名前のない原稿
「書いている」
嘘だった。誰に言うでもないその言葉が、今日も喉に引っかかった。
原稿用紙は、白いまま机に置かれている。
夏目漱石を名乗って、この店に座るたびに、俺は少しずつ、自分を見失っていた。
ペン先が止まるたび、机の上の湯呑みからは、静かに湯気が立っていた。
書けない自分を映すように、茶の表面は揺れていなかった。
書けないことに、慣れてはいけないと思っていた。
でも、握られなかったペンの重さは、もう湯呑みよりも軽い。
誰も俺を責めてはいない。
ただ、白紙だけが“漱石”という看板を無言で映し返してくる。
鴎外は黙って読んで、紫琴は黙って書いていた。
コーヒーを一口飲んで、気持ちを整理する。
俺だけが、黙って白紙を見ている。
何が書きたいか、じゃない。
誰として書くかが、わからなくなっている。
書けなかったのは、言葉がないからじゃない。
言葉にしてしまったら、“本当の自分”が見える気がしたからだ。
「まだ書けてないのか」
「……書いている」
「嘘だな」
「…」
「でも、嘘を書くのも作家の仕事だ」
「漱石さん、今日もここ来てくれてうれしいな~」
「……俺は、逃げに来てるだけかもしれない」
「漱石さん、ここ来るとちょっとホッとするって言ってたじゃないですか」
「……あの頃は、まだ書けてた」
「今は“溜めてる”だけですよ。いつか、それで書く日が来ますって」
「筆名、変えてみるのもひとつの手ですよ」
「それは、夏目漱石を捨てるってことか」
「いえ。夏目漱石を、いったん“休ませる”ということです」
「……このまま何も書かないなら、名乗る意味すらない」
「もう一度、最初の一文から始めてみる」
「名前は……あとでいい」
『私は、今日も自分が誰なのかわからない』
原稿用紙の一行目に、静かに記された文字。
ペンを置いたあと、俺は、名前の欄だけを見つめていた。
書かないまま、そっと原稿を閉じた。
いつもより長く、灯りがついていたカフェ。
そこでは、マスターが白い本を静かにめくっていた。