第1話 気の毒に、と猫は言った
自分が死んだ瞬間のことなんて、まるでピントの合わない写真のようにぼやけている。
はっきりと覚えているのは、そこに至るまでの酷くありふれた日常だけだ。
夜道だったのか、駅のホームだったのか、それとも見慣れた交差点の横断歩道だったのか。
残業で疲れ切った身体を引きずりながら、私は手元のスマートフォンに目を落としていたはずだ。
取引先からの理不尽なメールの返信文面を頭の中でこねくり回しながら、ため息をついた記憶がある。
突然、視界を焼き尽くすような強烈な光が走った。
耳を劈くような甲高いブレーキ音。
誰かの悲鳴。
そして、フッと身体が「なくなる」ような、奇妙な浮遊感。
痛みはなかった。
熱さも寒さも、何もかもが一瞬で消え去った。
気がついたとき、私は自分が思考だけの存在になっていることに気づいた。
「あ、これ、たぶん私死んだんだな」
ひどく冷静な理解だった。
悲壮感は欠片もない。
まるで他人事のような、テレビのニュースを見ているような気分だ。
「え、嘘でしょ、死んだの? ちょっと待って、明日の朝イチで提出する見積書どうしよう。いや、死んでるなら出勤も何もないか。部長、ごめん……いや別に私悪くないし」
現代社会の歯車として染み付いた社畜根性が、死という絶対的な現象すらも「業務上のトラブル」程度にしか捉えられないらしい。
そんなズレた混乱を抱えながら、私は目を「開けた」。
そこは、よくある臨死体験で語られるような、お花畑でも真っ白な空間でもなかった。
どこまでも静かで、深い夜の底のような暗闇だった。
ただ、怖い暗さではない。
足元には鏡のように滑らかな水面が果てしなく広がっており、見上げれば、プラネタリウムの星空を凝縮したような無数の光の粒子が浮かんでいる。
そして、その星明かりの下に、一匹の猫がいた。
夜の闇から直接切り出したような、艶やかで滑らかな毛並みを持つ黒猫だ。
宝石のように透き通った翠色の瞳が、水面に立つ私をじっと見据えている。
「猫だ」
思考がそのまま声に出たのか、それとも魂の波長が伝わったのか。
「うむ。猫じゃ」
凛とした、それでいてどこか年寄りじみた渋い声が、直接脳内に響いた。
「しゃ、喋った……!?」
私が呆然と立ち尽くしていると、黒猫はさも当然というように、しなやかな長い尻尾をゆらりと揺らした。
「死者の魂を相手にしておるのじゃ。猫の形をとって喋るくらいで、いちいち驚くでないわ」
その落ち着き払った態度に、私は自分がもう「常識の通用する世界」にはいないのだと、ようやく肌で理解し始めた。
この猫は、ただの動物ではない。
パニックに陥ってもおかしくない死者の魂を前にして、一切の感情を揺さぶられることなく、安全な高みからチェス盤でも眺めるように私を見下ろしている。
「あの……神様、ですか?」
恐る恐る尋ねると、猫は少しだけ首を傾げた。
「そう呼ぶ者もおるな。賢者と呼ぶ者もおるし、ただの使い魔と呼ぶ者もおる。まあ、ワシは見ての通り、ただの年寄り猫じゃよ。ニャー」
ニャー、じゃない。
その「ニャー」には、愛嬌など微塵も含まれていなかった。
むしろ「とりあえずこう言っておけば、お前のような人間は納得するだろう」という、極めて事務的で食えない笑顔のようなものを感じた。
腹の底が見えない。
この存在に逆らっても無駄だという絶対的な力関係を、その翠の瞳が雄弁に物語っていた。
「ふむ……」
猫は私の魂を上から下まで値踏みするように見つめると、少しばかり怪訝な顔を作った。
「え、何ですか。私、何か変ですか?」
「あー……お主、生前、何か特別な力を持っておったか? たとえば、そう、魔法とか使えたか?」
私は面食らった。
「えー、魔法、ですか? いえいえ、冗談キツイですよ。平日は満員電車に揺られ、休日は死んだように眠るだけの、平凡でしがない一般企業OLでしたけど……」
「本当に?」
「本当ですってば。魔法どころか、エクセルのVLOOKUP関数ですら、たまにやり方忘れてGoogle先生に検索かけてたくらいですよ」
「そうか……無自覚か」
猫は納得したようにヒゲを揺らすと、私の周囲をくるくると歩き回りながら言った。
「実のところ、次へ送る前に、お主の『前世の記憶』とやらを綺麗に洗い流そうとしたのじゃが……見事に弾きおったわ。厄介な防壁じゃ」
「はい? 弾いた?」
「うむ。お主、魔法使いとしての素質が異常に高い。無意識のうちに、己の魂の核を魔力で保護しおったのじゃ」
魔法使い。
その単語が脳内でリフレインした瞬間、私のテンションは急上昇した。
「えーっ! 私、魔法使いの才能あるんですか!? やったー!!」
思わずガッツポーズを取った私に、猫は即座に絶対零度の冷や水を浴びせてきた。
「『やったー』ではないわ、阿呆」
「え?」
「良いか、お主はこれから『転生』するのじゃぞ?」
「転生……!」
その言葉を聞いて、私の脳内には生前愛読していたWeb小説の数々が弾幕のように流れ始めた。
「ということは、あれですか!? なろうとかカクヨムでよくある、現代知識チート無双ってやつができるじゃないですか! 行き先は異世界ですか? 剣と魔法のファンタジー世界!? ステータス画面とか見えちゃいます? 無限収納とか、森羅万象を鑑定できるスキルとか、そういうスタートダッシュ特典的なものは……!」
早口でまくし立てる私を、猫はただ黙って見ていた。
その翠の瞳に浮かんでいるのは、怒りでも呆れでもない。
純粋な『哀れみ』だった。
その不穏な沈黙に、私の言葉は尻すぼみになっていく。
「……あの、えっと」
「異世界ではない。お主から見て、過去じゃ」
「……過去?」
「西暦でいうと、五九〇年頃じゃのう」
私は少し頭を回転させた。
五九〇年。
飛鳥時代? いや、私が生まれるのは日本とは限らないのか。
「へー……まあ、どこの国にせよ、未来の知識を持ってるなら、立派な現代知識チートですね! 石鹸作ったり、美味しい料理広めたりして大儲け……」
猫の瞳から、ついに哀れみが限界突破して、もはや重篤な患者を見る医者のような目つきになった。
「……真に気の毒なことじゃ」
猫は低く、淡々とした声で宣告を始めた。
「まず、性別は変わらぬ。お主は女として生まれる」
「あっ、それは良かったです。男の人の身体とか、どう扱っていいか分からないし……」
「安心するのは早いわ。あの時代の女に、お主が当たり前のように享受してきた『現代的な権利』などない」
私はピタリと固まった。
「家は隙間風だらけで凍えるほど寒い。食べ物は常に足りぬ。水は安全とは限らぬ。井戸も泉も、濁れば病を呼ぶ。ちょっとした熱や傷で、人は呆気なく死ぬ。女は家と婚姻と出産に縛られ、その出産ですら命がけじゃ。生まれた子が無事に大人になるとも限らぬ。冬が来れば、春を迎えられずに冷たくなる者も出る。それが、お主の行く世界じゃ」
私から、スッと血の気が引いた。
「え、ちょ、ちょっと待ってください」
「待たぬ」
「いや、でも、現代知識があれば、公衆衛生の概念とかを教えて……」
「誰が、貧しい村の小娘の戯言など聞く? 紙もなければ、字を書く鉛筆もない。傷口を拭う清潔な布切れ一枚すら簡単には手に入らぬ。薬局も、病院も、お主が頼り切っていた『ネット』とやらもないのじゃぞ?」
「ネッ……ネットが、ない……!」
「そこか、お主が一番絶望するところは」
猫はため息をつくように鼻を鳴らした。
「ふむ。どれ……」
猫が翠の瞳を細めると、その瞳孔の奥に、暗く濁った景色が浮かび上がった。
泥濘んだ地面。
這うような煙。
黒ずんだ藁葺き屋根の小屋。
骨と皮ばかりに痩せこけた人々。
虚ろな目で泣く子供。
鉛色の、凍てつくような冬の空。
詳しい情景までは分からない。
だが、そこが「飢え」と「寒さ」に支配された貧しい村であることだけは、嫌というほど伝わってきた。
「ふむ……恐らく、今見えている流れのままなら、お主は十歳ほどで森へ捨てられる未来が見えるのう」
「は……?」
心臓が鷲掴みにされたように縮み上がった。
「ど、どど、どうしたらいいんですか!? 回避できるんですよね!?」
「せいぜい、大人しく暮らすことじゃな。余計な口を叩かず、ただひたすらに労働力としての価値を示すことじゃ」
「それで、捨てられないで済むんですか!?」
「分からぬな」
「分からないんですか!?」
「未来というものは川のように流れておる。決まっておるようで、決まってはおらぬ。お主の行動一つで石ころのように跳ねることもあれば、泥濘に沈むこともある。ただ、今のままでは十歳で口減らしの対象になるじゃろうな」
私の頭の中にあった「楽しい異世界スローライフ」の幻想は、ガラス細工のように木端微塵に砕け散った。
転生は、冒険ではない。
私が行くのは、圧倒的な生存競争のどん底だ。
弱い子供として、極貧の時代に生まれ落ち、家族の胃袋を満たすために間引かれるかもしれない運命。
「じゃ、じゃあ、せめて今の記憶を! 赤ちゃんの頃から持たせてください! ハイハイの時期から愛想を振りまいて、有能アピールして、絶対捨てられないように努力しますから!」
必死にすがりつく私に、猫は非情に首を横に振った。
「無理な相談じゃ。出来立ての赤子の脳と身体で、お主の前世の膨大な記憶を処理しようとすれば、間違いなく発狂して壊れるぞ」
「こ、壊れる!?」
「ゆえに、脳がある程度成長し、『物心』がついた頃合いを見て、この会話と前世の記憶が徐々に浮かび上がるように調整しておく。それが限界じゃ」
「物心って、具体的に何歳ですか!」
「さてのう。三つか、四つか、あるいは五つか。お主の魂と新しい肉体がどれだけ馴染むか次第じゃな」
「雑! 神様なのに仕事が雑!」
「だからワシはただの猫じゃと言うておろう。転生とは本来、記憶を完全に白紙にしてから行うものじゃ。お主のように記憶を持ち越すこと自体が、システム上の『例外処理』、バグのようなものなのじゃからな」
記憶持ち転生は、神からの祝福でもチート特典でもない。
ただの事故の産物なのだ。
私は最後の命綱にすがる思いで尋ねた。
「じゃ、じゃあ……魔法! 魔法使いの才能があるなら、魔法で暖をとったり、食べ物を出したりできるんですよね!?」
猫は、ほんの少しだけ目を細めた。
「才能は、ある。じゃが、才能があることと、実際に使えることとは全く別の話じゃ」
「ええ……」
「どれほど比類なき剣の才能を持っていようと、筋力のない赤子が名剣を振るえぬのと同じじゃ。魔法というものは、法則を理解し、正しく学ばねば行使できぬ」
「誰に!? 学校とかあるんですか!?」
猫は答えなかった。
ただ、じっと私を見つめるだけだ。
「……お主の行く地にも、古き自然の力、土着の術を扱う者はひっそりと生きておる。まあ、その者に出会えるかどうかは、お主の運と運命次第じゃな」
森の奥深くに住む魔女か何かだろうか。
だが、そんな不確かな存在に出会える保証なんてどこにある。
「嫌です! 無理です! 絶対無理! 西暦五九〇年なんて、私みたいな温室育ちの現代人に生きられるわけないじゃないですか!」
私は子供のように駄々をこねた。
しかし、猫は感情的に慰めてはくれなかった。
ただ、その声音だけが、ほんの少し柔らかくなった気がした。
「……無理かもしれぬな」
「そこは嘘でもいいから『君ならできる!』って励まして送り出してくださいよ!」
「見え透いた嘘を吐いて何になる。お主が行くのは、そういう過酷な世界じゃ」
「神様なのに、ちっとも優しくない!」
「ワシはただの年寄り猫じゃよ。ニャー」
絶対にただの猫ではない。
その瞳の奥の深淵が、そう告げていた。
足元の水面が、ゆっくりと波立ち始めた。
私の足が、泥に沈むように徐々に水面へと吸い込まれていく。
「まあ、時折、盤面の様子くらいは見てやろう。もっとも、直接手を下して助けられるとは限らぬがの」
「助けてください! 絶対に見捨てないでくださいよ!」
「良いか、小娘。まずは生き残ることじゃ。そして、己の『現代知識』とやらを過信し、頼りすぎるな。お主が『当たり前』だと知っていることは、あの時代では思ったほど役には立たぬ」
「そんな……じゃあ、私のアドバンテージは何もないじゃないですか」
「じゃが……」
猫は、水面へと沈んでいく私を見下ろして言った。
「お主が生前、他愛なく聞いてきたもの。見てきたもの。誰かが酒の席で熱く語っていた専門知識の切れ端。そうした『他人の知恵』が、思わぬところで牙を剥き、お主を救うかもしれぬ」
友人たちの顔が、一瞬脳裏をよぎった。
猫の言葉の意味を理解する間もなく、強烈な光が私を包み込んだ。
「せいぜい、足掻いて頑張るのじゃぞ。五九〇年頃のヨーロッパの寒村は、控えめに言って地獄じゃからのう」
「えええええええええええええっ!!」
私の絶叫は、光の奔流の中に吸い込まれ、完全に途切れた。
*
真っ暗な水底から、無理やり水面に引きずり上げられるような感覚。
「ひゅっ……!」
私は、引き攣ったように息を吸い込んで、目を覚ました。
最初に襲ってきたのは、全身を苛む強烈な違和感と、痛みだった。
背中が痛い。
腰が痛い。
まるで薄い板切れ一枚の上に寝かされているようだ。
肩口からは凍りつくような冷気が忍び込み、足先は感覚がないほどに冷え切っている。
頬に何かが刺さって、チクチクと痒い。
寝返りを打とうとすると、ゴワゴワとした硬い感触が全身の皮膚を削り、床の硬さが容赦なく骨に響いた。
「痛い……」
声を出そうとした。
だが、喉はカラカラに乾ききっており、ひび割れた唇から漏れ出たのは、舌足らずで、かすれた幼い声だった。
布団じゃない。
重たいまぶたをこじ開けると、視界に入ってきたのは、煤で真っ黒に汚れ、いまにも崩れ落ちそうな太い木の梁だった。
天井は低く、薄暗い。
私が寝かされているのは、床に直に敷かれた、カビ臭く湿った「藁」の上だった。
鼻腔を突くのは、アロマの香りでも柔軟剤の匂いでもない。
泥と、古い灰と、何日も洗っていない人間の汗の臭い。
そして、同じ空間のどこかにいるであろう獣の臭いが混ざり合った、強烈な悪臭。
私は、ゆっくりと自分の手を見た。
信じられないほど小さく、細い腕。
骨が浮き出て、皮膚は荒れ、爪の隙間には黒い泥が詰まっている。
四歳、いや、五歳くらいだろうか。
極度の栄養不足で、年齢よりもずっと小さく見えるかもしれない。
その瞬間、私の頭の中で、二つの巨大な波が激突した。
「前世の私」の記憶。
そして、「今世の私」がこの数年間で培ってきた記憶。
エアコンの効いた部屋。
ふかふかのベッド。
スマホの光。
コンビニの弁当。
それらが泡のように浮上すると同時に、今世の記憶が濁流のように流れ込んでくる。
いつも不機嫌そうに怒鳴っている父親の顔。
目の下に濃いクマを作り、無表情に鍋をかき混ぜる母親。
お腹をすかせて泣き叫ぶ、弟か妹か分からない小さな塊。
冬の夜の、骨の髄まで凍りつくような恐怖。
そして、言語。
頭の中では「お母さん」という日本語が響いているのに、今世の私が知っている母親の呼称は、全く違う音の羅列だった。
「火」という概念に対して、「コンロ」と「炉」のイメージが同時に重なる。
二つの異なる言語と価値観が、小さな脳味噌のキャパシティを完全に超えて、ゲシュタルト崩壊を起こしていた。
「あ……う、あ……」
頭が割れるように痛い。
吐き気がする。
私は、藁の上で身をよじった。
服は、麻なのか何なのか分からないが、とにかく粗末で硬い布地だ。
動くたびに肌が擦れて痛い。
お風呂に入りたい。
シャワーを浴びたい。
温かいお湯で、このこびりついた汚れと臭いを洗い流したい。
前世の記憶が、当たり前のようにそれを要求する。
しかし、今世の記憶が冷酷に告げる。
シャワーなんてない。
石鹸なんて見たこともない。
歯ブラシもない。
水洗トイレなんて魔法の産物だ。
柔らかい布団も、ボタン一つで部屋を暖める機械も、蛇口をひねれば出る安全な水も、病気になれば診てくれる病院も、この世界には、この村には、この家には、何一つとして「ない」のだ。
「転生したら、現代知識チート……」
転生の間で、得意げにそう語った自分を殴り飛ばしてやりたかった。
チート?
冗談じゃない。
現代知識を発揮する前に、不衛生と寒さと飢えで死ぬ。
公衆衛生を改善しようにも、そのための道具を作る道具すらない。
私は大人ですらない。
自分の足で立って歩くことすら、この栄養失調の小さな身体には重労働なのだ。
薄暗い小屋の隅で、赤ん坊が弱々しく泣き始めた。
母親が重い身体を引きずるようにして起き上がり、舌打ちをしながらあやしている。
父親は壁際でいびきをかいているが、その眉間には深い皺が刻まれている。
彼らは、私を虐待しているわけではない。
ただ、生きるのに必死で、圧倒的に「余裕」がないのだ。
『恐らく、お主は十歳ほどで捨て子になる未来が見えるのう』
猫の無慈悲な予言が、リアルな重みを持って蘇った。
このまま冬がくれば、食料は尽きる。
その時、真っ先に減らされる「口」は誰だ?
病弱で、満足に畑仕事もできず、突然訳の分からないことを喚き散らすかもしれない「女の子」。
私だ。
どうする。
どうすればいい。
歴史を変える?
村を豊かにする?
そんな壮大なことは考えられない。
今の私の目標は、ただ一つ。
「生きる」こと。
「役に立つ子供」を演じて、口減らしの対象から外れること。
でも、私に何ができる?
前世の私は、ただの事務職OLだ。
農業の知識なんて家庭菜園レベルもないし、建築の知識もない。
薬草の見分け方も知らない。
パニックになりかけた私の脳裏に、生前の、友人たちとの他愛ない飲み会での会話がフラッシュバックした。
『中世とか古代の歴史モノでさ、素人がうろ覚えの知識で青カビからペニシリン作ろうとする展開あるじゃん? あれ、医療従事者から見たら自殺行為だからね。毒カビ培養して死ぬのがオチだよ』
そう笑っていた医者の友人。
『水回りと下水を舐める文明は滅ぶんだよ』
そう熱弁していた建設業の友人。
『なろうの主人公って、だいたいマヨネーズか砂糖作って商会に取り入るよね。まあ、流通と既得権益なめたら普通に暗殺されるけど』
そう語っていたオタクの友人。
『昔の宗教観を現代の感覚で否定しちゃダメ。ガチで火炙りにされるよ』
そう忠告めいたことを言っていた歴史好きの友人。
私の知識じゃない。
私よりずっと専門的で、オタクで、変に詳しかった彼女たちの「雑談」。
それが、今の私にとって唯一の武器になるかもしれない。
「私の知識じゃなくて……友達の雑談の方が、役に立ちそう……」
掠れた声で呟きながら、私は再び藁の上へ力なく倒れ込んだ。
冷たい土の冷気が、背中から体温を奪っていく。
腹の底から、絞り出すような空腹の痛みが襲ってくる。
大声で泣き喚きたかった。
スマホを探して、誰かに助けを求めたかった。
でも、泣き声を出せば、機嫌の悪い父親に殴られるかもしれない。
だから、必死に唇を噛んで声を殺した。
薄暗い天井の梁を睨みつけながら、私は心の中で静かに絶望を噛み締めていた。
思い出した。
確かに、自分が誰だったか思い出した。
思い出したけど……これ、間違いなく、地獄じゃないか。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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