第百話 気がつけば百話です──嬉しい限りです
ガノアルク家の『嫡男』として認められ、『ラトス』の日常は大きく代わった。
ガノアルク家の嫡男が社交の場にほとんど露出しておらず、また兄と妹の背格好がまださほど代わらなかった事が幸いしており、入れ替わりはさほど問題はなかった。
跡取りとしての教育を施されるようなり、それまでは見よう見まねで終わっていた魔法の訓練も専門の教師が付いて正式の行われるようになった。
その上、いついかなる時でも男装を──『男』でいることを義務づけられた。行動の所々にはみ出す『女の子っぽさ』を徹底的に指摘され、本格的に『男子』としての振る舞いを要求された。
「それまでのなんちゃってな男装と違ってさ。その辺りは本当に大変だったよ」
「その割には、髪は伸ばしてんだな」
髪を伸ばしている男子は普通にいる。アルフィだって長いしな。だから男子が長髪をしていたところでさほど目立ちはしない。けれども、男として振る舞うのならば髪は短い方が馴染むだろう。
「母さんがどうしてもってね」
娘の行動を最初は受け容れがたかったが、その行いが己の為──そして家族のためであると理解した母親は、辛く当たったことを娘に謝った。
そしてラトスが今後『男』として生きていくことに胸を痛めた彼女は、せめて髪だけは伸ばして欲しいと娘と夫に願ったのだ。
屋敷に務める使用人達には徹底した箝口令が敷かれた。もし万が一にこの件を漏らす者が居ればその者には容赦の無い処罰が下されると。当主直々から下された凄みのある命令に皆は黙って従った。
とはいえ、そもそも屋敷には使用人が多く務めているわけでは無く、古参の者とそれらが直々にスカウトした信頼の置ける者たちばかりであり、その辺りに関しては心配は無かった。
そして──ラトスが『嫡男』として振る舞うようになってから十年の月日が流れた。
これだけの歳月があれば男として振る舞うのにも慣れたもの。今では初対面の者にはラトスを『女』思う者はまず現れなかった。強いて言えば『中性的な顔をした男子』程度だ。
事実、中等学校に通っていた頃は男子であることがバレることは無かった。
……強いて言えば、急に成長を始めた『胸』を隠すのが大変だったというくらい。その頃から『サラシ』を巻き始めたのだが、胸元を締め付けたおかげで十分な呼吸が出来ずにすぐに息切れするようになってしまった。とはいえ運動関連の授業はほとんど無かったので特に問題は無かった。
「サラシでぐるぐる巻きにしてたのに、良くそれだけ育つもんだ」
「……段々と遠慮しなくなってきたね、君」
俺が本気で感心するとラトスがジト目を向けてきたが、先を続ける。
ラトスは当主に連れられてちょくちょくと社交の場に出るようになっていた。ラトスの顔は既に付き合いのある貴族達には知れており、ガノアルク家の『跡取り』として認識され始めていた。
父親である当主はすっかり調子を取り戻し、酒に溺れることは無くなった。ラトスに対しては嫡男として扱っているためか苦言も多く、口喧嘩になることもあるがそれでも兄を失った頃よりは遙かにマシだった。
母親は精神的には既に問題は無くなったが、一度躯を壊してしまったのが尾を引いているのか、体調を崩しがちになってしまった。ただ、それでも躯は健康そのものであり心配する必要は無くなった。
末の妹もすくすくと育っている。ラトスの小さな頃のようにお転婆ではあったがどうやら魔法にはてんで興味が無く、彼女に比べれば淑女としての教育を真面目に受けていた。ガノアルク家の教育方針に適していたのは妹の方だったようだ。
「全てが上手くいっていた。少なくとも僕はそう思っていたんだ」
自分が『男』であればガノアルク家は安泰。この先も当家の跡取りとして生きていくのだと、ラトスは考えていた。
「……でも、それは僕の勘違いだったんだ」
ラトスは内心の苛立ちを抑えつけるように歯を噛みしめた。
「さっきも言ったように、前から言い争いはあった。けどそれは父親である前に一当主としての厳しさから来るものだった」
貴族とは過去に何かしらの功績を王家から認められ、領地を賜った者。ガノアルク家も当然、治めるべき領地がある。そしてそこに住まう領民の生活を根幹から支えている。
「王家から認められた魔法使いの一族として、そして領民の生活を守る領主としては立派な人だと思う。けど……父親としては違ったみたいだ」
それはジーニアス魔法学校への入学試験が一ヶ月後に迫った頃だった。
夜更けに父親の部屋に呼び出されたラトスは、耳を疑うような話を聞かされた。
端的に言えば、ラトスへの『お見合い話』だった。
「お見合いって……確か、親が用意した結婚相手候補と会ったりするあれか?」
「平民だとあまり馴染みが無いか。貴族同士のお見合い話は別段に珍しくはないよ。むしろ貴族の義務と言って良いほどだ」
貴族同士の婚姻は平民の結婚とは訳が違う。血の繋がりと共に権力的な繋がりも強固にし、また魔法使いとしての血を後世に繋げるための重要な要素だ。
「………………それってどっちがどんな感じにアレなんだ?」
「意味不明だよ。……いや、疑問は分かる。つまり、お見合いの相手が男性か女性かって聞きたいんだよね」
「だってお前、おっぱいは大きくても対外的には男じゃん」
「君は何かと胸を引き合いに出したがるね」
「お前のおっぱいが大きすぎるのが悪い」
「……気にしてるんだから少しは手加減してほしい」
恥ずかしげに身を捩ったラトスは一度咳払いをしてから続けた。
「具体的に何人候補が居たかは知らない。けど『入り婿』を迎えるつもりだったのは父さんから聞かされたよ」
ラトスは強く拒絶した。
当たり前だ。これまで次期当主として十年も『男』として過ごしてきたのだ。今更『女』に戻れと言われてもそう簡単に納得できるはずが無く、これまでの行いを全て無為にされるような指示など到底受け容れられなかった。
「それからはもう顔を合わせる度に言い争いになったよ。具体的に何が切っ掛けかは分からないけど、お互いの行動がとにかく癪に障ったんだろうね」
母親に相談したものの、基本的に彼女は夫の言葉に従う人だった。お見合いを勧めるような事は口にしなかったが、夫の考えを改めるような口添えは期待できなかった。
「それで、精神的に最悪な状況で入学試験に臨めば、実力も満足に発揮できずにノーブルクラス入りを逃す始末さ。もう踏んだり蹴ったりだよ」
食堂で初めて顔を合わせたときに刺々しかったのは、入学試験の失敗だけが原因では無かったのか。