努力の完成 3-1
時間かけたのに結局話長くなってしまった。
なのでぶつ切りにした。
忍耐と我慢を価値の低いものとして自己犠牲だけが正しいと言う話になれば何のために忍耐を学び、我慢するのか、という話になる。
忍耐を学ぶ理由、単純な話だ。
「成長」のためだ。
我慢する理由など決まっている。
「報酬」のためだ。
その成長も報酬が自分にとって価値が薄くなる。
鬱になって趣味などの楽しんでいた行為が楽しめなくなった、等という話は聞いた事があるだろう。
忍耐にも我慢に価値を見いだせない、という事は忍耐や我慢の先にある自分の成長や報酬に価値を見いだせないと言う事。
労働、趣味や恋愛への期待がなくなる。
つまり自分の「喜び」や「楽しみ」に価値を見いだせなくなるという事。
忍耐力や我慢強さの価値が下がるという事はつまり自分の「未来」に希望を持てなくなるという事。
「自己犠牲が正解の時代」が訪れればソレは即ち「将来」が決められているという事に他ならない。
大昔の身分制度のあった時代と同じようになる。
現代でも「上流階級」と表現されているが一般人の自由が消え、上流階級だけが得をする。
そして上流階級には逆らえない。
「自身は誰かの犠牲になるのが確定している」
それを小さい頃から教え込まれる。
なら「我慢」や「忍耐」などして何になる。
未来が決まっているなら何のために我慢しなければならない。
未来が決まっているなら何のための忍耐だ。
何のための「努力」だ。
「社会」は「自己犠牲」を学ぶ場だ。
だが「自己犠牲だけが正しい時代」になってはいけない。
忍耐も我慢もない人間が自己犠牲の精神だけで子どもを産み育てるなど奴隷の量産でしかない。
それならば機械とAIでいい。
それでもなお「 人類存続のため」というのであれば「人間工場」でも作って強制的に産み、育て、出荷するという施設でも作ればいい。
ついでに老朽化した存在や失敗作を処分する「廃棄施設」でも作れば社会は無駄なものを背負わなくて済む。
忍耐や我慢に価値を感じない人間が振りかざした正論など、更により合理的な話を提案すればいい。
そう言うと「短絡的な思考で物を語るな」とか「機械やAIの進化を待っていれば外敵からの驚異に間に合わない」といった最もらしい事を語って反論する。
だが自己犠牲を正義とする人間の言う正論など夢や目標に向かって忍耐力をつけようとする人間や辛く苦しい仕事を我慢して報酬を得ようとしている他の人間からすると同じように自由を侵害しているわけで大した差はない。
そもそもであるがこの手の自己犠牲の思想を語る者は「優秀だった者」「若い女だった者」が多数だ。
「優秀だった」「若い女だった」という過去形。
優秀だったけど失敗した。
若かったけどもう年老いた。
もしコレが「平凡な人間」や「男」なら転落した所で社会に対して不満を漏らす事はあっても「正論」を盾にして「普通」に対して異を唱えるなんて事はしない。
「どうしようも出来ない」と分かりきっている話だ。
何よりそうした人間社会の外の理である正論という大きな力を盾にして自分の主張を正当化させる行為が「恥ずかしい」からだ。
何らかの理由でチヤホヤされる場所から排除された。
だから現代社会の「普通」に異を唱える。
しかしそれは裏を返せば排除されるまでは「普通」という巨大な盾の内側にいた事を示す。
「自己責任」と言って弱者を跳ね除け、
「弱肉強食」と言って弱者を責め、
「努力不足」と言って弱者の努力を認めなかった。
「普通」とというものを盾にして好き勝手してきた側だった人間。
身に余る「大きな力」を好き勝手使ってきたような連中だから、他の「大きな力」を使う事に対するハードルも低い。
彼等、彼女等らは現代社会が引き上げてしまった「高すぎる普通の基準」に異を唱える事を名目にしているだけ。
本当にやりたいのは「普通」から排除され、自分が弱者の側に転落した事の正当化。
その正当化のために「正論」を使って「現代の普通」を否定して「新しい普通」という基準を作る。
自分達は転落したのではなく、進化したのだと主張したい。
だから仮に「新しい普通」が成立した「その後」については何にも考えていない。
もし考えているなら「どうバランスを取るか」を主張する筈なのに、「自己犠牲が正しい」としか主張しない。
自分自身が「惨め」にならなければいい。
新しい「普通」を作る事で自分と同じ仲間を作り安心したい。
彼等の目的は「現代社会に対する問題提起」ではなく「自分の正当化」「仲間集め」「安心」。
その言葉は「正論」ではあるが攻撃する相手を選ぶ。
表立って「普通の人」を攻撃しない。
そして元々は「優秀」であり、あるいは「若い女」である。
言葉や飾り、メイクで本来のスペック以上のイメージを相手に植え付ける術には長けている。
だから「攻撃してもいい弱者」「反撃をしないであろう相手」には厳しい言葉で正論をぶつけて意見を封殺する。
しかし本来なら彼等が攻撃すべき相手である「普通の人」には表現を飾り、柔らかい言葉にして曖昧にする。
「数が多い」
それだけで「普通」というのは強い。
「強い相手」を刺激しない。
「優秀だった頃」「若かった頃」とやり方が変わらない。
だからそうやって厳しい言葉をぶつけた弱者は敵になるし、問題提起をぶつけたい「普通の人」には本音が伝わらない。
そう言う相手を選んで攻撃する人間性、駆け引きで発言や行動の責任を曖昧にする人間性が問題だから「若さ」が消えた時に転落したのに本質を理解していないから同じ事をする。
だから彼等の主張の先にある「自己犠牲の社会」に仮になった所で責任を取るつもりがない。
そんな人間達が「普通」に向けて曖昧な言葉を使って主張した時にはその奥には非人道的な本音がある。
「社会の維持のため」という正論を盾に現代社会を破滅させようとする。
他人の自由や権利を無視して、自己犠牲を強いると言う事はどんなに言葉を飾ろうとも碌でもない事は確か。
正論とは自然に近づく事。
人間も動物である以上、正論を否定する事は出来ない。
だからこそ正論を自らの主張の盾にしてしまえばそれはケダモノと同等に成り下がる。
自己犠牲の正論、つまりは「子どもを産まなければ社会は維持出来ない」と言う言葉は正論であり、実際に子どもが少ない現代社会においては無視出来ない言葉だ。
しかしそれは現代が「忍耐」が優遇される社会だからだ。
忍耐、我慢、自己犠牲の正論はそれぞれ三つ巴の関係にある。
忍耐の正論には自己犠牲の正論が強い。
いくら力があっても子どもが居なければ社会は維持出来ないから。
自己犠牲の正論には我慢の正論が強い。
子どもが居ても報酬がなかったら子どもを育てられないから。
我慢の正論には忍耐の正論が強い。
報酬を得るには力が必要だから。
次世代の育成と報酬と力、社会の維持のためには全て必要でありその何れかだけに偏って社会の価値感を大きく変える必要はない。
それどころか偏る事は長い目で見れば害にしかならない。
何故なら「努力」には全てが必要で偏ってはいけないからだ。
ただ偏っている人間からすると社会そのものが自分と同じ偏りならば「楽」ではある。
だからそれは失敗する。
忍耐力、我慢、どちらにして家庭や学校で履修済みで社会に出てもその延長。
「学び」がない。
だから最終目的であり、「自己犠牲」が必須の「次世代の育成」が困難になる。
我慢の時代は自分達のコピーを作る事しかできず、時代が変化していくに従い適応できなくなる。
現代の忍耐の時代は自分の成長を最優先し、子育てをリスクと感じて子育てそのものを遠ざける。
だがそれでも「成功者」であると文句を言いづらい。
だから「正論」を持ち出すしかない、と安直に判断する。




