サラム 001
神山に点在する『御柱』の宮は、遥か太古に大神ゼウスが定めた位階に沿って、ゼウスの領分である天空から地上に向けて、螺旋を描くようにして順に並んでいる。
雲を突き抜けた先に存在する山頂に君臨するのは、『ゼウス』の宮である統天宮だが、ここ数十年はずっと主不在の状態が続いている。
十二の『御柱』が揃うことの方が稀ではあるが、現在の神山は歴史的に見ても『御柱』の数が少ない空隙の時代だ。成人の『御柱』はわずか四人。この中の最高権力神は、統天宮から下って四番目―――輝陽宮の主である『アポロン』だ。
大理石の白が基調となっているにも関わらず、どこか煌びやかな印象を与えるのは緻密にデザインされた彫刻のためだろう。さまざまな意匠を凝らした光輪が彫り込まれており、輝陽宮の名にふさわしい佇まいだ。
本物の太陽からの光線を複雑に反射して、宮自体が発光しているようにも見えるなんとも神秘的な様相を前にして、ぽつりと呟かれた声がある。
「相変わらず辛気臭えなあ」
掲げられた太陽のシンボルが煌々と輝いている輝陽宮の門を、一人の青年が通り抜けていく。青年の言う通り、建物の規模に比べて人影がなさすぎる。視覚的に煌びやかな分、無音がいやに耳につくのだ。
青年は下男が身につけるような簡素な格好をしているが、鍛えられた逞しい体つきと、いやに悠々とした歩き方からは、彼がある位の高さがうかがえる。
銀色の髪はオールバックに整えられているが、伸びた襟足は無造作に束ねられており、歩くたびに尻尾のように左右に揺れる。全体的に色素が薄い中で、紺碧の瞳がどっしりした存在感を放っており、彼の印象を強めている。
青年は迷いのない足取りで奥へと進んでいき、ひときわ大きく豪奢にしつらえられた扉の前で足を止め、形式的に口上を述べた。
「『ヘルメス』のサラム、『アポロン』の御前に参上した。目通りを願う」
言うだけ言って、返事も待たずに扉を押し開く。
輝陽宮の下人は少ない。とくに今代の『アポロン』は自らの近くに人を置いておきたがらないことを、青年はよく知っている。
それでも名乗りを上げるのは、実務的な用があって来ていることを宮の主に知らせるためだ。でなければ他人と関わりたがらない『アポロン』に追い出されかねない。
執務室が無人であることを見て取ると、脇の扉からさらに奥へと進んでいく。祭壇の間に見知った後姿を見つけて、その入り口のところで背を壁に凭れかけさせた。
「毎日飽きずによくやるねえ」
「翔ける脚があるものばかりではない」
低く落ち着いた声とともに振り向いたのは、ひどく怜悧な美貌を持った人物だ。長身だが線が細く、中性的な顔立ちと相まって一見しただけでは女性と見間違えそうな儚さがある。
だが彼の言葉は重く低く、聞く者の背筋をそわりと撫でる重圧感がある。
聞きなれているはずのサラムでさえ、項にチリチリするものを感じている。
「あんたの眼の方が便利だろ、リュオ。飛んでくのだって疲れるんだぜ」
「限りがある。ラインがつながっている神殿の周囲しかわからない。……東の混乱はまだ収まらないのか」
淡々と言葉を紡ぐかんばせを縁取る白金の髪が、静かな動きに合わせてさらりと揺れる。水色の瞳は透き通ったガラス玉のように彼の内面を何もうつさない。明度の高い外見とは裏腹に、その表情はほの暗かった。
本当にいつみても辛気臭い、と胸中で呟きながら、サラムは手をひらりと振って応じる。
「そのことについて報告が来た。前々から動きはあったが、クーデターが成功して新たな指導者が立った。名はプルートス・デロス・ベレニク・アウトクラトラス。若いぞ、多分あんたより年下だ。―――先の大戦からラインが断絶されてたわけだが、エオスポロスのおっさんが直接出向いてあれこれしてるみてえだから、そのうち繋がってくるんじゃねえ?」
「伝聞か」
「『イーリス』の報告だ」
「そうか」
頷いて、リュオは再び祭壇の方へ体を向ける。
長い睫に縁取られた瞼を落とした先で、彼が何を見ているのかはわからない。ただ、リュオはあるものをずっと探している。五年前から毎日毎日飽きたらず。温かだった表情が凍りつき、繊細で豊かだった感情が削ぎ落とされ、まるで別人のようになってしまっても、変わらないひたむきさで探し物が見つかる日を待ち焦がれている。
幼い頃に見ていた背中よりもずいぶんと小さな印象になってしまったそれをぼんやり眺めながら、サラムはもう一つの報告を伝えるべく口を開いた。
「夏至祭のことなんだけどよ、リーンが来るらしいぜ」
リュオの背中を凝視するが、静止したそれはピクリとも反応を示さない。
「……そうか」
けれど、返事までに生じたしばしの間に、わずかな葛藤が見えた気がした。
「サラム、お前、いくつになった?」
「自分の歳から十二引いてくれよ」
「己の歳など数えてない」
「やだねー三十路の大台にのったばっかだっていうのに、もう健忘か? こんな引きこもり生活してるからだぜまったく。やだねえ、頭のボケた『アポロン』なんて願い下げだぜ?」
うへえと口を捻じ曲げながら言うサラムを気にもとめず、「もう十八か……」とどこか感傷的に呟いている。表情は見えないが、その感傷がサラムに向けられたものでないことは明らかだ。
サラムは肩をすくめて、リュオが思い描いているであろう少女―――アイリーンの姿を頭の中に浮かべてみることにした。
彼女が神山を降りてから、もう五年は経つ。リュオは幼い頃の姿しか知らないだろうが、たびたび下界へ降りているリュオはアイリーンを遠目にする機会が幾度かあった。
十三の頃のアイリーンはもともと小柄だったこともあり実年齢よりも幼く見えていたものだが、成人を迎え三年たった今では子どもと侮られることのない立派な女性に近づきつつあることを知っている。
本来子ども好きで、彼女のことを特別気にかけていたリュオだから、今度の邂逅に思うことは多いだろう。彼女の兄で、リュオの親友だった男のことを思えば、その心中は察するに余りある。
「止めねえのか?」
その気になれば大神殿からの使者の入れ替わりを命じることなど造作ない。理由は適当にでっち上げればいいのだし、むしろ理由などなくてもいい。『御柱』の言葉にはそれだけの力がある。
けれどリュオは、ふるりと首を振る。
「理由がない。我ら『御柱』は下界とのつながりを持たない。たとえヤツの血縁であろうと、ヤツが『御柱』として神山に召された時点でそのつながりは断ち切れている。ヤツの妹であるからなど……そんな理由では阻めない」
「最高命令権を持っているあんたが、何かを命じるのに理由がいるって?」
「もちろんだ。断じて、いる。わたしは独裁者になるつもりは欠片もない」
抑揚を欠いていた声がにわかに熱を帯びる。頬をぽりぽりと掻きながら、サラムはハアッとため息をついた。
「あんたのそういうところ、エオスポロスのおっさんはよくわかってんだろうなあ」
「大神殿の神官として赴く者を止める理由はない。だがもし、その分に見合わぬ行動をした場合には捨て置くわけにはいかない」
「へいへい、了解っと。じゃあ報告もすんだし、俺はこれで」
ひらひらと後ろ手に手を振りながら出ていこうとしたサラムを、珍しいことにリュオが呼び止めた。
「わたしは、アイリーンを許せるだろうか」
「はー? なに阿呆なこと言ってんだよリュオ」
呆れた目で振り返り、相変わらずこちらに背を向けているリュオをすっと見据える。
眉間に力を入れて、押し出すように出した声は存外に低かった。
「許しを請うのは、俺たちの方だろうが」