T氏に対して思うこと その2
前回はT塚ヨットスクールのT塚氏の主張である「ハードなイジメはダメだがソフトなイジメは推奨する」というものに対して「一理あるがT塚氏自身がその主張を制御出来ておらず、それを他人に、ましてや未熟な子どもに押し付けて教育とするのは理想論だ」という事を自分は長々と語った。
今回は別の動画で見た主張だ。
「最近の子どもは飢えを知らない、だから飢えを理解させる事で食料を得るために子ども自身が創意工夫をして『生きる力』を高める事に繋がる。」
前回と同じだ。
「一理あるが理想論」だ。
何故「一理」あるのか、と言えば「技術」とはそうやって生まれ、洗練されてきたからだ。
「飢え」に限らず、「制限」を設ける事によって限られた道具、時間、選択肢の中でより効率的に物事や課題を達成しようとすればどうしたって「創意工夫」は必要になる。
コレについてはT塚氏の意見に同意だ。
しかし「子どもに飢えを理解させる事によって創意工夫を誘発させる」というのは「理想論」だ。
何故なら「知識」も「経験」も持たない未熟な子ども達が「飢え」を満たすために取れる「創意工夫」とは
「盗む」「奪う」「媚びる」
の3つしかないからだ。
「盗む」ためには「トロい人間」や「油断している人間」、そして「金目の物を持っていそうな人間」を判断する目を養う必要がある。
その上で実際の「盗む動作の術」が必要だ。
「奪う」ためには「自分より弱い人間」や「反撃をしてこなさそうな人間」、「病気や怪我を負っている人間」を選ぶ目が必要となる。
その上で暴力だとか罠だとかの「奪う行動の術」が必要となる。
「媚びる」というものも結局は同じ事。
「自分を守ってくれそうな人間」「簡単に自分に金品を与えてくれそうな人間」、「嘘を見抜けない純朴そうな人間」を選ぶ目が必要となる。
その上で実際に見た目に気を使ったり、誘惑したり泣き落としのエピソードだとか「媚びる術」が必要となる。
「目利き」が必要なのは「商売人」や「職人」の持っている「技術」と同じこと。
昔の職人が「見て盗め」 と弟子に教えていたように効率的に物事を達成するためには「技術の腕」よりもまず「見る事」が重要だ。
古代の人間が飢えを満たすためにしていた「狩猟」にしても「 弓」や「槍」 の腕前よりまず、「獲物に対する観察力」が重要。
「目利き」と表現したが仕事の内容に応じて目だけでなく耳で聞く、鼻で嗅ぐ、肌で触れる、口の中で味わうと様々な感覚で判断する。
目利きをする事で「情報」を得る。
その後に「腕の見せ所」。
そうやってまず「目利き」するのは「盗む」「奪う」「媚びる」も同じ。
だけど「仕事の経験」を積むより前に「盗む」「奪う」「媚びる」という「飢えをしのぐ手段」を覚えてしまえばもう「創意工夫の理由」がなくなる。
海外の治安の悪い場所にも子ども達は存在し、そうした子ども達は手癖が悪いし暴力的だ。
日本にだってそうした子ども達はいる。
「闇バイト」や「パパ活」も同様。
やってる事はただの犯罪だが、子どもが「食料」に飢えた結果、犯罪に手を染めるように「金」に飢えた結果、犯罪に手を染めている事で同じ事だ。
それでターゲットにする狙い目は同じ。
「弱そうな人間」「金をもってそうな人間」「間抜けな人間」。
「飢え」によって「創意工夫」が生まれる。
だから「飢え」を「肯定」すれば「立派な大人」になる。
そんな単純な話ではないからそうした「子ども」や「若者」が貧困から抜け出せず、また犯罪を繰り返す。
「昔」の人間が抜け出せたのは「皆」が同じように「飢え」を抱えており、それが「普通」だった。
そして「少数派」の「高学歴」「高収入」といった「普通」という「集団」よりも「外」に「憧れ」を見いだしていたからだ。
「食べ物の飢え」ではなく「豪華な生活への飢え」、あるいは「夢への飢え」である。
「集団」から離れよう、「普通」から離れて「特別」になろう。
「皆」が「飢え」を感じていたから「飢え」のための「創意工夫」を正当化できた。
それこそ「少年法」などがそれだ。
「力を持たない子ども」だから生きる為の創意工夫が「盗む」「奪う」「媚びる」に向いてしまう。
それは「子どもがその手段を選んだ罪」でもあるし、「 子どもを飢えさせた大人の罪」でもある。
だから「罪を軽くして更生させ、大人として立派に生きてほしい」という思いから「少年法」がある。
あった筈だ、本来なら。
だが結局今では「少年法」は「少年の頃なら好き放題できる」 と言ったような都合の良い解釈がされる事もある。
その多くは「盗み」「奪う」「媚びる」の手段で犯罪を犯した子ども達だ。
T塚氏の「子どもを飢えさせる事で創意工夫が自ら起こる」という主張から生まれる「創意工夫」と同じ。
そしてそういう子ども達は再犯率も多い。
そりゃそうだ。
「盗み」「奪う」「媚びる」が一番手っ取り早くて楽だから。
そしてもう一つ、別のT塚氏の主張。
それは「体罰の正当化」だ。
何処かのエッセイで示したような記憶もあるが、自分としては「体罰は悪ではない」とは思っている。
「教育の手段」として「体罰」を行うというのは必ずしも悪い事とは思わない。
そこはT塚氏と共通している。
しかしあくまでも「最終手段」であるべきだ。
結局「体罰」を「違法」、「悪い事」としなければならないのは他でもない「体罰は教育に必要だ」と主張する人間のせいだ。
何故なら「体罰」と「暴力」の違いが分からない人間が自分の暴力を「体罰」として行う。
「虐待」を「教育」として解釈して自分の行動を正当化する人間がいて、そうした人間が「体罰は教育に必要」と主張する人間の中にいる。
勿論、体罰容認派の全ての人間がそうだとは言わないが絶対にそこには存在する。
そしてそうした人間達が実際に過去、そして現在進行系で子供達を害している。
「体罰は悪」としなければならないのは他でもない「体罰容認派」の人間の中にある。
そして「子供に飢えさせる事で創意工夫を自ら行うように仕向けさせる」という「制限による技術の発展」の主張と「体罰の正当化」はそのまま繋がる。
「体罰という手段」を「制限」するという事によって「新しい教育技術の発展」が成されなければならない、ならなかった。
他ならぬT塚ヨットスクール、T塚氏の手によって。
「体罰」というのは昔からある教育の手段であると同時に「最も楽な教育手段」だ。
言ってしまえば動物の調教と同じである。
言葉が通じない動物相手に調教のために「痛み」を教えて芸を仕込む。
代わりに芸を覚えた動物は「飢え」させない。
では「子供を飢えさせる」という主張を「創意工夫」という名目で正当化し、痛みを与える暴力を「体罰」という名目で正当化する事で
そしてもう一つ、別の動画での主張。
「子供は意見を控えろ」という主張だ。
単純に聞けば「子供の人権無視」のように思うがT塚氏の意図を自分なりに解釈すれば「一理ある」。
何故なら例えば「親」と「子供」の関係をそれぞれ「親」→「医者」、「子供」→「患者」の関係に置き換える。
そして「医療の素人」である「患者」が「ネットで調べた知識」「知り合いから聞いた話」「インフルエンサーが主張していた流行りの方法」などを言い出し始めたら、と考えると「煩い、黙って医者の言う事を聞け」と素人の自分でも思う。
ただコレが「一理」でしかないのは「医者」と違って「親」は「親」として「完成」されていないからだ。
まして「大人」として、あるいは「男」「女」としての専門家でもない。
あくまで「自分の人生」の範囲でしか「人間」というものを知らないし、「大人」というもの、「子ども」というものを知らない。
「医者」のように「老若男女」問わず、あるいは「体型」「血液型」「人種」なども問わず、数値化されてデータ化、言語化され、体系化された「医学」にあたるものを学んできたわけではない。
学校の教師だって生徒として成績優秀な奴が優れた教師なわけではない。
スポーツの監督にしても現役時代に大会で優勝経験のある人間が優れた監督になるわけでもない。
会社にしても部下として優秀な人間が上司、あるいは経営者としてそのまま優秀となるわけではない。
勿論、生徒として、選手として、部下として優れていた事実や経験はあった方がいい。
しかし「下の立場の人間としての学問」と「上の立場の人間としての学問」はそもそも違う。
そうやって考えた時、「親」というのは医学の道を目指す医者は医者でも「医学生」、あるいは「研修医」のような存在だ。
知識も技術も判断力も信用できないし、本人自身も「完全である」などと思ってはいけない。
だからこそ「対話」が必要だ。
そもそも「 親子」を「医者と患者」に置き換えて「意見を控えろ」という理屈に「一理」は見いだせても、最終的に「 患者」は「治る事」がゴールではあるから「必要以上は喋るな」という事は言える。
しかし、「子供」のゴールは「大人」になる事か?
それは「親」として、「教育者」のゴールではあるが、「子供」は「大人」になってからが本当のスタートだ。
そうやって考えた場合、「意見を控えろ」は本当に正解か?
機械化、AI化が進めば「作業員」としての役割は取って代わられる。
その時、「自分の意見」が無ければならない。
その「意見」を出すためには子どもの頃から練習が必要であり、「相手に伝える」という訓練のために「子どもは意見を控えろ」ではなく、むしろ「子どもは親と対話しろ」と言わなければならない。
無論、「親」だけではなく、「教師」や部活動の「監督」などの「大人」全般になるが、それでもやはり「親」が一番対話するべきだ。
「理想」としては「無駄な事は言わず、必要な言葉で相手に伝える」という事ができるようになる事ではある。
しかし仮に「意見を控えろ」と言われて必要な事以外言わないようにしていた子どもが大人になり、果たして「自分の意見を言え」と言われてそれがいきなりできるようになるか、と言われればソレは無理な話だと思う、
前回、そして今回で上げた3つの動画から出てきたT塚氏の考えというのは考えれば考えるほど「教師」としての視点で物を語っているように感じる。
実際、T塚氏、そしてT塚ヨットスクールというのは学校であり、教師、あるいは講師だから間違ってはいない。
T塚氏の考えというのは「まともな家庭環境」と「一定以上の能力」と「一定以上の精神力」が「全ての子どもがある」という前提で成り立っている。
社会人として会社で適応障害や鬱になったなどの原因ではなく社会に出る前、学校に在学している者で引きこもりとなる場合はその生徒の7割は家庭が機能不全である。
つまり引きこもりの7割は親のせいだ。
能力にしても親から様々なものを引き継ぐ。
生まれ持った能力も勿論そうだがそれ以外にもある。
イジメっこなどの親は家庭内で100%に近い確率で他人の悪口、見下す発言があり、そうした価値観が子どもにも影響する。
それでも子どもの精神力で何とかなっている場合もある。
だがどこまでいっても子どもだ。
我慢させすぎれば壊れる。
壊れなくとも歪む。
大人でもそうなのだ。
「T塚氏」の意見は「親の教育」の仕方としては問題があるが、「教師」として見た時に割と当然の事を言っているのだ。
「子どもの基本的な躾は家庭で終わっているもの」として考え、そこが大前提としてある上で「集団からはみ出すな」「子どもには飢えを理解する事が必要」「体罰は必要」「子どもは意見を控えろ」としている。
「親が基本的な躾を子どもに施してある」という前提にあるからこそ「子ども」を厳しく躾ける事を何の疑いもなく主張している。
だからこそ大雑把に「教育」として見ると「一理」はあるが「理想論」にしか見えないのである。
「教師」としては「学校で集団生活する上で最低限の基本的躾が施されている子ども」を相手にするつもりなのに、その「子ども」の「躾」のレベルがマチマチ。
「学力」の問題ではなく、「礼儀」の問題。
「学力」は塾だとか家庭教師、あるい問題集でも事前にやらせておけば上がる。
だが「礼儀」はそうではない。
日頃の躾がものを言う。
そして子どもが日頃接していてそれを教えてくれる大人は「親」しかいない、というより「他の大人」にそれを任せてはいけない。
そこを他人に任せたら何のために「親」が存在するのかを考えなければならなくなるから。
T塚氏の主張が「理想論」ではなく「一般論」として考えるのであれば「子ども」に責めるのではなく、「親」の責任を追求する必要がある。
もっと正確に言えば「まともに子どもを躾けられない親の責任追及」をする必要がある。
何故親としての責任を果たせないのか。
「道」ではなく「術」を優先させた「成功者」であるから。
「魂」のない、「志の低い者」だから。
「楽をしたい」から「躾」をしない。
そうした人間がT塚氏の「学校教育」で行うべき教育を「家庭教育」に取り入れて「虐待」を「正当化」する。
そしてその責任は全てT塚氏になすりつける。
それが一番楽で手っ取り早い「家庭教育」だ。




