第七十一話 婚礼 ーあれから二年ー
「本日の報告……万引き一件、喧嘩の仲裁一件、以上です。平和ですねえ」
騎士団長レイドがのほほんと告げれば、魔導士長クロトも苦笑して応じる。
「こちらも失せ物捜索のみ。最高位魔導士たちも暇を持て余しています」
「平和なのはいいことです。黒魔導士だなんだ言ってたのも二年前ですし……さて、クロト殿。失礼、明日からは王太子妃殿下ですか」
「……慣れませんねえ」
レイドの口調が移ったクロトは、再び苦笑いを浮かべた。
急に会議室の扉の外が慌ただしくなる。
クロトとレイドが顔を見合わせ、扉へ目をやると、大きな音を立てて扉が開いた。
扉を開けた張本人は不機嫌に深い青の瞳を細め、大股でレイドに詰め寄る。
「おい、ここ」
目の前に書類を出され、レイドは目を瞬いた。
グリズリッドは、ずいと人差し指で一点を指し示す。
「数字が違うんじゃないか」
レイドの顔色が即座に変わる。
「え、うわ。ほんとだ、すぐ直します……!」
グリズリッドから書類を取り、レイドは一礼して急いで会議室を後にした。
クロトはグリズリッドを上目遣いで見つめた。
「……伝令を使わないから、皆さん慌てるんですよ?」
グリズリッドはクロトを見下ろす。
「行かなければ会えないだろ」
しれっと言われ、クロトは目を瞬く。
意味をすぐに理解した彼女は頬を薔薇色に染めた。
「ちょうどよくミスしてくれた」
光に溶けそうな笑顔を見せる彼に、クロトは小声で「……かわいいじゃないですか」と呟き唇を尖らせる。
祝福の声は、波のようだった。
白い薔薇が石畳を埋め、高く掲げられた王家の旗が風に緩やかに揺れる。
大聖堂の扉が開いた瞬間、鐘が鳴り響いた。
低く、重く、王国の歴史そのもののような音だった。
隣を歩く彼は、一歩も乱さない。
その横顔は完璧だった。
誓約の言葉が交わされ、二人は向かい合う。
一瞬だけ、彼の視線が揺らいだ。
瞳の中に王太子ではない彼を見て、クロトは安堵した。
互いの瞳の色を模した宝石の付いた指輪が嵌められ、グリズリッドはクロトの額に唇を落とす。
歓声が上がり、花弁が舞った。
夜になると、王宮の奥の寝室はひどく静かだ。
燭台の火が揺れ、柔らかな影が壁を滑る。
寝台の上に正座したクロトたちは、まるで対峙したときのような顔で向かい合う。
「……覚悟はできているのか」
低い声。
クロトは瞬きをひとつ返す。
「はい」
初夜の甘い雰囲気は全くない。
何か秘密の取引をしているような、そんな錯覚に陥る。
「勿論、責務も承知しています」
わずかな沈黙。
「……責務」
グリズリッドは一歩距離を詰める。
互いの指先が触れた。
「もうちょっとこう……」
言葉を濁して、すこし頭を抱える。
彼もまたこの空気に違和感を覚えているらしい。
「……一応、緊張はしているわけか」
グリズリッドはちらりとクロトを見やる。
「し、してませんけど」
ここでそう言ってしまうのが自分の残念なところだと、クロトは思う。
「嘘だな」
そう言いながら彼の指がクロトの頬に触れた。
確かめるような触れ方だった。
「意外とわかりやすい」
燭台の火が揺れ、影が重なる。
沈黙は気まずくはなかった。
ただ、少しだけ落ち着かない。
クロトは視線を逸らし、徐に羽織の紐を解いた。
それを見て、グリズリッドは訝しむような目で見つめる。
「……まさか、指南書でも読んできたのか」
ぎくりとクロトは肩を震わす。
「なぜそれを……」
グリズリッドは小さく吹き出す。
「……どんな手順だった?」
グリズリッドもまた、上着を脱ぎ捨てる。
ぱさりと布が落ちる音に心臓が跳ねた。
距離がゆっくりと縮まり、耳元で囁かれる。
「そ、それは……」
言葉が出ない。
もちろん手順は覚えているが、頭が真っ白になる。
「順番に説明してみろ」
「今? ですか?」
「議会で説明するつもりか?」
グリズリッドは、にやりと笑う。
余裕そうなその顔が腹立たしく、クロトは彼を睨んだ。
指が互いを探る。
呼吸が重なる。
視界に映るのは、彼の瞳だけ。
どちらともなく、距離が縮まる。
こんなにも近いのに、どこか現実味がない。
心臓が早鐘を打つ。
音まで聞こえていないか不安になり、思わず胸元を押さえた。
あと、わずか。
意を決して、目を閉じる。
―― トントン・トントン。
静寂を裂く音が響き、二人はぴたりと止まる。
数拍の沈黙のあと。
「……ちっ」
低く、短い舌打ちが聞こえた。
グリズリッドの目が不機嫌に細められる。
「殿下」
聞き慣れた柔らかい男性の声。
「騎士団長レイドでございます」
空気が変わる。
グリズリッドの瞳から温度が消え、クロトの目を見る。
クロトもまた、グリズリッドの目を一度見つめ、頷く。
「入れ」
扉が開き、レイドが一礼する。
だが視線は上げない。上げないのが礼儀だと知っているからだ。
「誠に申し上げにくいのですが……王都在住のアッサラート一族の老人が、襲撃されました」
燭台の火が揺れる。
素早く着衣を直したクロトとグリズリッドは、同時に立ち上がった。
「続きは戻ってからだ」
グリズリッドは低く短く、そう言い残す。




