第百三十五話 不安です──深呼吸をもう一度しました
──グラリと視界が揺らめいた。
魔力の消費が以前よりも格段に抑えられるようになったとしても、どうしても避けられない瞬間が訪れる。消費が五から一に減ったとしても、確実に一の魔力は減り続ける。やがて、それは体へ反映される。
魔法使いにとっては当たり前のことであり、だが意識していたとしてもやはり僅かばかりに躰から力が抜ける。
「くっ」
運の悪いことに、それは目の前に水鞭が迫っている時にやってきた。
対応が遅れ回避が間に合わない。
「──っ!?」
勢いある水の鞭が左肩に触れた。
途端、左半身が吹き飛ばされるような衝撃が伝わり躰が弾かれる。ジーニアスの学生服には魔力に対する抵抗力を有しているが、気休め程度だ。
痛みに視界が明滅する中で、僕は無我夢中で水流走を使う。方向も何もあったものではないが『この場にいてはいけない』という直感だけで躰を動かす。
僕がその場を脱出するのと少し遅れて、水鞭が僕が一瞬前までいた場所を幾重にも穿った。あの場に止まっていれば、その時点で決闘が終了していた。
左腕はまだ動くが、その度に肩に痛みが生じる。それでも、決闘を続けるには問題ない。
ウォルアクトを見れば、決闘の開始時に比べれば消耗しているだろう。それでもまだまだ余裕のある様子。
対して僕は、魔力も体力もかなり少なくなってきている。
特に深刻なのが体力だ。
元々、僕の体力は少ない。これまで胸を締め付けて生活していたために呼吸がままならず、すぐに息切れしてしまった。それを避けるために、体を動かすような鍛錬はほとんど行ってきていなかったからだ。
決闘が始まる以前からこの展開は予想できていた。
僕と彼では消耗の速度が違う。だから、時間が経てば経つほど僕が追い詰められていくのは自明の理だった。
それでも、僕は真っ直ぐにウォルアクトを見据えている。
「いい加減に諦めてくれないか」
ふと、水城塞の向こう側にいるウォルアクトが悲痛な表情を浮かべた。
「君は素晴らしい魔法使いだ。同じ水属性の使い手として敬意を抱く。俺がこれまで戦ってきた同世代の水属性魔法使いとしては一番の難敵だ」
だが、とウォルアクトは続けた。
「君では俺の水城塞は破れない。もう十分に理解したはずだ。これ以上続けても結果は火を見るより明らかだ。俺としても無為に君に傷を増やすような真似をしたくはない」
仮とはいえ、婚約者へ対する気遣いからか、ウォルアクトはそんなことを言い始めた。
こちらに対する哀れみを含んだ感情ではあるものの、やはり彼は悪い男ではないと改めて理解できた。
彼との縁談に受け入れるのは悪くない話だったのかもしれない。
もともと、ウォルアクトとの婚約を拒絶していたのは、父親への反発心が強かったのだ。こうして女としての自分を受け入れ、女の格好を隠さなくなると、不思議とそう考えられた。
皮肉だものだ。己の気持ちに正直になってから、彼との婚約を真面目に考えられるようになっているのだから。
「ふふふっ……」
自然と、笑みが溢れた。
唐突に笑い声を漏らした僕に、ウォルアクトがギョッとなった。
「いや、もう僕に勝ったつもりでいるのが少し可笑しくてさ。僕はまだこうして二本の足で立っている。気が早すぎるぞ、ウォルアクト」
ウォルアクトはこちらを気遣うような態度を改め、警戒心を抱いた顔つきになった。
確かに、僕の扱える攻撃魔法ではウォルアクトの防御を突破できない。魔力も体力も限界が見え始め、満足に戦える時間もあとわずか。
「そろそろ……頃合いか」
僕はウォルアクトに届かない程度の小声で呟く。
この『決闘場』で闘う以上、ウォルアクトが有利なのは分かりきっていた。どうやっても持久戦に持ち込まれ、僕が先に消耗していくのも当然予測できていた。
だから、ここまでは予定通りだ。
問題は、どこまで無傷で粘れるかだった。
一発まともに被弾するまではとにかく我慢するつもりだったが、想定以上に粘れてしまい、体力と魔力を思っていたよりもずっと消費していた。それが誤算といえば誤算だ。
僕は辺りを見渡した。
決闘場は、僕とウォルアクトが放った互いの水魔法で洪水でも起こったかのように水浸し状態。
仕込みは上々だ。
あとは僕がどこまでやれるかだ。
次の一手は、僕の切り札。この決闘で勝利を得るための、最後の手段。現時点での僕の実力でウォルアクトから勝ちをもぎ取るにはこれしか考えつかなかった。
「………………」
疲労とは別に、不安で心臓の鼓動が早くなる。
ウェリアス先生との特訓を経てなお、最終的な成功率は四割を下回っている。頼りにするには余りにも低い数値だ。
これを失敗すれば、いよいよ僕に打つ手はなくなる。負けは必然になるだろう。
仕損じる可能性が高い中、僕はその一手を躊躇う。
体力や魔力の残りを考えれば、この瞬間が札を切る最善のタイミング。
なのに、怖気が一歩踏み出す僕を邪魔してしまう。
──深呼吸でもしてみぃ。色々と考えるのはそれからじゃて。
不意に、あの少女の言葉が頭の中に蘇った。
どうしてか、ローヴィスの隣に今座っている、ローヴィスによく似た雰囲気の少女。
「……ふぅ」
不安に押しつぶされそうになるなか、僕は深くゆっくりと呼吸をする。
新鮮な空気を体内に取り込み、それに伴い残存していた残り少ない魔力が全身に駆け巡った。
不安は全て拭えず、けれども最低限の決意だけはできた。
ウォルアクトからの攻撃はまだない。こちらの動きを警戒しているのか、あるいは反撃を狙っているのか。どちらにせよ、こちらの準備が整うまで動きがなかったのはありがたかった。
僕は残った魔力を、地面を濡らす足元の水溜りへと注ぎ込んだ。
「見ていてくれ、ローヴィス」
想いを寄せる彼の名を口にし、己を奮い立たせる。
これが、僕の全身全霊だ。
 





