第三十四話
「ほら近江、それだけいれば安心だろう?」
「あら、不安になられてたの?」
「昨日、帝の思いつきで抜擢されたのだよ。まあ宮様も後押ししてらしたけどな」
小伊勢さんは私を見て優しく微笑んだ。
「筝の名手である宮様の母后も中央近くで弾かれるから大丈夫ですよ。分かるところだけ合わせれば何とかなりましょう」
話を聞いているうちに、私は安心して落ち着いてきた。周囲を見渡すと続々と人が集まってきている。
「あら、左大将様がいらしてますわ。あちらの派閥の方々は皆、摂政様主催の鷹狩に行かれたのかと思いましたのに」
「彼は最近の父親のやり方を良く思っていないそうだよ。だから上皇様も彼には声をかけてみたのかも知れない」
左大将様。
摂政道長様の嫡男で、顕成が近江で滞在していた邸の持ち主のことだ。
どのお方だろうか、と御簾の向こう側を凝視していると、
「反対側の渡殿をご覧に。琵琶を持たれている殿方が左大将頼通様ですよ」
と小伊勢さんが教えてくれた。紫の袍を着て琵琶を手に落ち着いた表情で座られている若い公達が見えた。
「あ、ありがとうございます。あの、小伊勢様はどちらの女房様ですか?」
隣で道雅様がぷっとまた吹き出した。
「そちらのお方は近江のご主人の乳母であり命婦殿だよ」
「ええっ、命婦様? そ、それは失礼いたしました」
命婦様――つまり、宮家では私の上司に当たる人だ。しかも当子様の乳母ですって?
「いいのよ。帰京してから昨日まで休暇をいただいていたものだから。初めまして、宮家では中将内侍と呼ばれていますのよ。では私はこれで」
と小伊勢さん――中将内侍さんは下がって行った。
あの人が当子様と、顕成の乳母――
「あの左大将頼通は私の父と従兄弟にあたるのだが、私と同い年で幼馴染でもあってね」
道雅様が先程の話を続けた。
幼馴染と聞いて、私はぼんやりと顕成や伊勢の学友を思い出す。
「それは楽しい思い出がありそうですね」
「まあ、幼い頃はね……」
少し寂しそうな声が返ってきて、私は失言してしまった事に気付く。
頼通様の父君は道長様で、道雅様の父君は伊周様。
かつて二人が政敵だったのは有名な話。
政権を手にした道長様と失脚した伊周様。反対の立場の子供同士がそれまで通り仲良くできるはずがない。
少し考えれば分かる事だった。
しかし道雅様は、
「で、どうだ? 琴の自信の程は?」
と最初の質問を繰り返し几帳を少しめくってきた。袖から先だけが顔を出し、手をひらひらさせてみせる。こういう戯れをされる方だと慣れてきた。
「自信はございませんが、何とか合わせます」
私は口調だけは自信たっぷりに応えた。




