エルンスト・クライドルフ『ふゆのはなし』
何か月かに一回、”向こう側”の世界がふっと訪れてくる、そんなことがありますね。朝鏡を見ていたら、鏡の中の姿が嫌韓流の後輩そのものだった。赤信号で停まった先のスリップぶつけ事故。そういうことだ。
”向こう側”の世界が必ず奇妙な世界かというと、そんなことはない。”向こう側”が一貫した合理をもった一つの世界と考えたっていい。ふしぎの国のアリスやユークリッド幾何がそうやって構想されたし、アウグスティヌスの『神の都』もその「でん」にのっていた。
そういう「啓蒙主義」(エンライトメントまたはイルミネーション)ばかりが向こう側の世界に対するやり方ではなくて、向こう側の世界とこちら側の世界が混ぜこぜになっていったっていいし、向こう側の世界の論理をこちら側にこっそり持ち込む(同じことだが、こちら側の世界で主張したいことを、向こう側で大々的に表現する)ということをやったっていい。”混ぜこぜ”がバロック、”密輸入”がロマン主義、ということになる。
ハイネによれば、ロマン主義の起源はカントらしいが(もっとも、ハイネは人間のように話すろばから詩想を得ていたらしいから、話半分に聞く必要があるけれど)、カントは権利においてある向こう側の世界が、こちら側で物理的・動力学的な序列構造を実現することで、こちら側の世界の「根底にある秘密」の黒幕になる、というようなことを構想したから、当たっているかもしれない。
本書がロマン主義の本だ、と言って、怒られないかなあ、と思って書いているんだけれど、本書はクライドルフの1924年の絵本、ということだから、たしかにロマン主義というのはもう塹壕の向こうに霞んでしまった時代なのかもしれない。本書原題は『Ein Wintermarchen』(ウムラウトの出しかたがわからない)だから、「冬のメルヒェン」ということになる。「おとぎの冬」というのもいい。メルヒェンの定義は人それぞれだろうが、少なくとも昔ながらのメルヒェンでは、もうない。電化と量子の新時代が来ているのです。
本書は白雪姫を助けた七人の小人のいとこの三人の小人が「白雪姫は、七年ごとに七人の小人をたずねてきて、そのときは、ひどい雪あらしのなかをおりてくる」(大塚勇三訳、福音館書店、4㌻)という古い言い伝えを思い出すところからはじまる。ぼくも読者のみなさんも、七人の小人にいとこがいて、それが三人もいたなんてこと、聞いたこともないのだから、たしかに古いメルヒェンとは違う。
三人の小人は雪のなかを七人の小人と、そして白雪姫に会いに出かける。動物たちや、雪のおばけや、氷の精に会いながら、二匹の子リスのひくソリに乗って、ついに七人の小人の住んでいるあたりにたどり着く。七人の小人は、ちょうど白雪姫のための宴会の準備をしていた。
ところで、読者諸姉には申し訳ないことかもしれないが、男性諸氏の多くにとっては、向こう側の世界を感じさせてくれるのは女性というものなのである。氷の精をのぞけば、本書には3人の女性が登場する。
①わるいお妃。これは、中世=19世紀的存在であり、世界大戦を起こした古い列強貴族を寓意している。いまの「王子と白雪姫」の世界を直接に準備した、ある意味ありきたりの女性性である。
②ホレおばさん(マザー・ホレ)。民話の登場人物で、もともとは秋に実りを与えて冬姿を消す小麦を象徴した春の女神・ホルダまたはフルダである。ホレおばさんが振るったまくらから出る羽根が雪になるとされ、雪と降り積もる小麦粉をイメージの世界で結びつける、豊饒の贈与者である。人の生命を奪いもする雪と結びつけられることで、名実ともに太母の元型を体現している。影の薄いキッチュとなりながら、キッチュであるからこその生命力と存在感を発揮している。中世以前からの歴史の古さから、男性的形象で現れることもできる、「別格」の存在。十人の小人たちもマザー・ホレの分身かもしれない。
アイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェイツが「1919年」という詩で「Herodias' daughters have returned again,(ヘロデヤの娘らがまた戻って来た。)」(『対訳 イェイツ詩集』、高松雄一編、岩波文庫、228、229㌻)と歌っているのもこのホルダ、またはフルダ、つまりマザー・ホレのことである。
③白雪姫。戦後(戦間期)の新秩序の女王であり、新たな列強貴族である。わるいお妃を倒して「わたしは目がさめ、じぶんが妃になりました」(大塚勇三訳、福音館書店、24㌻)と言っているから、白雪姫自身「継承性」を自覚している。たぶん、何千年も繰り返されてきた交代劇なのであろう。
どうであろう、クライドルフ、民話的想像力の根幹に迫っていなかったであろうか。クライドルフ、スイスのベルンに生まれ、石版工として腕をみがく。1898年に絵本「花のお話」を出版。ここからわかるのは、クライドルフは「科学の人」だったことである。植物学は、18世紀の偉大な理性だったのだ。しかし、時代は世界大戦の20世紀になっていた。塩素ガスも使われた。エラズマス・ダーウィンのロマン主義は、もう通用しない、ジャズの新時代になっていたのである。しかし、クライドルフはロマンの心を捨てられない。白雪姫に、雪の結晶にロマンを託することにした。
本書は、子どもには少しょうわかりにくい。なにしろ、三人の小人が主人公で始まったのに、最後に三人の小人は帰っていって、七人の小人が「来たる七年間の孤独」を嘆く、という視点の転換になっている。
「「白雪姫は、どこにとんでいったのかねえ?」と、ひとりがききました。/「雲の中のどこかかな?それとも、雲をこえた、もっと遠くかな?それとも、もっとずっと遠くの、どこかの星の上かしら?」と、みんなはいろいろかんがえました。」(同上、34㌻)ぼくは、この不決定こそ、ポスト世界大戦という、まさに「歴史的現在」というものだと思う。そして、その歴史的現在に、ホレおばさんは雪のまくらを、振りつづけるのである。文明が、何千年かたって、雪のなかに埋め込まれた、やがて化石になるように-。
ぼくたちは、向こう側の世界を、避けることはできない。




