第八十六話
顕成に支えてもらいながら、庭を建物に沿ってゆっくりと歩いた。
「さっき、道長様が摂政を辞められたっておっしゃっていたけど、本当なの?」
「うん。左大将様に譲られたんだよ」
「ふうん」
左大将様とは宇治でもお会いした長男の頼通様か。
三の姫様の入内も認めてみえたし、まさに一家安泰なんだわ。
そう思いながら、簀子縁を行き来する女房の顔を一人一人確認しつつ、会釈をする。
「月姫、あからさまにジロジロと見るのはどうかと」
「だって中将内侍さんが潜んでいるはずでしょ」
私は構わず、邸の中から床下まで目を皿のようにして探す。
「向こうからは見えているかも知れないじゃないか――」
その時、真正面の奥の建物の陰に誰かがさっと隠れるのを感じた。
「顕成」
顕成はうんと頷き、さっと前に出て追いかける。
私も少し遅れてついて行く。
いつもなら私も真っ先に駆けて行くのだけど――この鈍った足の件だけは道雅様を恨むわ。
今度会ったら文句を言ってやらなくちゃ。
ぐるっと回った所で築地塀が崩れている箇所があり、そこから女性が出て行くのが見えた。
顕成もそれに続き外に出る。
少し遅れて私も崩れた塀を跨ぐと、築地塀に添って停めてある牛車の前で、顕成が女性の袖を引き止めていた。
私も近付いて相手の顔を確認すると、思ったとおり中将内侍さんだった。
車の中に袈裟姿の男が座っているのも見える。
「あなたがここに何をしに?」
顕成は低く落ちついた声で尋ねた。
中将内侍さんは目を見開き、まじまじと顕成の顔を見つめている。
「あ、僕です」
顕成は少し照れたような顔で付け加える。
「顕成様? そのお姿は一体……」
「その手にしているものを見せてもらっていい?」
そう言って顕成は、彼女が手にしている白い包みを奪い、中を確認すると木製の人形が出てきた。
既視感のある光景に目が一瞬くらっとした。
前に私の名前が彫ってあったものより、もっとしっかりした造りで、今度は「藤原威子」と彫ってある。
道長様の三の姫様の名前だ。
「この邸のどこかに置いてくるつもりだったの?」
顕成が訊くと、中将内侍さんは答えず遠くを見つめた。
「皆さん、車にお乗りなさい。中で話しましょう」
車の中にいた袈裟姿の男に言われ、中将内侍さんと顕成と私は牛車に乗り込んだ。
「私は陰陽師の道満と申します」
「あ、私は……」
「女房近江殿、そして月姫ですね」
「はい。その通りですが何故ご存知なのです?」
道満という陰陽師は応えずに怪しげな微笑みを向けた。
一見若く見えるけど、よく見ると父上位の年のようだ。
しかし中年男性の貫禄はなく、化粧のせいか中性的で妖艶な雰囲気を醸し出している。
「道満法師様は今は播磨にいらっしゃると聞いていましたが」
顕成がまた地声で口を出した。
女姿だと自覚してないのか、声色を使う気は一切なさそう。
道満法師は特段驚いた様子もなく、顕成を見た。
「普段は播磨におりますよ。しかし貴人に呼ばれる度にこうして時折京にお邪魔しています」
顕成は、人形の入った白い包みを道満法師に見せた。
「この人形はあなたが?」
「いかにも。しかし、土壇場になってこの命婦殿が尻込みしてしまったようでね」
顕成と私は同時に中将内侍さんを見る。
彼女は俯いてぼんやりと車の床を眺めていた。
「誰か人に任せられるか、自らやられるならさっと置いて来られればよいものを……」
道満法師はため息をついた。
中将内侍さんの表情をよく見るとどこか悲しげだ。
誰かを恨んでいるような人には見えない。
「中将内侍さんは、威子様に危害を与えるのは戸惑われたのですね。だって、あなたが育てた当子様や顕成と同じような年代のお方ですものね」
そう言いながら、私はやっと確信した。
中将内侍さんは、ただ誰かの命を受けて動いているだけだ。
彼女に命じる事ができるのは、一人だけ。
「当子様ですね」




