第七十二話 敗北の後のようです──悔しいようです
ミュリエルの意識が戻ったのは、その日の夜半であった。
「……見覚えのある天井」
目を開いた彼女の視界に最初に映ったのは、寝不足時に時折お世話になっている保健室の天井。
ミュリエルはしばらく、己がどうして保健室のベッドで寝ているのかを理解できなかった。
「どうやら目が覚めたようですね」
声を掛けられて、ベッドの側に人がいる事に気が付く。そちらに目を向けると、柔らかい笑みを浮かべた学校長が椅子に腰を掛けていた。
ミュリエルは反射的に上半身を起こしたが、全身を駆け巡る痛みと疲労に顔を歪めた。
「ああ、駄目ですよ安静にしていなくては。『夢幻の結界』のおかげで外傷こそ無いですが、躯に残った疲労と痛みは残ってますからね」
躯を起こし掛けたミュリエルの肩に手を置き、ゆっくりとベッドに寝かす学校長。彼女は特に抵抗することも無く、再びベッドの上で横になった。
学校長の口にした『夢幻の結界』。それに加えて躯に走る痛みに、ようやくミュリエルは己がこの場所にいる経緯を思い出した。
「そっか……負けたんだ、私」
決闘の最中に見せた狂気じみた興奮は既に潜まっており、普段通りの淡々とした口調だ。
「大賢者の弟子の実力はどうだったい?」
「……私の想像を遙かに超えてた。それと、闘いがあんなに楽しかったのは初めて」
「そうか。随分と有意義な機会になったようだね」
「はい──────?」
学校長の言葉に頷いたミュリエルだったが、ふと己の胸に手を当てた。
この胸に深い満足感があると同時に、名状しがたい何かが燻っていた。
リースとの決闘に充実感を抱いていたのは間違いない。魔法使い同士の闘いで、あそこまで心の底から楽しんだ事は無い。師との手合わせであっても、リースとの闘いほど心は躍らなかった。
それこそ、再戦を願い出るほどに。
けれども。
「──なんだろう、これ?」
苛立ちにも近い感情が、ぐるぐると躯の中で行き場を求めている。
そんなミュリエルを目に、学校長は笑みを浮かべた。
師として彼女に長く接してきた学校長には、ミュリエル自身が計りかねる感情の正体が分かっていたのだ。
「君が悔しがるのは珍しいですね」
「私が……悔しがる?」
最初、学校長が何を言っているのか理解できなかった。
「君は同世代の魔法使いに負けたことが無いからね。悔しいという気持ちに慣れていないんだろう」
ミュリエルの記憶にある限り、彼女は同じ年頃の魔法使いに負けた経験が無い。
敗北するときは決まって、師である学校長が相手だったり、己よりも長い月日を研鑽に捧げてきた魔法使いの先達。負けて当然という闘いばかりであった。
しかし、今回は違う。
相手が──リースが強敵であるのは最初から分かりきっていた。その上で、彼に勝つための策を弄した。手を誤らなければ確実に勝利できる──そう考えていたはずだ。
ミュリエルは致命的に選択をミスしたわけではない。むしろ策は最後まで完遂した。本来であるならばそれで勝ちのはず。
けれどもリースはその策を上回る強さを発揮した。
ミュリエルの予想の上を行っていた。
その結果が此度の敗北。
──ああ、と彼女はようやく理解した。
要は己の詰めの甘さを悔やんでいるのだ。
未だ己は常識の中に捕らわれたままだった。『魔力瞬間回復』という破格の能力に目が眩み、更その一歩先にある可能性まで辿り着かなかった。
あるいはそこにさえ気が付けば、もっとやりようがあったのではないか。
気が付くと、様々な後悔が押し寄せてくる。
──あの時ああしておけば良かった。
そんな考えがいくつも頭の中に浮かんでは消えていく。
学校長はミュリエルのそんな様子を見て嬉しく思う。
──ミュリエルは魔法使いとしては優れた土台を有している。
魔法を扱うセンスに加えて、魔法を科学的に分析する現実的な思考。結果が出るまで何度も試行錯誤を繰り返す根気。何より、魔法を楽しむ好奇心の強さ。
優れた才能を持っているがゆえの奢りもほとんど無い。強いて言えば、一つの物事に集中するとそれ以外のことに目が行かなくなる点であるが、これも美点と捉えられなくも無い。
だが、一つだけ彼女に欠けていたものがあった。
同世代の競争相手だ。
学校長もその本分は研究者であったが、若かりし頃は友人でありライバルである魔法使い達と切磋琢磨し、腕を競い合っていた。あの頃に抱いていた『対抗意識』という熱意が無ければ、己は『学校長』と呼ばれるほどの地位には立っていなかったはずだ。
ミュリエルを半ば強引に学校へ入学させたのもこのため。彼女に競い合う相手を得て欲しいが為に、才覚ある者が多く集まるこのジーニアス魔法学校へと送り込んだのだ。彼女が、対等に接することの出来る友人を得るために。
学校に入学した当初、相変わらず他人に無関心の独立独歩を貫いていたミュリエルを心配していたが、もうその必要は無い。
今日この時を以て、彼女は対等以上に渡り合える友人を得たのだから。
リースだけではない。彼の周りには学校長の目から見ても才覚あふれる若者たちがいる。きっと、彼らの存在はミュリエルを良い方向に導くだろう。
──ミュリエルは、胸に手を当てて考え込んでいた。
リース・ローヴィス。
自分に魔法使いとしての楽しさを再認識させ、それと同時に敗北と悔しさを植え付けた相手。
どこまでも無邪気に魔法を追求し、心の底から魔法を楽しむその姿を思い出す。
──満足感と敗北感。そしてもう一つ、不思議な感覚があった。
(なんだか、ドキドキする)
リースの事を……彼の顔を思い出すだけで、胸の奥が締め付けられるような気がする。魔法の事だけではない。もっとリース自身について知りたい。彼と深く関わりたいと。そんな考えが強まっていく。焦燥感にも似た気持ち。
けれども、決して悪いモノじゃない。
この気持ちの正体を知りたい。
胸に当てた手をぎゅっと握りしめ、ミュリエルは一つの決意をした。
「師匠、お願いがある」
──ミュリエルの申し出に学校長は少しだけ驚き、そして快く受け入れた。
次のお話でミュリエル編は終わりです。
終わりとは言いますが、ミュリエルちゃんは今後もしっかりばっちり登場します。