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アイリーン 007

 アイリーンに家族ができたのは、彼女が三歳になったころだったという。

 彼女自身に細かな記憶はないが、周りの大人が話していた内容を拾い集めた結果、そうだったらしいという情報として彼女の中に定着した。

 家族を知らない子どもというのは、その時世では珍しくなかった。アイリーンが生まれたのはちょうど先の大戦がはじまったばかりの頃で、戦災孤児が爆発的に増えた時期と一致している。

 その意味で、孤児院で育った彼女はなにも特別な境遇ではなかった。

 乳幼児の頃は他の子どもと同じような世話を受け、病気をもらうこともなくすくすくと成長していった。けれど自分で移動し、言葉を話し、意思疎通を図れるようになった頃から、彼女の『特別』は周囲に知れ渡るようになっていった。

「あの子、変だわ」

 最初に言ったのは誰だったのだろうか。その言葉がアイリーン本人の耳に入るころには、周りの大人はみな彼女のことを遠巻きにしていたし、年長の子どもたちは彼女を排除し、虐げた。

 幸いだったのは、その仕打ちを受けた期間がそれほど長く続かなかったことだろう。幼い心を委縮させるには十分な長さだったが、修復不可能なまでに彼女の心を壊してしまうことはなかった。

 アイリーンがいたのは下界に数多くある孤児院と同じ、ごく普通の、強いてあげようとしても特別なところのない施設だった。らしい。

そこに、ある日突然『降臨』がなされた。

下界に住む人々にとって『神憑き』は神と同じく神話の中の生き物だ。『神憑き』が人間であるということを知識として知ってはいても、その存在は神に等しい信仰の対象なのだ。

それがどこの家にもある簡易な祭壇の上に急に降り立ったのだから、人々の驚きようは大変なものだった。この時の様子はいろいろな脚色を加えて語り継がれてきているので、アイリーンも何度か耳にしたことがある。『降臨』した当の本人は「そんな大げさな」と苦笑しきりだったが、アイリーンとしてはお気に入りの物語の一つだ。

いわく、煌めく薄絹と豪奢な外套を身につけた端麗な容姿の少年は、どこから響くともわからない声音で話し出した。その声は貴族の声よりもよほど甘く魅力的な響きで人心を捉え、彼の者の急な出現に恐れ惑っていた人々の口をぴたりと閉ざさせた。――云々。

「よかった……やっと見つけたぞ」

 気付いたらその人はアイリーンのごく間近にいた。「我が名は『ポセイドン』、海と大地を領分と定められし一柱」と、お決まりらしい口上を述べた後で、アイリーンにまっすぐ向かって響いた声は柔らかかった。こんな柔らかで暖かな気配に触れるのは初めてだと思うくらい、その人の声は優しくアイリーンをくるんだ。

「長いこと一人にして悪かった。俺はエクト。お前の兄さまだよ、アイリーン。大きくなったなあ。お前、昔はこんなにちっさかったんだぞ」

 降臨の口上を述べた時とはガラリと雰囲気を変えて屈託なく笑ったエクトは、ぼんやりと自分を見つめているアイリーンを躊躇なく抱き上げて額と額をこつんと合わせた。

「俺の可愛い、大切な妹。一緒に母さまのもとへ行こう」

 そう言って大神殿が治めるピエリアまでアイリーンを連れてきたエクトは神山へ帰って行ってしまったが、エクトが離した手を今度は母が優しく繋いでくれた。

 戸惑うアイリーンの小さな両手を丸く膨らんだ自らの腹に軽く押し当て、にっこりと笑う暖かな眼差しは、エクトのものと瓜二つだ。

「あなたを施設に預けたきり、なかなか迎えに行けなくて本当にごめんなさい。戦の混乱で見失ってしまって……きっと寂しい思いをさせたわね……」

 初めて接する母の声は甘く、柔らかく、自然に慕わしく思う気持ちがわいてくる。施設で排斥されるほどに人に近づくのが怖くなっていたのに、たおやかな手に撫でられているとそんな恐怖心もどこかに消えてなくなってしまう。

「……かあ、さま」

「なあに、アイリーン?」

 エクトが言っていた呼称をまねて口に出す。とたんにギュッと抱き寄せられて、アイリーンは自然と顔を緩ませた。

 求めれば応えてくれる温もりがある。アイリーンが家族を手に入れた瞬間だった。

 けれど。

「―――お前に父と呼ばれるいわれはない」

 家族を手に入れてから四年間、ひたすらに無関心を貫いていたその人から初めてもらった言葉は、とても冷たく、鋭く、幼いアイリーンの胸を刺した。

 アイリーンが七歳になった時、遅まきながら喋りだした弟が自らの憑き神の名を語った。『御柱』は誰に教えられるでもなく、自らの憑き神の名がわかる。弟はまさにその通りだったらしく、その名がどれほど力のある神の名であるかなど知らず、騒然とする大人たちをきょとんとした顔で見つめていた。

 アイリーンにとっても、弟が『御柱』であることは衝撃だった。その立場の特殊さや尊さはわからずとも、自分を慕って懐いてくれた甘えん坊の弟が、兄と同じく神山へ連れていかれてしまうとわかったからだ。

 間が悪いことに、もともと体の弱かった母が伏せってしまったのもこの時期だった。顔色も悪く、どんどんやせ細っていく母がいくら笑いかけてくれても儚いばかりで、暖かい言葉も包み込むようなまなざしもアイリーンの精神を遠慮なしにぐらぐらと揺さぶってくる。

大好きな人がいなくなってしまうことがとても怖くて、毎日がどうしようもなく不安で、アイリーンはついに父親を頼ったのだ。その人が自分を好いていないことはずっと感じていたけれど、頼らずにはいられなかった。

 父さま、と。本人に向かって呼びかけるのはこれが初めてだった。

 気持ちを振り絞って出した声に返ってきたのは、あまりに残酷な―――けれど、どこかでうっすらと予感していた、そんな言葉だった。

「お前に父と呼ばれるいわれはない。お前と『ポセイドン』は私にはまったく所縁がない。お前たちは悪魔の子どもだ。とくにお前は、本来なら生まれてくるべきではなかった。誕生とともに死ぬべきだった。お前が生き永らえたために悪魔が生まれ、お前の母親は死期を早めた。父などと呼ぶな。私に縋るな。どこかへ行け。―――行ってくれ」

 鋭い言葉でアイリーンの胸に穴をうがちながら、空いた穴にありったけの嘆きを注ぎ込んできた。それは確かにその人が母を大切に思っていたという証である気がして、アイリーンはどうしたらいいのかわからなくなってしまった。

 混乱したままただ足を動かして、辿り着いたのは大神殿だ。当時、神官兵団の団長をしていたエオスポロスは母親と旧知の仲らしく、アイリーンにもよく目をかけてくれていた。父親と思っていたその人よりも、父親らしく彼女に接してくれた人物だ。

「どうしたんじゃお嬢。ひどい顔しとるぞ」

 年齢と外見にそぐわない、おじじのような話し方をするエオスポロスは、大きな体躯をひょいとかがめてアイリーンの顔を覗き込んだ。その瞳をじっと見ながら、アイリーンはまとまらない思考をそのまま吐き出していく。

「悪魔って、なんですか? 私の父さまは、悪魔なんですか? 私が父さまを悪魔にして、私は生まれてきちゃいけなくて、私が……」

 喋りかけていくうちに、ばらばらになっていた感情のかけらがまとまってきた。鼻の奥が熱を持ち、喉に空気の塊がつかえる。勝手に震えそうになる喉に力を入れるけれど、紡ぎだされた声は知らない人のもののようにか細く湿ったものになる。

「私が家族になったから、母さまは、死んでしまうの……?」

 視界が滲み、顔が歪んで、頬がとめどなく濡れていく。

エオスポロスはアイリーンの疑問になに一つ答えを返さなかった。声もなく俯き泣き崩れたアイリーンを抱き上げて、幼子にするように優しく揺すりながら背中を愛撫する。泣き疲れて眠ってしまうまで、エオスポロスは辛抱強くアイリーンを宥めてあやしてくれた。




「おはよう、リーン」

 泣き腫らして重たくなった瞼を押し上げると、窓から差し込む朝の光を背後にして笑う兄の姿があった。

「……兄さま?」

「元気ないって聞いたから飛んできたぞ。アウルが『御柱』だって知ってびっくりしたか?」

 寝ころんだままぼんやりしているアイリーンの髪をエクトがふわふわと撫でていく。筋張った手は大きくて温かくて、大好きな兄の手をアイリーンは思わず両手で捕まえた。

「兄さま」

「うん?」

「私、家族になっちゃ、だめだったの……」

 涙は流れない。ただただ悲しみを湛えた瞳が、自分と同じ色をした兄の瞳を見つめる。

 春の空のような色、と、優しい母はアイリーンの瞳を愛してくれた。弟のアウルは母と同じヘイゼルの瞳で、本当の父ではないあの人は黒っぽい色をした瞳だった。思えば、兄と自分のこの瞳は、本当の父親から受け継いだものなのかもしれない。

 エクトは小さくため息をつくと、ベッドに握られていない方の肘をついて、ごく近くからアイリーンの顔を覗き込んだ。

「あの人は、お前を愛してはくれなかった?」

 無駄な問いかけのないごく静かな声は、すんなりアイリーンの中に入ってきた。

「どこかへ行ってくれって言われたの。私、いない方がいいと思う」

 それに、と、今まで気づいていたけれど考えないようにしていたことを兄に告げる。

「『神憑き』とか『異能持ち』の近くにいると、普通の人は具合が悪くなるって聞いたことがあるの……。アウルと私がいなくなれば、母さま、もっと元気になるかもしれない」

「具合が悪くなっても、いっそのこと死んでしまってもいいから一緒にいたいって、母さまは思ってるかもしれないけどな」

「そんなの、私は絶対にいや」

 強く言い切ると、そっか、とエクトは笑う。

 エクトの笑顔は安心する。不安に思うことなど何もないんだと、暗に言ってくれているような気がしてくる。

「じゃあリーン、神山に行こうか」

「……え?」

「お前まで『御柱』ってことはないと思うけど、多分『神憑き』だと思うんだよなー。自分のチカラがなんなのかわかれば、ただ人の近くにいても変に影響を与えることは少なくなるよ。母さまがお前を手放したがらなかったから様子見てたけど、アウルのこともあったし、いいタイミングだと思うんだ。……本当だったら、こんなふうに傷つける前に連れていきたかったんだけどな」

 神山には『御柱』の他に、『御柱』の身の回りの世話をする従者や侍女、下男、下女が暮らしている。みんな何かしらのチカラを持った面々で、中にはそうした役目を与えられて生活しながら、チカラをコントロールする術を身につけるために神山に身を寄せているものもいるらしい。

「リーンは俺の宮においで。一緒に暮らそう。家族だもんな」

 絶望的に塞いでいた気持ちがゆるゆると晴れていく。ふにゃ、と笑って、「ありがとう兄さま」と呟いた。

 ただただ安住の場所を求めて神山に辿り着いたアイリーンだったが、そこで過ごした5年間の中で、彼女は自分が手に入れられるとは思ってもみなかった得難いものを手に入れた。

 血の繋がりがなくても、確固たる理由がなくても共にあって心を交わしあえる仲間―――友人たちだ。

 冷静で頭のいい『ヘルメス』のサラム。

 感情豊かで飛び抜けた美貌を誇る『アフロディテ』のキュレイア。

 そして、怜悧な瞳の奥にとても優しい情を抱えた『アレス』のセツナ。

 『御柱』である彼らは、ただの『神憑き』であるアイリーンよりもよほど深い業を負っていた。彼らにしてみたらアイリーンは部外者と言っても過言ではなかっただろうに、誰よりも彼女を受け入れてくれたのは『御柱』の面々だった。施設にいた時よりも、母のもとにいた時よりも、家族と一緒にいるような大きな安心に包まれていた。

 すっかり明るい笑顔を見せるようになったアイリーンを嬉しそうに眺めながら、エクトは心底安心したように笑ったものだ。

「やっぱりお前は笑ってるのがいいな。知ってるか? リーンが笑うだけで、嬉しい気持ちになれるやつがいっぱいいるんだぞ」

「兄さまが笑うと、私が嬉しくなるみたいに?」

「言ってくれるねえ」

 ふわふわの髪を遠慮なくかき回されて、アイリーンは声を上げて笑う。

 風が優しい花の香りを運んできて、彼女の小さな胸をいっぱいに満たした。

「笑ってる顔ってのはいいよな。笑顔を見ると安心する。それが大事な人のならなおさらな。俺たち『御柱』は世界の調和を保つのが役目だけど、俺はできるなら、お前たちがいつでも笑っていられるように、どんなことからでも守ってやりたい」

「じゃあ、私は兄さまのお手伝いをするわ」

「おっ、いいねえ。可愛い妹がいれば百人力だ!」

 エクトとの会話にはいつも明るい笑い声が満ちていて、だいたいにおいて騒々しかった。だから必ず誰かが聞きつけてやってくる。その時は確か、セツナが一番初めにやってきて―――。

 不意に、ジュウ、という音がした。気がした。

 肉が焦げる嫌なにおいと、真っ黒に染まっていく彼の肌。

「セ、ツ……」


「起きたのか?」


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