して何度も礼を言った、その直後だった。
「いやいや……お礼には及ばないっすよ~、それにお礼は目を覚ましてからで」
ナナは顎を前後させ恥ずかしそうに頭をかいた。
「もう、完全に『起きてる』みたいですけどね。だって、ほら」
ナナが視線を落としたその真下。
仰向けに寝ているエロアの股間が、物理法則を無視するかのような勢いで、こんもりと鋭角なテントを張り上げていた。その立ち姿は堂々たるもので、『いつでも泊まれますよ』と無言で主張しているかのようだった。
そして、そのキャンプ施設の主は、ナナの体へと熱烈な視線を送っている。
「え? ……ぎゃ~っ!!!」
ナナの悲鳴が砂漠にこだました。
恥じらいか、あるいは隠密としての反射か。
直後、彼女の電光石火のローキックが、目覚めたばかりのエロアのこめかみへと、一切の手加減なしに炸裂した。
《ベキィッ!!》
エロアと呼ばれた男は、言葉を交わすことすら叶わぬまま、再び、静かに、そして深く意識の闇へと沈んでいった。




