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古代欧州に転生したら捨てられたので、魔女の弟子になります〜友人たちの知識で西暦590年を生き延びたら、なぜか聖女扱いされました〜  作者: パラレル・ゲーマー
序・極貧転生者生活編

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第3話 働けば食えると思っていました

 硬く冷たい藁の上で身を縮めながら、私はふと、ある極めて根本的な疑問にぶち当たった。


「そういえば、私って今、何歳なんだろう」


 前世の私には、当然のように誕生日があり、母子手帳に記録があり、毎年ケーキのロウソクが増えていくことで年齢を自覚していた。


 学校に行けば「何年生」という明確な枠組みがあった。


 しかし、この薄暗い小屋での生活には、そんな便利な概念は存在しない。


 誰も私の誕生日など祝わないし、そもそも生まれた日付を正確に記憶している様子すらない。


 村の大人たちが子供の年齢を語る時といえば、「あの子は何度目の春を越した」だとか、「あのひどい大雪の前の年に生まれた」だとか、酷くアバウトな季節の巡りだけが基準なのだ。


 自分の小さな手を見つめる。


 骨と皮ばかりでひどく小さいが、これが単なる栄養失調による発育不良なのか、それとも本当に実年齢が幼いのか、素人の私には判断がつかなかった。


 四歳?


 五歳?


 もしかしたら六歳くらいになっているのだろうか。


 そんな益体もないことを考えながら、寒さと空腹をごまかすために浅い眠りに落ちた私の意識の底に、ふわりとあの気配が降りてきた。


 夢の中の光景は、煤けた我が家の天井だった。


 だが、太い梁の上には、以前見た艶やかな黒ではなく、薄墨色の縞模様を持った少し大きめの猫が、長い尻尾を揺らして座っていた。


 現れるたびに微妙に姿を変えるあたり、やはりこいつはただの動物ではないと実感させられる。


「猫! ちょうどよかった。聞きたいことがあったんです。私って今、正確には何歳なんですか?」


 私は藁の上から見上げる形で、即座に質問をぶつけた。


 縞模様の猫は、面倒くさそうに片耳をピクリと動かして私を見下ろした。


『お主が慣れ親しんだ数え方で言うなら、五つになるやならずや、といったところじゃろうて』


「雑っ! もっとこう、西暦何年何月何日生まれ、現在何歳何ヶ月、みたいな正確なデータはないんですか!」


 猫は鼻で笑うような息を吐いた。


『この文字すらない吹き溜まりのような寒村で、生年月日を律儀に羊皮紙に書き残している親がいるとでも思うたか? 季節の巡りで数えるのじゃな。お主はこれまで、春を五度ほど越えておる』


 春を五度。


 つまり、私はだいたい五歳ということか。


 西暦五九〇年頃に生まれたのだとしたら、現在は五九五年頃。


 猫が言っていた「キリスト教の布教イベント」が五九七年だとするなら、まだあと少しだけ時間の猶予がある。


 だが、それを知ったところで、この五歳児の身体で何ができるというわけでもない。


 私が深々とため息をつくと、猫はまるで厳しい生活指導の教師のように告げた。


『己の年を正確に知ったところで、お主が今日やるべきことは何一つ変わらぬぞ。働け。食え。そして余計な口を叩くな』


 夢の中だというのに、私はげっそりとした顔になった。


「神様からの神託が、毎回毎回ブラック企業の朝礼スピーチみたいなんですけど。もっと夢のあるチート能力の授与とかないんですか?」


『ワシはただの年寄り猫じゃよ。ニャー』


 相変わらず腹の立つ鳴き声を残して、猫の姿は夢の靄の中へと溶けていった。


 *


 翌朝、私は凍てつくような寒さで目を覚まし、すぐさま脳内の作戦ボードを更新した。


 私の目標は、とにかく「親に怒られないこと」だった。


 完全なるステルスと、邪魔にならないこと。


 だが、それだけでは足りない。


 ただ「怒られない無害なだけの子供」では、いざ食料が尽きかけた時、真っ先に口減らしの対象になる。


 家族という組織の中で、明確に「こいつを手放すと少し困る」「こいつは使える」と思わせなければならないのだ。


「私は労働力。小さくても燃費が良くて便利な自動化ツール。私が便利に働けば、家族の負担が減り、私の器に入る粥の量が少しだけ増える。粥が増えれば生存率が上がる。生存率が上がれば、十歳で森に捨てられるというバッドエンドが、ほんの少しだけ遠ざかる……たぶん」


 最後に「たぶん」と付けたのは、現代の論理がこの極限状態の村でどこまで通用するか確信が持てなかったからだ。


 だが、何もしないよりはマシだ。


 私は本日から、「怒られない子供」から「使われる子供」へとキャリアアップを図ることに決めた。


 最初の業務は「水運び」だった。


 朝、母親が大きな水桶を持って外に出るのに合わせ、私も小屋の隅にあった木をくり抜いた小さな器を抱えて後を追った。


 村の共同の水場である小川までは、大人の足でも少し歩く。


 道は常に泥濘んでおり、木の根や石が容赦なく足の裏を攻撃してくる。


 現代なら「水道管が通っていない」という事実だけでクレームものだが、今の私にとっては、まずこの水場まで転ばずに歩くこと自体が、命がけの重労働だった。


 母親は慣れた手つきで大きな桶に水を満たしている。


 私は、少しでも自分の有能さをアピールしようと、小さな器の縁ギリギリまで、なみなみと水を汲んだ。


「よし、これだけ運べば少しは……!」


 しかし、五歳児の筋力とバランス感覚を完全に舐めていた。


 帰り道。


 水をいっぱいに張った器は予想以上に重く、私の細い腕はぷるぷると震え始めた。


 足元の泥濘みに足を取られた瞬間、踏ん張りがきかず、私は派手に前のめりに転倒した。


 べちゃり、という嫌な音とともに、冷たい泥が顔と膝にこびりつく。


 そして何より、器の中の貴重な水は、一滴残らず大地に吸い込まれてしまった。


「何をしている!」


 前を歩いていた母親が振り返り、鋭い声を上げた。


「ごめんなさい! ごめんなさい!」


 私は泥だらけの顔を上げ、反射的に平謝りした。


 内心では「蓋! タッパーみたいな密閉できる蓋があれば! いや違う、蓋以前に私の足腰が脆弱すぎるんだ!」と血の涙を流しながら叫んでいた。


 この失敗から、私は即座に業務フローを修正した。


 次からは、器に入れる水は半分だけ。


 往復の回数は増え、効率は著しく落ちるが、これなら転んでもこぼすリスクは減る。


 何度も小川と家を往復する私を見て、母親は呆れたようにため息をついた。


「……まあ、欲張って全部こぼすよりはマシだ」


 ぼそりとこぼれたその一言に、私は内心でガッツポーズをした。


「全部こぼすよりマシ! やった、現時点での最高評価いただきました!」


 生存ポイントが、チャリンと音を立てて1ポイント加算された気がした。


 次の業務は「薪拾い」である。


 もちろん、五歳の幼女に太い丸太を割るような仕事はできない。


 私の担当は、森の入り口付近で、燃えやすそうな小枝や乾いた草、剥がれ落ちた樹皮を集めることだ。


 母親や村の女たちに混じって森の浅い部分を歩く。


 誰も奥へは進まない。


 少しでも深く入れば、そこはもう人間の領域ではない。


 狼の遠吠えが聞こえる、死の気配が漂う場所なのだ。


 私は、前世の建設業の友人がバーベキューの時に熱く語っていた言葉を思い出していた。


『素人はすぐ地面に落ちてる湿った木を燃やそうとするけど、あれ最悪だからね。湿った木は燃えない上に煙ばっかり出て、目が痛くなる地獄を見るよ。火を起こすなら絶対乾いた木だ』


 なるほど、乾いた木だな。


 私は地面を見回り、表面がカサカサに乾いている落ち枝を拾い集め、意気揚々と家へ持ち帰った。


 しかし、それを炉にくべた途端、盛大な白煙が上がり、小屋の中が燻製室のようになった。


 煙が目に沁みて涙が止まらない。


 奥で寝ていた赤ん坊が、煙にむせて激しく泣き始めた。


「ゲホッ、バカ! 煙ばかり出る腐った木を拾ってくるな!」


 母親から強烈な平手打ちを食らいそうになり、私は這いつくばって逃げながら謝り倒した。


 失敗の原因はすぐに分かった。


 表面が乾いて見えても、地面に直接落ちていた枝は、土の湿気をたっぷり吸い込んでいるのだ。


 私は村の女たちがどうやって薪を選んでいるかを、泥に塗れながら必死に観察した。


 彼女たちは地面に落ちているものではなく、低い木の枝に引っかかって宙に浮いている折れ枝や、手で折った時に「パキッ」と小気味良い音が鳴るものを選んでいた。


 重さも軽く、カビや湿った土の匂いがしないものだ。


「現代知識が嘘だったわけじゃない。でも、現地のリアルな経験値がないと、ただの机上の空論なんだ……。友達の知識に、現地の『目』を足さないと、普通に死ぬ」


 私は赤く腫れた目をこすりながら、この世界の厳しいルールをまた一つ胸に刻んだ。


 *


 数々の失敗を繰り返す中で、私が最も安定して評価を稼げたのは「赤ん坊の世話」だった。


 母親は常に疲労の底に沈んでいる。


 赤ん坊が泣き喚くたびに、彼女の精神的な余裕は削られ、小屋の中の空気は爆発寸前の火薬庫のようになる。


 だから私は、母親が他の作業をしている間、極力赤ん坊の隣に座り続けることにした。


 抱き上げる力はない。


 だが、火の粉が飛んでこないか見張ることはできる。


 煙の向きが変われば、咳き込まないように赤ん坊を少しだけずらす。


 顔にかかった粗末な布を整え、隙間風が酷い時は自分の小さな身体をくっつけて湯たんぽ代わりになる。


 ある日、ぐずり始めた赤ん坊をあやそうとして、私は思わず前世の記憶に頼った。


「ねんねんころりよ……」


 日本語の子守唄が口をついて出そうになり、私は慌てて言葉を飲み込んだ。


 こんな異言語をペラペラ喋り出したら、森のものに触れられた子だ、取り替え子だと囁かれかねない。


 そうなれば、食い扶持の少ない家で私の扱いがどうなるか分からない。


 私は歌詞を捨て、現地の言葉の単純な母音の連続に変えた。


 意味のない、ただ低く静かなハミング。


 背中を一定のリズムで軽くトントンと叩きながら鼻歌を歌うと、赤ん坊はふと泣き止み、またトロンとした目を閉じた。


 ふと視線を感じて振り返ると、鍋をかき混ぜていた母親が、こちらをじっと見ていた。


「……今、泣き止んだな」


「うん」


 私はわざと何でもないような顔をして頷いたが、内心ではサンバを踊っていた。


「やった! 赤子対応マニュアル完遂! ただの監視カメラから、一時保育の補助スタッフに昇格しました!」


 もちろん、調子に乗って赤ん坊の顔を覗き込みすぎて逆に大泣きされ、「構いすぎるな!」と怒鳴られた日もある。


 それでも、成功と失敗を繰り返すうち、母親の私を見る目に明確な変化が現れた。


「この子がそばにいると、赤子が少しだけ静かになる時がある」


 その程度の評価でも、この極限の貧困家庭においては、凄まじい価値を持つのだ。


 その変化は、ある日の夕食に唐突に現れた。


 いつものように、水のように薄い、味のしない麦の粥が配られる。


 しかし、私の器に注がれたそれは、いつもより少しだけ色が濃かった。


「……あっ」


 私は器の中を凝視して固まった。


 これは、鍋底のほうの、麦の粒が少し多めに残っている濃い部分だ。


 前世の私なら「誤差の範囲」と笑い飛ばすような僅かな違い。


 しかし、今の私にとっては、ミシュラン三ツ星レストランのフルコースにも匹敵する劇的な特別報酬だった。


 私は、熱い粥をすきっ腹に流し込みながら、泣きそうになった。


 働いた。


 怒られないように気をつけた。


 赤子の面倒を見た。


 小枝を拾った。


 その結果が、この少しだけ濃い粥だ。


 この理不尽で残酷な世界にも、確かな「因果」は存在する。


 働いて価値を示せば、ほんの少しだけ生き延びる確率が上がるのだ。


 私は器の底を舐めるように綺麗にしながら、生きる気力を静かに燃やした。


 *


 私が家の中で「使える」と認識され始めると、母親は村の中での用事にも私を連れ歩くようになった。


 そこで私は初めて、この村の全体像をまともに観察することができた。


 足首まで埋まりそうな泥道。


 低く歪んだ藁葺き屋根の家々。


 あちこちの隙間から立ち昇る、目に沁みる生活の煙。


 あばら骨の浮き出た犬が徘徊し、痩せこけた鶏が泥をつついている。


 水場では女たちが擦り切れた服を着て集まり、何かを言い合っている。


 私の倍はありそうな薪の束を背負って歩く子供。


 家の前で、使い古された鈍い刃物で木を削る男。


 どこを見ても、汚くて、臭くて、圧倒的に貧しい。


 しかし、私の第一印象とは違う側面も確かに存在していた。


 水場に集まる女たちは、ただ疲弊しているだけでなく、時に大きな声で笑い合っていた。


 道端では、泥だらけの子供たちが木の切れ端を持って歓声を上げながら走り回っている。


 男たちは獲物の少なさに悪態をつきながらも、道具の貸し借りをしている。


 ここには、人々の「生活」があった。


「私はここを、ただの地獄だと思ってた。いや、衛生観念も人権もない地獄なのは間違いないんだけど……でも、ここで生きてる人たちにとっては、これが『日常』なんだ」


 私は、前世の安全な場所から見下ろすような自分自身の傲慢さを、少しだけ恥じた。


 彼らは無知な背景キャラクターではない。


 この過酷な環境に最適化し、血肉を通わせて生きている、逞しい人間たちなのだ。


 村に出ても、私の「従順ムーブ」はブレなかった。


 狭い道で大人とすれ違う時は、必ず立ち止まって道を譲る。


 名前のような音で呼ばれたら、すぐに短い声で返事をする。


 誰かが落とした農具があれば、駆け寄って拾い上げる。


 他人の子供の喧嘩には絶対に近づかない。


 前世のOL時代に培われた、異常なまでの危機管理能力と空気読みスキルが、五歳児の肉体を通してフル稼働していた。


 水場で、母親と話していた村の女が、私の頭を乱暴に撫でながら言った。


「あの子、前はもっと鈍臭くてよく泣いてたのに、急におとなしくなったねぇ」


 別の女が、木の実を潰しながら答える。


「熱でも出して、頭の作りが変わっちまったんじゃないか。たまに、大人みたいな気味の悪い目をする時があるしよ」


「でもよ」と、最初に声をかけた女が笑った。


「言われたことはちゃんとやるし、邪魔にはならない。……まあ、働くならいいさ」


 働くならいいさ。


 現代日本でなら「子供に向かってなんてことを!」と炎上必至のセリフだ。


 だが、今の私にとって、その言葉は天上の音楽のように響いた。


「生存許可、いただきましたァァァ!!」


 私は内心で狂喜乱舞した。


「働きます! いくらでも働きます! だから私を村のサイクルの一部に入れてください! そして粥をください!」


 *


 私の仕事のラインナップに、「鶏の様子を見る」というタスクが追加された。


 我が家の裏手には、驚くほど痩せ細った鶏が数羽、放し飼いにされている。


 最初は最悪だった。


 前世で本物の鶏など動物園でしか見たことがない私は、その鋭い嘴と恐竜のような足にビビり散らし、不用意に近づいては容赦なく突かれて泣きべそをかいた。


 だが、ここで「怖いからやらない」という選択肢はない。


 私は一定の安全距離を保ちながら、鶏の行動パターンを徹底的に観察した。


 日陰のどこに集まるのか、泥のどの部分をつつくのか、どんな鳴き声を出すのか。


 そしてある日の午後、小屋の裏の少し草が茂った窪みで、私は「それ」を見つけた。


 泥にまみれた、小さな、本当に小さな卵だった。


 私は息を呑んだ。


 前世なら、スーパーの特売で十個百円台で買えた、ありふれた食材。


 しかし今、私の目の前にあるそれは、完全なる栄養の塊であり、黄金にも等しい価値を持っていた。


 胃袋が、ぐるぐると獣のような音を立てた。


 口の中に、痛いほどの唾液が湧き出てくる。


 これを、こっそり割って飲めば。


 誰にもバレずに、この凄まじい空腹を少しでも満たすことができる。


 殻は土に埋めてしまえば証拠は残らない。


 手が、震えながら卵に伸びる。


 その時、私の脳裏に、前世の経理部で働いていた友人の冷徹な声が蘇った。


『いい? ビジネスの世界ではね、目先の現金よりも「信用」の方が価値が高い時があるの。つまらない横領で信用を失えば、その後の取引は永遠に終わる。信用経済を舐めちゃダメよ』


 私はハッと我に返った。


 そうだ。


 今の私の唯一の資産は、「無害で従順によく働く」という信用だけだ。


 ここで食欲に負けて盗み食いをし、もしそれが発覚すれば、私の価値は「役に立つ子供」から「食料を盗む害獣」に大暴落する。


 一発でゲームオーバーだ。


 私は自身の頬を強くつねり、食欲という名の悪魔を退散させた。


 そして、泥だらけの小さな卵を両手で大切に包み込み、母親の元へ走った。


「これ、草のところ、あった」


 震える手で差し出すと、母親は驚いたように目を丸くした。


「どこにあった?」


「小屋の、裏の木の下」


 母親は卵をひったくるように受け取った。


 褒め言葉は一切ない。


 だが、その日の夕食。


 私の木の実のような器には、薄い粥とともに、卵の端っこの、ほんの僅かな白身の欠片が混ざっていたのだ。


「信用経済……成立……!」


 私はその白身の欠片を、舌の上で溶かすようにゆっくりと味わいながら、密かに勝利を噛み締めた。


 季節は春から夏へ、そして秋へと向かおうとしていた。


 私の生活は、少しずつだが確実に上向いているように思えた。


 相変わらず小屋は臭いし、地面で寝るのは痛いし、腹の底からの空腹が消えることはない。


 水運びで重いものを持って落とし、「ふざけるな!」と怒鳴られたり、火の番でうたた寝をして小突かれたり、失敗も日常茶飯事だ。


 それでも、一番最初のように「いつ死んでもおかしくない」という絶望感は薄れていた。


 水をこぼさなくなった。


 乾いた薪を見分けられるようになった。


 赤ん坊をあやせるようになった。


 卵を見つけて報告できた。


「あれ? もしかして、私、この生活、意外とやっていけるんじゃない?」


 泥だらけの手を洗いながら、私はふとそんなことを思った。


 もちろん、現代基準で見れば、即刻児童相談所に保護されるレベルの劣悪な環境だ。


 だが、最初に想像した「即死確定の地獄」よりは、ずっと生存の道筋が見えている気がした。


 愚かな前向きさかもしれない。


 だが、そう思わなければ、心が壊れてしまうのだ。


 *


 その夜。


 私は夢の中で、再びあの縞模様の猫に会った。


 少しばかり誇らしい気分だった私は、今日までの成果を意気揚々と報告した。


「聞いてくださいよ。今日、また粥が少し濃かったんです。村の女の人たちにも『働くからいい』って言われました。私、もしかしてこの地獄みたいな生活でも、意外とやっていけるかもしれません!」


 猫は、私の自慢話を遮ることもなく、ただ静かに翠の瞳で私を見つめていた。


 怒りもしない。


 笑いもしない。


 ただ、ひどく冷ややかな目で。


『……そうか』


 短い返答に、私は急に嫌な予感を覚えた。


「な、何ですか、その目は」


『春と夏しか知らぬ、子供らしい呑気な感想じゃと思ってのう』


 私は背筋に冷たい水が流れるのを感じた。


「……どういう意味ですか」


 猫は、尻尾をパタンと打ち鳴らした。


『冬は、まだ来ておらぬ』


 小屋の空気が、一気に凍りついたような気がした。


 私は反射的に反論した。


「でも、今からこうやって働いて、少しでも家族の役に立てば、冬の間の生存率だって上がるかもしれないじゃないですか! 備えあれば憂いなしって言うし!」


 猫はそれを否定しなかった。


『それは正しい。備えよ。働け。食え。一つでも多く覚えろ。だが、決して忘れるな』


 猫の顔が、すっと私に近づいた。


『お主が今感じている「もしかして悪くないかも」という希望は、寒さが本気を出す前の、ただの猶予期間の錯覚じゃ』


「うっ……」


 私は言葉に詰まった。


「神様って、そうやって定期的に不穏なこと言って人の心折らないと死ぬ病気なんですか?」


『ワシはただの年寄り猫じゃよ。ニャー』


「その鳴き声、絶対わざと馬鹿にしてるでしょ!」


 猫は少しだけ目を細め、静かに言い残した。


『小さな成功を喜ぶのはよいことじゃ。だが、それを「世界が自分に優しくなった証拠」だと勘違いするでないぞ』


 *


 季節が秋へ深く傾き始めた頃、私は村の空気が明確に変わったことに気づいた。


 私が自分の小さな成功に浮かれている間にも、大人たちの顔からは少しずつ余裕が消え去っていった。


 母親はさらに無口になり、眉間のシワが深くなった。


 父親は苛立ちを隠さず、些細な音にすら怒鳴り声を上げるようになった。


 村の女たちの立ち話は、誰の噂話から、木の実の蓄え、薪の量、保存食の残りの話ばかりになった。


 男たちは、危険を承知で森のさらに奥へ入る相談をヒソヒソと交わしている。


 家の中での、あの薄い粥の分配すら、一滴単位でシビアに計られるようになった。


「なんで……? 収穫の時期なのに、なんでみんな、前より怖い顔をしてるの?」


 私は、大人たちの背中を見ながら、得体の知れない恐怖を感じていた。


 そして、その朝が来た。


 外から呼ばれ、いつものように水汲みの器を抱えて小屋を出た瞬間。


 足裏に、鋭利な刃物で切られたような痛みが走った。


「痛っ……!」


 私は思わず立ち止まり、足元を見た。


 地面が、白い。


 最初は雪かと思った。


 だが違う。


 土も、枯れかけた草の先も、すべてが白い結晶で覆われ、ガチガチに固まっているのだ。


 霜だった。


 吐く息が、信じられないほど真っ白に染まる。


 冷気が容赦なく粗末な麻の服をすり抜け、肌を刺し、骨の髄まで到達する。


 水場までの道は、泥が凍りついて岩のように硬くなっていた。


 裸足のままそこを歩くたびに、足の裏の皮が剥がれそうな痛みが襲ってくる。


 小川の水に手を入れた瞬間、指先がちぎれるような激痛が走り、私は思わず器を落としそうになった。


「これ……まだ、冬の本番じゃないの……?」


 ガチガチと歯の根を鳴らしながら、私は白く濁った空を見上げた。


『言うたじゃろう。冬を越すのも一苦労じゃと』


 遠くで、あの猫の声が聞こえた気がした。


 私は、自分の考えがどれほど浅はかだったかを、この時初めて思い知った。


 働けば食える。


 役に立てば生き残れる。


 確かにそうだ。


 それは間違っていない。


 だが、それは「自分が働くことができる環境」が維持されていることが大前提だったのだ。


 夜。


 小屋の中は、息が白くなるほど冷え切っていた。


 炉の火は、燃料を極限まで節約するために、消えない程度の小さな熾火しか残されていない。


 暗闇の中で、赤ん坊の寝息がいつもよりか細く聞こえる。


 母親も、父親も、毛布代わりのボロ布にくるまり、死んだように無言だった。


 私は、藁の中で丸まりながら、昼間見た鋭い霜の結晶を思い出していた。


 私は少しだけ役に立てるようになった。


 食事もほんの少し増えた。


 村でも認められ始めた。


 でも、そんな私の個人的な「生存ポイント」など、家全体を覆い尽くす冬の脅威の前では、あまりにも無力だった。


 私が便利な幼女になったところで、家の備蓄食料が魔法のように増えるわけではない。


 働けば食える。


 役に立てば生き残れる。


 そう思っていた。


 けれど、初めて霜を踏みしめ、痛みに顔を歪めたその朝、私はようやく理解したのだ。


 冬は、働くための体力も、場所も、そして食べるものすらも、人間の前向きな意思など一切お構いなしに、容赦なく奪い去っていくのだということを。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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