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まだいい方のブック紹介  作者: スネ男
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ミルチャ・エリアーデ『聖と俗』

1910年、ドイツ帝国皇帝ウィルヘルムⅡ世は演説でカイザー・ウィルヘルム協会の設立を宣言した。建白したのはベルリン大学神学部教授アドルフ・フォン・ハルナック。いまのマックス・プランク研究所にあたる。

1910年、11年が意外と世界史的重要性をもっていることは、もっと知られてよい。1911年に中国では辛亥革命が起きている。二十年、百年という区切りには意味があるものなのです。

それで、なぜハルナックが総合的な科学研究所の構想をもっていたか?考えてみると、それには当時の時代的な文脈があった。

19世紀ドイツでは、ローマ法の再評価やギリシア語の読み書きが一般教養となるなど西洋古典文化の再認識がすすみ、「歴史学派」とよばれる思潮を生み出した。ハルナックはそれに乗って、「歴史的事実にもとづくキリスト教」を断固提出した。

ハルナックによれば、宗教や倫理においては確信をもたらす唯一の源泉は歴史である。ハルナックは18世紀の終わり頃登場してきて19世紀の大きな流れをつくったヘーゲル同様、キリストの生存の意味は歴史の大きな流れのなかで見られなければならないとしたのである。そこには「それがドイツの国益になる」という冷静な打算もはたらいていた。『エンチュクロペディー』の水準でドイツ科学が止まってしまっては、ドイツの世界史的使命は果たせないのである。カイザー・ウィルヘルム協会設立の建白、そういう事情も、あった。

しかし、歴史的事実にもとづくキリスト教、よく考えると困ったことになる。もしもキリストが架けられたのが十字架ではなくまっすぐな一本の杭だったとしたら、それが歴史的事実ということになるのか。もし科学的、歴史的に調査に調査を重ねた結果、十字架に架けられて死んだのはキリストの弟のイスキリであり、キリストは日本に亡命して青森で死んだということになったら、それが歴史の真実ということになってしまうのか。実際にも、近代日本のプロテスタント文学者は「奇蹟を起こせないキリスト」「詐欺師キリスト」を好んで表現したし、ハルナック自身、『ヨハネ福音書』は歴史書というより神話であるとして『ヨハネ福音書』を排斥することさえした。

ハルナックに反旗を翻したのが、マールブルク大学新約学正教授のルドルフ・ブルトマンである。ブルトマンは歴史を重視しながら、歴史が「生きられた歴史」だとすれば、そこには歴史を伝承する「生活の座」というものがあった、というところに重点を移す。イエスの言行録(ロギオン)やその解釈は、それぞれの生活の座であった教会で独自に継承され、神の神聖な宣言である新約聖書になった。マタイ教会やヨハネ教会でも、適度な声量でもう一回を出されていた人がいたということである。「新ストア主義キリスト教」や、「キリスト身代わり説」にもそれぞれの「生活の座」があったということでもある。これは凄い。関係ないが、ブルトマン、もしノーベル神学賞というものがあったらメダルをもらっていただろう。

その上で、ブルトマンは現代のキリスト教の生活の座の環境は、1世紀のキリスト教の生活の座の環境と違うのではないかと考えた。新約聖書の世界像は、東西南北の方向に世界が無限に広がり、天の果てから地の果てまで人が住んでいるような世界観である(マルコ13:27; ルカ13:29)。その世界観そのものがキリスト教の核心ではなく、その世界観にこだわることはイエスが命じた「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」(新共同訳)という命令にそむくことにつながる。イエスが始めたキリスト教の運動とは、イエスをキリストとして伝えるケリュグマ(宣教)が人々を内面から変えていくことではないか。そう言って、ブルトマン、1919年以来主流派となる神学に加わってしまう。

ハルナックの立場とブルトマンの立場は、それぞれ自由主義と福音主義という二つの神学的立場を代表しているので、この二つの立場のあいだには無限のグラデーションがあることになる。たとえば、ぼくだったら「①キリスト教の本質は、歴史を証言することで、その歴史は、②日本史か、③科学史である。」となる。ただしぼくが日本史という場合、小松左京の日本史なので、かなり一徹なSFファン道になる。またパスター・ラッセルにとっては、キリスト教の本質は明確に贖いである。

(あがな)いを説明するには、例えによるのが手っとり早い。こんな情景をイメージしてみてほしい。舞台はアメリカ開拓時代のテキサス。テキサス自由国ははじめからなかったことになって(アメリカはそういう国だ)、鉄道と電信がやってきた。アルチンボルドさんはこの仕事20年になる鉄道の機関士さんである。ラム酒が好きだし、女性の給仕さんには流し目もする。普通のおじさんである。

ある時、列車に故障が起きた。市街地に突っ込まないようにするには、だれか一人機関車に残って、命を犠牲にして最後まで操作しなくてはいけない。ここでアルチンボルドさん、ほかの乗員を飛び降りさせ、自分ひとり機関車に残って、壮烈な爆死を遂げた。

事件のあと、ふしぎな事が起きた。男たちが酒を飲んだり暴れたりしなくなった。子どもたちの目つきも違う。聞いてみると、みんながアルチンボルドさんみたいになりたいと言う。アルチンボルドさんの犠牲が、人々をちょっとだけ変えたのである。

以上は架空の話である。「『ほんもの』をまねした『まねもの』が『ほんもののまね』になり、さらにその『まね』のまねが次々生まれてゆく」という、ケリュグマ(宣教)のプロセスの、パスター・ラッセルらしい説明である。ボードリヤールを南北戦争の直後に先取りしているところが、アメリカらしいのか。

本書も、エリアーデが宗教現象の本質を介してキリスト教の本質に迫る、という運びになっている。そこでは「本源的、非歴史的キリスト教」(風間敏夫訳、法政大学出版会、154㌻)がクローズアップされていた。キリスト教の本来の敵は、マニ教や、『トマス福音書』をうまく翻案してもうけたいSF小説家だ、ということなのだろう。

それにしても、ナザレのイエス、なにをした人だったのだろうか。たぶん、イエスはとくになにも考えず食べたり飲んだりして、機会があったらしゃべって、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(ヨハネ9:39; 12:48、新共同訳)とか言って、そうしてはりつけになって死んでいった人なのである。

はい、これで終わりです。

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