天使様
少女はまるで芋虫のよう。その身体には、手や足というものがない。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、清らかなる神の子よ。」
民衆はそんな哀れな少女に片膝を立て、頭を下にして、手だけを少女のほうへ捧げた。それは彼らにとって敬服と祈りを表す行動である。乞食のように卑しく、悪魔のように狡猾に、救いを求める普通の人間の所作である。
一人の少女に、何百人という大人がそうして跪いている光景は、気味が悪いと思われるだろう。しかし、東日を彩るステンドガラスや、二翼の精巧な石像、月日を感じさせる長椅子、跪く大勢の人間と、少女と、その隣に立つ神官……、全ては調和され、それが自然と思われるような匂いを漂わせている。
「……全能の神が、慈悲深い天使が、わたしを、わたしたち兄弟をあわれみ、罪を許し、輝かしい未来へ導いてくださいますように。」
崇拝の中心に一人存在する少女は、少したりとも反応せず、長いまつ毛の奥から黒い数珠のような瞳でそれらを見ていた。いや、どこも見ていないのかもしれない。本当に意識があるのかわからないほど、少女の瞳と表情は何も語らない。
少女は人工的に作られた泉のような場所で、胸の少し下まで水に浸かっていた。
黒檀のような髪が泉の表面を優雅に泳ぎ、彼女の巻かれた白い服もまた水の中に広がり、綺麗なコントラストを描く。少女は麗しい容姿を持っているように見える。人形のような無機物的な、そして神聖な美しさは、人の心を奪うには十分だ。
だからこそ、両手足がないのが異様に際立つ。
「天使様。日々ご加護お導きくださいまして、本当にありがとうございます。この子が病気になってしまって、熱が下がらないのです……。お救いください、お救いください……。」
そう少女に祈った赤毛の女は、顔が青ざめた赤子を抱いていた。女の顔もまた不安で青ざめていた。どちらが病気なのかもわからないほどの青白い顔で、必死に、お助けください、お助けください、とすがっている。
その女に対し、少女の横にいた男が近寄った。次期法王だ。次期法王の容姿は二つとないほど端正だが、彼の目と合わせれば一歩下がりたくなるほど、高圧的な雰囲気を纏っている。彼は若法王と呼ばれていた。
「それでは、天使様に献納品を捧げなさい。」
笑顔で、若法王は女につめよる。
「……。」
「無いのですか?」
「…………っ。」
女は無言でうつむく。それは肯定を表すに等しい。赤子を抱く手が一層強まり、身体が震えていた。
「なんと無礼な……。奉献品も用意しないとは、天使様を軽んじているのですか? 貴女のような人間は、ここにいる資格はありません。去りなさい。」
若法王の声は、およそ神に仕える人間とは思えないほど冷然としていた。
「お、お待ちくださいッ!! 私は貧民街に住んでいて、お金が本当にないんです! 日々の食事に困るくらい……。決して……決して、天使様を軽んじて用意しなかったわけでは……!」
「天使様のためなら、それくらい、どうとでもなるでしょう。」
「……ッ!! ……お願いします! お願いします! 私の命はどうなってもいいですから……。だからこの子だけはッ!」
女の叫びを聞いた民衆は、次第にざわつきを見せ始める。
「なんだか少しお気の毒に……。いえ、当然なんだけど、でも。」
「しょうがないよ。だって……。」
「そうだけど、私すこし可哀想で――――――。」
「静かに―――――――。」
ここにいる人々は、中にはそれなりに儲けている商人や冒険者もいるが多数が貧乏人であり、だからこそ慟哭している女に同情的な視線が集まるのも自然なことだ。けれども、手を差し伸べる人は誰もいない。気の毒そうな眼をそむけて、女のヒステリックな声を聞くだけ。
しかし、それは彼らが薄情だからではなく……、言うなれば、彼らが狂人ではないからだ。
この国の国民は、神様を、そして天使様を崇めよと、子供のころから思想が形作られている。
天使様は天から遣わされた特別なお方だから……。人間が及ぶものではないから……。
だからこそ逆らうなんて考えは浮かばないし、天使と称された子供の両手両足がなくても、それが特別なこととは感じない。ただ崇め、縋る対象であるのみ。椅子は座るもので、階段は上ったり下ったりするものであるのと同次元で、天使様は崇めるものなのである。
そうであるからして、そんな天使様に願っておきながら、献納品を捧げないのは、冒涜であるという思想は当たり前のものとして受け入れられていた。たとえ、そのお金が準備できないのを十分に理解できうるとしても、それでも女が見捨てられるのは当たり前だ、と。
子供のころから当然だとされてきたものを疑問視する人間は、まごうことなき狂人しかありえない。だからこの考えは、とても常識的な考えだ。
けれど、気の毒であるとは、ここにいる多くの人間が思っていた。
貧富差の激しいこの国では、貴族でないものであれば、金の苦悩を分からない人間は少ない。そしてそれは信仰心に、かすかな一つの陰りを与えることに……。
「待ちなさい。」
そんなことになる前に、一人の人間、人間として数えられていないただ一人、少女の声が教会に響いた。
「赤子を癒しましょう。」
「て、天使様……!?」
天使と称された少女の声は、鈴を鳴らしたような、雫を一つたらし水の波紋を広げたような、澄んでいる音がする。それでいて、教会中に反響する声は、全てを真綿で包み込むような存在感がある。
その声に、澄ました顔をしていた若法王が目を見開いて振り返った。その大げさな所作はどこか演技的だ。少女は無表情のまま口を開く。
「困っている人を見たら、助けてあげなさい。アンジュ教の教えを忘れてはいけない。」
「……申し訳ございません。」
「反省しなさい。後悔しなさい。改めなさい。そうすれば貴方の明日は今日より素晴らしいものになるから。」
「御教えのまにまに。」
「よろしい。明日のため、今日のことを忘れぬよう。」
そう言ってから、彼女は、相変わらずの無表情で目を閉じてこう唱えた。
「神よ、どうかこの赤子を助けたもれ。」
「――――――――ッ!」
赤子は白く眩い光に包まれた。誰も赤子を見ることができない。
「あっ!」
しばらくして光がなくなり、母親である女が目を向けると、赤子の顔色が平生に戻っていた。乳児らしくぷっくりとした頬にピンク色がさしている。
「熱が、下がって……。呼吸も元通りに……。き、奇跡だわ……!」
「奇跡はある。私の手の中に。」
「天使様……ッッ!!」
感極まった様子の女は頭を地面にこすりつける勢いで感謝を示した。赤毛が地面につき汚れているが、気にする様子はない。目じりには安堵と幸福の甘い涙が浮かんでいる。それが苦労と共に刻まれた皺に染みていく。
それは一度若法王に冷たくあしらわれてから、天使に助けられたため、なお一層強い歓喜となっている。
上げてから落とすのも、落としてから上げるのも、効果は同等に大きくなるのは人間の心理の道理である。
そして、その効果は女だけではない。
「天使様! なんとお美しい慈愛の御心を……。」
「これが奇跡……!」
「おぉ神よ、天使よ……聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。」
天使の慈愛の心と奇跡を目の前に、頬を赤らめぬ人間はいない。奇跡を目のあたりにした人々は、心を天使に預けていく。
「「「天使様! 天使様!」」」
全員が敬愛を深め、跪く。その目は熱狂的で、盲目的で、まさしく信者―――それだけを信じる者―――そのものだった。
「アンジュ教の御教えを心に刻みなさい。天使様に敬愛と感謝を抱きなさい。さすれば救われるでしょう。……では、本日はこれまで。」
若法王の締めの言葉によって、ひと際大きな拍手があがり、やがてそこにいた三人を除きすべての人間が同じくうっとりした表情で、貢物という名の金を落とし、その場を後にした。その去り行く後ろ姿はノアの箱舟に乗った家族のようでもあり、マリオネットのようでもあった。
果たして彼らは幸福なのか、それとも不幸なのか……。少なくとも彼ら自身は、自分たちはこの上ない幸福を与えられていると信じている。
そして、そう信じたならばそれは紛れもない事実だ、と若法王は考える。
だからこそそんな彼らの後姿を密かに見つめて、頬笑んだ。
「……幸せそうでなによりです。」
そんな彼以外に、もう一人、ぼんやりと高い天井を見つめる少女がいた。泉の中央、天使として祭り上げられた手足無き少女。
彼女の心境はいかにや……。