ルドルフ・シュタイナー『ニーチェ みずからの時代と闘う者』
前回は、歴史をどう語るか、特に、語るそばから、語るまさにそのことによって虚偽になる歴史をどう語るかというお話だったが(読んではいるけど伝わらない)、今回は、進化をどう見るか、という話です。なんといっても、シュタイナーを語るとは進化を語るということだもんね。進化と、あとゲーテだ。
ところで、ぼくはまだいい本の紹介をやめようと思う。もともと、急にはじまった企画でもあるし、毎週まだいい本を紹介する、という「かた」ができてくると、そこに自分のなかのあせりが見えてきた。あせっては何事もうまくいかない。「一流の作家は、ピリオドの打ちかたをよく心得ている。」ということだ。もちろん、まだいい本はいっぱいある。しかし、それはもうぼくではなくて、読者のみなさんが見つけていってほしい。すくなくともまた別の機会が来なければ、そうである。これはまだいい本だな、と思ったら、そっと書棚に戻してあげてください。
それで、シュタイナーを語るとは進化かゲーテを語ることなのだが、進化だったら、ぼくはグールド無手勝流、若いもんにはまだまだ負けん(ちぇすとおっ!)、となるのだが、ゲーテとなると、いっこうによくわからない。『若きウェルテルの悩み』も買ったが、よくつかめない。脱線が多すぎるし、飛躍も多すぎる。『ファウスト』とかも、寝る前に読むのにはいいが、だいたいゲーテは水成論者だが、ぼくは火成論者なのだ(大洪水の水が退くときに、プリュームが沈降して、いまのユーラシア大陸ができた。種蒔きや刈り入れ、寒さや暑さ、夏や冬、月ができたのもきっとその頃だろう)。そっからして違う。
シュタイナーは、キルヒェリアーヌムじゃなくてゲーテアヌムをつくってしまったほどのゲーテ主義者だから、ニーチェを語るのにも、ゲシュタルトを形成した見えない力を見つけようとした。いま学校で黒板にドローイングして記憶させるのもこの能力の訓練になっている。
ニーチェは普遍キリスト教という問題と戦った、一般にはそう思われている。しかしシュタイナーの考えはすこし違う。ニーチェをつくったのは19世紀という時代、徹頭徹尾19世紀の問いだったので、ニーチェを21世紀まで持ち越すことのほうが機械蜘蛛の世界征服につけ入る隙を許すことになるのである。
たとえばニーチェは理想とか、道徳的世界秩序から人類の精神的な進化を説明することを認めない。それは、カント主義的な、カテゴリーにもとづく進化、という観念から、19世紀が勝ち取った、発生学的な進化の概念なのだ。
この、人類は理想によって進化しない、ということの視覚的な説明として、シュタイナーは自然はどうやって眼を生じさせたのか?というところを考える。この「どうやって」というのに「何のために(目的因)」というものがふくまれると近代の自然研究者は考えない。とうほうの『ビジュアル生物』を開いてみれば、眼杯が形成体となってレンズができ、レンズが形成体となって角膜ができる、という誘導の連鎖が絵入りでくわしく記述されている。この誘導の連鎖は目的がない点では病菌が侵入して病変するのとまったく同じだ。近代の自然研究者はそう考える。
ニーチェはしかし、ヘーゲル的な「有機体にはただ一つ目的があって、それは有機体自身である」という考えに共鳴する。「自然は決して跳躍しない。しかしその自然がここで一回だけ、跳躍してみせる。嬉しさのあまりの跳躍である。なぜなら自然は初めて、目標に達する自分を感じたのだから」(高橋巖訳、岩波文庫、143、144㌻)。強い人間も弱い人間もいる、ひとつの民族社会全体が、ひとりの人格のイマーゴに、民族有機体そのものを見出す。たとえば、フリードリヒ・ウィルヘルムという人に。
こういうニーチェに、シュタイナーはけっきょく「ニーチェはあまりに進化論に傾倒しすぎたのではないか」「社会有機体論に加担しすぎたのではないか」と言うしかない。これではどちらが創造論か、わからない。
ニーチェなんか読まなくても、進化を感じたい人は、上野で科学博物館に行けばいいのではないでしょうか。そして、レストランでまったりすればいいのではないでしょうか。ごきげんよう、さようなら。




