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後篇 ずっと、ずっと――

「だから、あの部屋はやめとけっつったんだよ!」

「だってさぁ。俺、そういうの全然信じてなかったんだから仕方ねぇだろ!」


 二人の若い男が小声で諍いのような会話をしている。

 すぐそばには古びたアパート。壁に取り付けられたプレートには『裏野ハイツ』と書かれている。

 

「仕方ねぇだろ! じゃねえだろ、三原(みはら)。俺さ、何回も止めたよな。それを押し切ったのはおまえだろーが」


 三原と呼ばれた男は急にしゅんと肩を落とした。


「……裏野の言葉信じなくて悪かった。本当にああいうのっているんだな」

「まーな。俺だって半信半疑だけどな。入居したみんながそういうんだからいるんだろうよ。ああ、そうだ。おふくろから伝言。引っ越すんならさ、うちで持ってる他のアパートどうかって。敷金は要らねーってさ。ただな、家賃が五千円ぐらい高くなっちまうんだけどよ。まぁ、ここより新しいし、俺としても結構おススメな物件だ」

「そこって……」


 三原はなにかを言いたげに、上目遣いで裏野を見た。


「心配すんなって。そっちは何もでねーから!」

「そっ……か。良かった! それなら五千円高くなったって全然かまわないよ。とにかくもう幽霊はこりごりだ」


 裏野が笑えば、三原はようやくホッとした表情を浮かべた。


「今日は付き合わせて悪かったな」

「ん? ああ、気にすんなって。大家の息子としてはよ、やっぱ入居者のことは心配だしな。なによりお前は友だちだし? 今日はとりあえず身の回りのものだけ持ち出すんだろ?」

「うん。さすがにもうここには住む気が起きないからさ」


 裏野は金色に染めた髪を揺らして、そうかそうかと頷く。


「んじゃ、さっさと終わらせますか」

「待った!」


 ためらいもなく歩き出そうとする裏野の手を、三原が慌てて掴んだ。


「んあー? なんだよ、三原。日の高いうちにさっさと終わらせようぜ?」

「いや、それはそう、なんだけどさ。先に教えてもらえないかな? あの……」

「あの?」

「……幽霊の……こと」


 認めてしまうのが怖いかのように言いよどんだ。認めてしまえば幽霊が彼らの眼前に飛んでくるとでも思っているのか、うつむき加減の顔はひどく強張っている。


「ああー? そんなもん先に聞いちまったら、余計怖いんじゃねぇの?」

「いや。俺としては何も知らないまま行くほうが怖い……ような気がするんだ」


 なんとも歯切れの悪い言い方だ。

 言葉の真偽を探るように、裏野はじっと三原を見下ろす。


「俺さ、ここに入居する時お前に、曰くなんて聞きたくないから何も話すなって言ったろ? あれさ、聞いちゃったらそれが頭に残って色々想像しちゃいそうだったからなんだ。でもさ、こうなってみるとやっぱり気になるんだよ。あの人、どうしてあんなになっちゃったんだろって。すげぇ形相だったからさ。元は普通の女の子だったはずなのにな」

「ふぅん」


 三原の弁解に、裏野は表情を和らげた。


「三原……お前、ほんっとに女好きなのなー」

「なんだよそれ!」

「普通さー、幽霊のこと気にかけたりしねぇよ」


 裏野はニヤニヤと笑う。完全にからかって面白がっている顔だ。


「ま、いっか。話すわ。――別にな、あの部屋で殺人事件があったとか、自殺があったとか、そう言うことはねえんだよ」

「え? それ……」


 三原は、あの部屋で人死にが出たのだと思っていたため、裏野の告白に少々驚いたようだ。


「ああ。だから、あの部屋が事故物件になったことはねぇ。ただ、ある時から女の幽霊が居座るようになっちまったんだよ。その直前に住んでた女がな、行方不明になったんだよ。暫くしてから遺体が見つかって。それからなんだよ」

「じゃあ、その時住んでた女って言うのが……幽霊の正体?」

「かもな」


 裏野は沈んだ顔で頷いた。彼が振り仰いだ視線の先は件の二〇三号室だ。


「なんでもその女はロクでもない男と付き合ってたらしいんだ。んで、別れ話だか何だか分かんねぇけど男と諍いになって、どこかで殺されて山奥に捨てられたっつう話だ」


 ずさんな遺棄だったらしくすぐ発見されたのと、犯人が逮捕されたのは不幸中の幸いかな、と裏野は締めくくった。

 話を聞き終えた三原は何かを言いかけては止め、また言いかけては止め、それを何度か繰り返した挙句、ぽつりと呟いた。


「――出て行けって言われた」

「あ?」

「待ってるんだよ、きっと。殺されたことだって分かってないんじゃないかな」

「へぇ。そうなのかもな。俺は見たことねぇから分かんねぇけどよ」


 三原は聞いてよかった、と力なく笑う。


「んじゃあ、今度こそさっさと荷造り終わらせちまおーぜ! 大丈夫。俺が見張っててやっからよ」


 三原を勇気づけるためか、根っからの性格か、裏野は晴れやかに笑い、三原を置いてどんどん進んでいく。

 途中、一〇三号室から出てきた女性とにこやかに挨拶をかわす。


「あ! 一〇三号室の奥さん! 今日も暑いっすねぇ」

「あら。大家さんの。こんにちは。本当に暑いわねぇ。今日はどうしたの?」

「ん? ああ、野暮用ッス。コイツの荷物を取りに」


 とにこやかに言いながら、親指で背後を差した。


「この前引っ越してきた方ですね。ええっと、三原さん? 大家さんの息子さんのお友だちだったんだ」


 体を少しずらして背後に目をやった女性は、三原の姿を認めてぺこりと頭を下げた。三原が引っ越して来たときに顔を合わせているので、会うのは今日が二度目だ。


「ええ。裏野とは大学からの友人で。あ、あの、俺、煩くないですか? 昨夜とか、その……足音が……」


 取るものもとりあえず飛び出した昨夜を思い出して、三原はおずおずと尋ねた。情けない悲鳴を上げつつバタバタと走った記憶だけが鮮明に残っているので、階下はさぞ煩かったろうと考えたのだ。


「いいえ。全然。昨日はもちろん、いつも静かですよ」

「そうですか。安心しました」


 と言う割に、三原の口調は浮かない。女性は怪訝そうに彼を見たが、何か言うようなことはなかった。


「ママ、まだ?」


 奇妙な沈黙の中に、幼い声が割り込んだ。声は女性の背後から聞こえた。

 女性のロングスカートの生地をぎゅっと掴み、半ば彼女に隠れるようにして幼い男の子が女性の顔を見上げている。


「あ、ごめんね」


 男の子に謝ると、彼女は裏野と三原に向き直った。


「すみません。じゃあ、私はそろそろ……」

「あ、こっちこそ引き留めちゃって悪かったッス」


 彼女と裏野がやり取りをしている間、男の子は三原をじっと見つめる。


「ねぇ、二階のお兄ちゃん」

「ん? なんだい?」

「お兄ちゃん、女の人と一緒に住んでるの?」

「いや。ひとりだよ。どうして?」


 男の子はまだたどたどしいながら、懸命に言葉を紡いでいる。普段だったらその必死さが可愛らしいと思うだろうし、また話し終わるのを微笑ましく見守ったに違いない。

 が、今の三原には先を聞くのが嫌で仕方ない。しかし、遮るのもまた嫌だった。

 鳥肌がぞわぞわと背筋を上る。


「だって、きのー、お兄ちゃんのとこのベランダに、女の人いたよ」

「え……?」

「こら! ひーくん。変な事言っちゃダメよ。――ごめんなさいね。この子きっと他の部屋と見間違たんだわ」

「ちがーう! ひーくん、ちゃんと見たの! おねーちゃんいたの! 手、振ってくれたもん!」


 男の子は頬を膨らませた。


「誰もいなかったわよ! 変な事言っちゃダメ。――本当にごめんなさい。この子、空想が好きみたいで、たまに居もしないものを見たって言うことがあって」

「や、気にしないでください。ほら、小さい頃って誰だってそーゆーことあるし。なぁ、三原!」

「あ、う、うん」


 話を振られても、上手く返せるほどの余裕はない。頷くのがやっとだった。

 腕にまで這い上がってきた鳥肌を、さすることでどうにか宥めている状態だ。

 母親と裏野が、誤魔化すように話を盛り上げる傍らで男の子は目に涙をためて小さく呟く。


「ぼく、嘘ついてないもん。嘘じゃないもん」


 信じて貰えないのは辛くて悔しいだろう。三原はそっと男の子の前に膝をついた。


「お兄ちゃんは信じるよ。君が見たこと。ボク。昨日見たお姉ちゃんって、もしかして首のところ怪我してた?」

「うん。すごい痛そうだった」


 昨日、一瞬だけ見た女の姿が、三原の脳裏に浮かんだ。

 濁った眼球、長い黒髪はぼさぼさに乱れ……首に赤黒いあざが浮き、そして変な風に曲がっていたのだ。まるで首の骨が折れているかのように。

 ぶらぶらと不安定に揺れる頭。唇は紫色に腫れて、口の端には殴られたような青いあざ。そこから発せられる恨みがましい低い声。

 あのいでたちはひーくんの言う『痛そうだった』と言う姿そのものではないか――


「君も見たんだね」


 男の子は小さく、しかししっかりと頷いた。

 それは三原にとって心強いものなのか、それとも不安をあおるものなのか。彼自身にも判別がつかなかった。


「アレはね、人とはちょっと違うんだ。もう近づいちゃダメだよ」

「ん」


 大人たちのやり取りから、子どもなりに何かを感じ取ったらしい。素直にうなずいてにこりと笑った。

 それは幼い子に相応しい屈託のない笑みだった。


「おい、三原。そろそろ行こうぜ」


 裏野の声に、彼は立ち上がった。

 

「んじゃ、また!」

「お兄ちゃんたち、ばいばーい!」


 これから出かけると言う親子に向かって大きく手を振る裏野の後ろで、三原もまた小さく手を振った。

 母に手を轢かれた幼子は、何度も振り返っては二人に手を振り返していた。


「ちっちぇえ子は可愛いなぁ、おい!」


 にこにこと相好を崩す裏野を、三原はまぶしそうに見上げて微かに微笑んだ。

 これからあの部屋に戻らなければならないという重圧が彼に重くのしかかっているのだ。


「なんだよ、元気ねぇな。大丈夫だって。俺、おふくろから良く効くってお守り貰って来てるから。あ、お前の分もあるぞ!」

「あ……サンキュ」


 無造作に手渡されたお守りを握りめた。


「アパートとかマンションとかいくつか持ってるとどうしても事故物件って出ちゃうんだよな。んで、そう言うとこ行くと、人によっては体調崩したり、変なもんみたりするんだとさ。で、このお守りの出番ってわけ。これ持ってると見ないんだとよ。と言っても、効果はそう長く続かないらしいから、ま、短期決戦で行こーな!」


 三原を焦らせるようなことを言いながら、がははと豪快に笑う。







 三十分後。三原と裏野は荷造りを済ませて、アパートを後にしていた。


「やっぱこのお守り、効くんじゃね?」

「かもな。何もなくて良かった」

「なーにビビってんだよ。そんなにすげえ姿なん? ちょっと見てみて―な」


 一仕事を終えて気が大きくなったのか、裏野がとんでもないことを言い出した。


「やめとけって。後悔するぞ」

「んだよ、お前。見たからって威張ってんじゃねーぞー」


 窘める三原に向かって、大人げない不満をこぼす。そんな男を無視して後ろを振り返る。

 西に傾いた陽を背に佇む一棟のアパート。

 築三十年。古びてはいるが、良く手入れされていて清潔感がある。住み心地も良さそうで、住民の出入りも激しくない。

 一見、どこにでもありそうな、普通のアパートで、街の風景に違和感なく溶け込んでいる。

 なのに、あそこには……


 つい昨日まで自分のものだった部屋――厳密に言えばまだ彼が契約をしているわけだが――、そのベランダに何かゆらりと揺れるものが見えた気がした。

 三原は慌てて視線を外し、前に向き直った。

 もう二度と振り返るまいと決めて。

 振り返ったらもっと鮮明に『何か』が見えてしまう気がしたから。




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 ユージくん、遅いなぁ。

 いつ、帰ってくるんだろ?

 私、こんなに待っているのに。

 ずうっと待っているのに。

 

 ああ、首が……痛い。

 痛い、イタイ、いたい、痛い。

 どうして痛いの。


 ねぇ、ユージくん。

 なんで痛いのかな。

 どうして首が曲がってるのかな。


 きっと、ユージくんが帰ってきたら、さ。

 嬉しくてこんな痛み消えちゃうよ。


 だから早く。

 ねぇ、早く。

 帰ってきて。

 帰ってきて。


 ああ、それにしても痛い。

 痛い、痛い。

 寂しい、寂しい。


 サミシイ。


 死ンジャイソウナクライ、サミシイ ナ……



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