元本屋の娘はかく語りき
最高だ!
何が最高かって、そんなの決まっているではないか。風に乗る綿毛のように何もしなくても良い現状が、最高なのだ。
動くということは、大変なこと。大変なことは面倒。面倒なことは苦しいこと。
如何したって人は死ぬのだから、死ぬまでに味わう苦汁は少ない方が良い、という考えに異議を唱える愚物はまずいないだろう。
よって労働はなるべく避けるべきである。
何もしなくても、食べて、寝て、欲を満たせれば、それに越したことはないのだ。
働くのは、この欲を満たすためであり、それ以上のことでは無いので、理想的には食べて寝て、時々性を満足させて、また食べて寝る。こんな生活ができれば、それはもう人間としての幸福を細大なく享受したことになるだろう。
ここまで言ったからにはこれも述べておく次第であるが、例えば人を助けることが好きだとか、冒険をするのが好きだなんてことは、須らく欺瞞である。
そのようなことをさも得意げに公言する人間もいるが、あれは、本質的には三大欲求を満たしたくて、けれども彼らは承認欲求という面倒なものを植え付けられているから、自然な欲求のみを追いかけるに至れない哀れな人間の成れの果てなのである。
え? そんなこと無いって? あぁ可哀想に、自分の思考を騙し続けた結果、哀れにも自身の幸福の在処を見失った人間の哀れさよ!
承認欲求に操られた人間ほど、哀れなものはない。何故なら、食欲や睡眠欲、性欲は一時的とはいえ——一時的だからこそ再び満たす喜びがある——完全に満たすことが可能だが、承認欲求は絶対に完璧には満たせないものだからだ。もっともっとと、際限なく欲望が続く。欲望を満たすのは幸福だが、それは三代欲求のみであって、承認欲求は欲に見せかけた罠である。
満そうとすればするほど、辛く苦しくなっていく。更に求めてもがけばもがくほど、どんどん堕ちていく。
これを満たす努力のみをし続けた人間の末路は、考えただけで末恐ろしいものがある。
それを悟った私は、なるべく労働を避け、苦痛三大欲求を満たすことのみを望んだ。
しかしそう望みながら、それでも私は働かなくてはいけない状況にいたのだ。まぁ、もう既に過去のことではあるが。
家は本屋だった。町はずれにある田舎にあったものだが、其処では最も大きい本屋であった。
兄弟は何人かいて、私以外の者は学校へ行っていた。
私は面倒で行かずにおいたら、それならば、と父親が私に本屋で働くように命じたのだ。
ちなみに父親とはこんな応酬があった。
「聞いてくれ。確かに私はこう言ったよ。学校に行きたくないなら、行かなくても良いって。だが、だからと言って、お前をずっと部屋に籠らせておくつもりもない。」
―――なんてことだ。
「人との付き合いは確かに面倒かもしれない。だが、一人で生きられるほど社会は甘くはないんだぞ。だから人は支えあっている。支えあえない人間は、つまはじき者になってしまう。それは不幸なことだ。お父さんは、お前をそうさせないようにする義務があるし、何よりそうなって欲しくない。幸せになって欲しいんだよ。」
―――しかし私は、働きたくないのだが。
「うーん。あまり納得いかないようだね。」
―――当然。私は動きたくないのだ。何もしたくないのだ。
「動くのは大変か? 面倒くさいか? ……でも、その面倒さを超えたところに楽しさがあるんだよ。お父さんは、それをお前に味わってほしいなぁ。」
―――…………。
父親は、よほどの阿呆だと思った。
動いて得る幸福が、動かないで得る幸福より勝っているとして、それでも私は動かないで得る幸福を望んでいるのに、それを理解できないのだ。
そもそも動いて得る幸福なんて馬鹿げている。動くことのマイナスと、それで得たプラス、相殺されて0ではないか、それよりも動かないで得る幸福のほうが勝っているに決まっている。どうしてこんな単純計算ができない?
もちろん私も働いて金を得なければ、この先三大欲求を満たせないのは理解している。だから今まで扶養してくれたことも、それの返済を求められなさそうなことも、幸運であったと思う。
けれども現時点で、私が働こうがむしろ邪魔になるくらいで、働かなくても全く問題ないのに、働かせようとするその考えが阿呆だ。
働かなくても全く問題のない状況で働かせるなんて、あの男は娘に人生の損をお望みらしい。
私を養いたくないなら、単純に、明快に、家から追い出せば良かったのだ。でも彼はそれを許さなかったし、私も特別望まなかった。
結局、普通に家を出て働くよりは家で働いたほうが、はるかに面倒が少なかったので、それがどれだけ不合理なのかを自覚しながらも、嫌々、働いていた。
本屋の仕事は学校よりは多少楽だったが、それでも動くのは面倒で、しかし欲求を満たすのだけは楽しいものだから、死にたくもなく、宙ぶらりんな生活を歩んでいた。
そのように幸せとは言い難い生活を送っていたというのに、何故だか、私を我儘だと、贅沢者だと、怠け者だと、そう悪態をつかれることも少なくなかった。実際、近所の人間や、時には客にさえ、そう言って私をなじる者があった。
その度に、両親やほかの店員が私を庇う様に遠くへやったが、しかし一つ隣の物置部屋でも、私を非難するその声は十分に聞こえるのだ。
偽りの尺度でしか物を考えられない阿呆どもが、ぎゃんぎゃん鳴いているのは五月蠅いものであった。
そんな生活の中、私の人生に転機が訪れたのは、客足も途絶えた夕暮れ時である。私が一人で店番をしていた時のことだ。
見かけない顔が本屋のドアを開けた。少し遠い所から来た客かと思ったが、その人は本棚には目もくれず、私が座っているカウンターまで一目散に歩いてきた。
「お久しぶりです。」
黄金のような色の髪と、瞳をした若い男だった。
「数年ぶりですが、お変わりないようで。」
笑顔で物腰も柔らかいのに、何処か圧迫するような存在感がある。
その時の私は、彼の立場も何も知り得なかったが、この男の天性は、人の上に立つ人なのだろうと容易に想像できた。
薄汚れたローブを纏っているので、お忍びか何かなのだろうと推測はできるが、それもこの男の雰囲気によって特注品の立派なものに見えてくる。その変装はあまり意味がないのではないだろうか。
久しぶり、と彼は言ったが、このような威圧感の有る男を知らない。
このように印象的な男を忘れられるとも到底思えないが、もしや私は健忘症なのだろうか。いや、それよりは人違いという可能性の方がはるかに高いだろう。
「お話したいことは山のようにありますが、取り敢えずは、こちらへどうぞ。」
彼はカウンターの後ろに回って、私の手を取った。冷たい手だ。その手は私を本屋の外へ連れ出した。
本屋の外には馬車が停まっており御者もいた。御者は、本屋から出てきた私を瞥見した後、別段何も言うことは無く前を向いて馬の機嫌を取っていた。男は私を馬車に乗せ、彼自身も乗り込んだ。
珍しい事に、本屋の周りには人気がなく、馬車はそのまま発進する。
我ながら呑気なものだとは思うが、その時初めて、これが誘拐の類ではないかと気が付いた。
「あなたは……何も言わないのですね。」
彼の言う通り、何か叫ぶべきか、と悩んだがやめた。
私を誘拐するメリットが見当たらない故に、危険をあまり感じなかったのだ。それにしばらく何も話してないから、まともに声が出るとも考え難いし、何より面倒だった。
「何も話したくないのですか。」
―――YES。
「それにしたって、どうして黙ってついてきたのですか?」
―――抵抗するのが面倒だった。
「もしかして、私のこと覚えていますか?」
―――多分それは、人違い。
彼は少し悲しそうにこう言った。
「本当にあなたは、何も話すつもりが無いのですね。」
声を出すのは面倒なのだ。別にただ声帯を震わすくらいなら構わないが、口から出る言葉というのは不幸を呼び寄せるから使いたくない。本来、伝えたいことはそのまま言葉にすることなど不可能なのに、無理やり言葉の枠組みに収めて吐き出すと、それを私の真意だと勘違いされる。
人にどう思われようと如何でも宜しいが、それによって避けえない面倒ごとが起こること幾多。私は言葉を放つべきではないと悟った。
井戸の前で騒ぐ人間や、河原で語らう人間は、私にとっては考えられないものだ。きっと真意と言葉を限りなく近づけるため、真意を言葉に近づけた人間だろう。私はそうなれないし、なる意味も分からない。
故に私は何も話さなくなった。
まぁ理由は概ねこのようなものだ。発端は誰かに言われたからであった気もするが、些末事だろう?
もし将来、お金を稼ぐためにどうしても必要になったら、最低限喋るかもしれないが、少なくとも今はそうではない。故に、目の前の男が私と会話をしたがっているのは承知しつつも、私が口を開くことは無いのである。
無言で男を見ていると、彼は諦めたのか、相槌を求めない言葉を放った。
「あなたはアンジュ教を御存じですね。恐らく名前くらいは聞いた事があるでしょう。」
私の記憶では、アンジュ教とは、世界でも有数な巨大宗教であったと思う。何であるなら私の父も、アンジュ教徒であった。
幼い頃、無理にやらされたアンジュ教の祈りも覚えている。
加えてアンジュ教の神典なんて大層な物も知っている。内容はまぁ退屈なフィクションとしてしか受け取れないものであったが。馬鹿な父は毎夜、真面目にそれを読み聞かせていた時期があるので、一部は暗記してしまっていた。
このようなものだ。
『主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、豊穣と智慧をお与えになりました。
しかし地上には悪魔が蔓延っていました。
そのせいで已まない争いをあわれまれ、涙を流され、泉になりました。
泉から子が生まれ、奇跡が生まれました。
主はわたしたちのために、愛しき子を地上に残し、子は天使として、幾多もの悪魔と戦いました。
子はわたしたちのために手足をもがれ、苦しみを受け、葬られ、主の手によって復活し、天に昇り、主の右の座についておられます。
神の子は悪魔を滅して世界に奇跡をもたらすために、1000年後、栄光の内に再び来られます。』
御伽噺としても質が悪い。
何故このようなものが巨大宗教として跋扈しているのは私には理解できないが、とにかくアンジュ教とは私の知っている限りこのようなものである。
目の前の男は滔々と話し始めた。
「神の子は悪魔を滅して世界に奇跡をもたらすために、1000年後、栄光の内に再び来られます……。神典十章の中の一文ですが、この神の子とは天使様のことを指します。そして、この1000年後とは、もうじきのことのようです。」
―――ふーん。
「無論、千年単位の話なので正確ではありませんが。まぁそのような噂が流れているということは事実です。」
千年前だなんて、正確でないのは至極当然のことだ。
そもそもアンジュ教が創立された時期ですら曖昧であるのに、神典の中に書かれた千年後が分かるものか。
そうであるのに、如何してそのような噂が流布しているのか、不可思議極まりない。不自然、と言ったほうが正しいだろうか。
「思うに、天使は恐らく舞い降りないでしょう。」
―――それはそうだろう。フィクションなのだから。
「ですが私の立場としては、それは少々困る。」
―――私の立場……もしやアンジュ教の関係者か?
「ですから天使を……。天使の代わりが必要なのです。しかし、普通の人間ではいけません。こちらでも幾らか誤魔化しますが、やはり天使に相応しい人間でないといけません。世俗から、欲から、浮いてなくては。」
この話の流れは、もしや……。
「ですからあなたに、天使の代わりになって欲しい。」
あぁ、願わくば、質の悪い冗談であらんことを!
如何したものだろう。私は少なくとも欲から浮いた覚えなどないし、むしろ欲のために生きている。天使の代わりなんてものに、一番不向きに出来た女なのだが、何やら勘違いされているようだ。
宝石のように綺麗な目は、もしかしたら何も見えていないのかもしれない。そんな疑惑さえ起こってしまう。
男は、節穴をこちらに向けながら、ずずっと顔を近づけた。
その黄水晶のような瞳には、ぼんやりとしている自分が歪んで写っていた。
「いえ、正確には、“天使”そのものになって欲しいのです。」
そんな面倒な……。
「……唐突にこのようなことを言われて、お困りでしょう。しかしどうかご安心を。私どもが、あなたを天使にしますから。」
その後その男が語ることは、計画としては御粗末も良いところだった。
まず私を魔法で眠らせた後に、天使に偽装するため手足を切り落とす。その後は魔法やマジックアイテムでどうにか誤魔化す。
そしてそれを許してくれるなら、一生養ってくれるというものだった。
それは当然食事から排泄まで、指先一つ動かさずとも——そもそも指先がなくなるわけだが——生きていられるように、万全な世話をしてくれるらしい。
唐突な、それでいて奇妙な話だ。
その天使という役に何故私が選ばれたのかが、解せない。天使に相応しい人間とやらはどう考えても私でないし、そもそもこのような田舎で引き籠っている私を、彼がどう見つけたのやら。
いくら世間知らずの私とて、世界がそれ程甘いとも考えていない。十中八九、裏があるだろうことは、想像に難くなかった。
しかし……しかしだ!
一方で、非常に魅力的で甘い話だとも思う。心の天秤は、楽なほうに自然、傾く。
「無言は了解と受け取りますが、よろしいですね?」
私は何も言葉を発さなかった。
この宙ぶらりんな生活に嫌気がさしていたから、最早、微塵たりとも逃げ出す気は起きなかったのだ。
最悪の場合、死ぬところまで想像して、それでも無言で了承を表した。本屋の仕事から逃げられる良い機会であったし、何かあったら死ねば良い。母のように。
あぁノンノン! 勘違いしてくれるなよ。これは自暴自棄ではない。
死んだら如何なるかは分からないが、少なくともこのまま先私が本屋で働いていたって幸せにはなれなかったのだから、これはギャンブルではなく必然の選択である。
このままプラマイゼロの人生を送るよりは、まだこの可能性に従ったほうがいい。
もっとも、真の幸せを知らない哀れな人間からすれば、理解できないことであるのだろう。
そういう意味で私は幸運であった。神がいるとすれば、私は誰よりも神に愛されたに相違ない。神が、真実の幸福を理解する心を私に授け給うたことは、私が生まれてきてから一番の僥倖であったのだと思う。
まぁ神なんて不確かなものなので、これは戯言だが。
そして天使になった私は今、あの時の判断に間違いはなかったのだと、深く確信している。




