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CAFE 「Lie Stage」   作者:
第一章
4/5

名前のない原稿

「書いている」

嘘だった。誰に言うでもないその言葉が、今日も喉に引っかかった。

原稿用紙は、白いまま机に置かれている。

夏目漱石を名乗って、この店に座るたびに、俺は少しずつ、自分を見失っていた。


ペン先が止まるたび、机の上の湯呑みからは、静かに湯気が立っていた。

書けない自分を映すように、茶の表面は揺れていなかった。

書けないことに、慣れてはいけないと思っていた。

でも、握られなかったペンの重さは、もう湯呑みよりも軽い。

誰も俺を責めてはいない。

ただ、白紙だけが“漱石”という看板を無言で映し返してくる。

鴎外は黙って読んで、紫琴は黙って書いていた。

コーヒーを一口飲んで、気持ちを整理する。

俺だけが、黙って白紙を見ている。

何が書きたいか、じゃない。

誰として書くかが、わからなくなっている。

書けなかったのは、言葉がないからじゃない。

言葉にしてしまったら、“本当の自分”が見える気がしたからだ。


「まだ書けてないのか」

「……書いている」

「嘘だな」

「…」

「でも、嘘を書くのも作家の仕事だ」


「漱石さん、今日もここ来てくれてうれしいな~」

「……俺は、逃げに来てるだけかもしれない」

「漱石さん、ここ来るとちょっとホッとするって言ってたじゃないですか」

「……あの頃は、まだ書けてた」

「今は“溜めてる”だけですよ。いつか、それで書く日が来ますって」


「筆名、変えてみるのもひとつの手ですよ」

「それは、夏目漱石を捨てるってことか」

「いえ。夏目漱石を、いったん“休ませる”ということです」


「……このまま何も書かないなら、名乗る意味すらない」


「もう一度、最初の一文から始めてみる」

「名前は……あとでいい」


『私は、今日も自分が誰なのかわからない』

原稿用紙の一行目に、静かに記された文字。


ペンを置いたあと、俺は、名前の欄だけを見つめていた。

書かないまま、そっと原稿を閉じた。


いつもより長く、灯りがついていたカフェ。

そこでは、マスターが白い本を静かにめくっていた。

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