自称強者の勘違い
ネタ自体は前回の直後ぐらいにSNSを眺めてメモしていた。
しかしこの暑さで結局筆が進まず今更投稿。
人間は誰しも勘違いをする。
所謂「生存者バイアス」というもの。
自分のような弱者は「我慢」によって「生きながらえる事」で「成功体験」を感じてきた。
だから息をするように「我慢」する。
サイコパスは「他人」へ「我慢」をさせる事で「成功体験」を感じる。
だからサイコパスにとって他人の不幸を感じると例え自分に利益がなくても幸福感を得られる。
さて、強者も当然ながらその勘違いをする。
スポーツ選手なんかでは特にそうだが昔ながらの「根性」「精神論」では骨格、関節、内蔵の疾病、精神的な物ならイップスだとか。
また家庭の貧困、親の介護だとか、いくらその選手が有望な選手であっても周囲の環境にはどうにもならない。
「特に努力せずとも生まれ持った才能だけで基礎的な事は何となくこなす事ができる人間」には「基礎的な土台を努力することがスタートの凡人」の気持ちは分からない。
「努力できる環境」に最初からいた人と「努力できる環境を作る努力」をしなければいけなかった人には大きな差がある。
今回、また「弱者男性」絡みの話ではあるがここ最近のSNSのトレンドの流れを追う中で何人かの呟きで
「弱者男性に自分は関わった事がある」
という人達の話があった。
結局のところいつもの「甘ったれ」「自己責任」とか昔からある話の繰り返しだ。
まぁ、エッセイで堂々巡りの自分ではある。
しかしながら自分の堂々巡りと彼ら、強者の繰り返しでは違う事がある。
それは「恥」の置き場所が何処にあるか。
自分のエッセイなんて自分の恥の塊みたいな物。
自分が努力と我慢を履き違えて何もしてこなかったか、とか自分の恥を通した物で語っている。
ところが今回の自称強者達の告げる呟きというのは「他人の恥」をばら撒いているだけである。
「私は敢えて弱者の気持ちに寄り添うために弱者男性と付き合いました。
しかし、自分がいくら弱者男性を肯定しても受け入れても、甘えさせても、発破をかけても弱者男性は行動しようとしませんでした。それどころか別れようとした自分を裏切り者呼ばわりしてきて、弱者男性というのは救いようのない存在だと思いました。」
目についた強者女性の呟き。
他にも似たような強者女性を自称する者の呟き、あるいは強者男性視点からの言葉もあったりしたが、基本的には似たような結論である。
これは確かに弱者男性の事実ではあるけれど強者女性の一方的な訴えでもある。
何故ならあくまで売買の契約の関係であるからだ。
強者女性の
「弱者に寄り添いたいがために弱者男性と付き合いたい」
と言う自分の望みのもと、「急募:弱者男性。報酬は強者女性と付き合える」と言う条件にあった男性と付き合っただけに過ぎない。
言ってしまえば「弱者男性」と言う「支配できる生き物」を買った。
いや、「飼った」わけだ。
ペットと同じだ。
一方で飼われた側の男もその条件を飲んだ。
だから「強者女性」と「弱者男性」と言う上下関係で契約は成立した筈である。
問題は強者女性に「そこから弱者男性を強者男性に仕立て上げる」と言う後出しとも言える欲があったこと。
まぁ、欲がある事自体は別にいいか。
問題はその強者女性には「飼い主」としての責任もない、「パートナー」として歩み寄る気持ちもない、何より弱者男性を理解するつもりで「敢えて」という割に最低限の「信頼関係」を結ぶつもりがない。という事は最初から理解するつもりなどないわけである。
弱者男性の飼い主として強者男性に仕立て上げたいのであれば報酬を釣り上げて命令すれば良い。
今まで100を与えていたなら200を与え、「飼い主」としてサポートはしてやるから強者となれ、と言えばよかった。
もしも弱者男性の何処かに惚れ、自分がパートナーとして歩みたいと考えていたなら歩み寄ればよかった。
何にトラウマを覚え、何につまづき、何をしたいのか。そしてそれを克服するために自分には何ができるのか。
そもそも「弱者」を理解するつもりが本気であったなら「弱者男性」と付き合うなんて周りくどいことをせず、1年くらいひたすら「我慢」すれば良い。
オシャレを我慢すればいい。
美味しい食事、楽しい旅行などを我慢すればいい。
趣味を我慢すればいい。
挑戦する事を我慢すればいい。
その上で金を「散財」するのだ。
1年「我慢」してお金を貯める、なんて事が出来ないから弱者だ。
勿論、それは「ギャンブル」などの依存性などからくる問題、あるいは過去の事件から明らかになったように「親」だとか逆らえない相手に取り上げられていた問題もある。
例にあげた問題は結局のところその「弱者」自身の弱さではある。
依存性はその人自身が先天的に「依存体質」である事もあるが依存性の人間の7割ほどは子供の頃の家庭環境に問題があるとされる。
そして親へ逆らえない、これは自分の事でもあるが親に受け入れて貰えなかった、信頼関係が破綻している中で精神が疲弊してまともに頭が働かない状態だ。
それを最低限20年近く、あるいは自分のように成人しても気づかないままそれ以上やり続けている人は「思った以上」にいる。
中にはそうした状態でも大きなトラブルがなかったために表面上は普通のまま40代、50代と結婚、子供も生まれ、親が高齢化して怒りをぶつける相手が「弱者」となった後に気づいたり、あるいは70、80代となって親が死んでからぶつけようのない怒りを持て余して気づく事もある。
弱者とはそうした怒りが表面化する、気づいてしまうような状態にあるから弱者である。
その怒りとは「我慢」から生まれ、それをたかだか1年程度我慢してみれば弱者の気持ちの一端が分かる。
少なくとも弱者と「敢えて付き合う」などと上から目線の立場にいるより遥かに理解度は高まる。
結局のところはこの「弱者を理解したい」と言う名目で「敢えて弱者と付き合う」という事を選択した時点でそれはもう「自己責任」である。
いくら美人だろうが金持ちだろうがそれだけで他人を意のままに操る権利はない。
「弱者が思い通りに動いてくれなかった」と言う我儘を「弱者には救済してやる価値などない」とすり替えているだけである。
そしてそもそも
「甘やかしてやってる」「肯定してやってる」「発破をかけてやってる」と全て弱者の口答えを許さず自分の気持ちを押し通しているだけである。
やっているのは毒親と同じ。
つまり「弱者を理解するためにあえて弱者と付き合ってやった自分」は考えを改めない限り未来の毒親。
もしも自分の子供が産まれた時、自分の子供が「期待以下」の能力なら同じ事をするだろう。
あるいは「期待以上」でも同じ事か。
「期待以下」なら自分の恥として、「期待以上」なら自分の手柄として。
自分から「甘やかす」と言う行動をとるのと相手の弱音を受け止める「甘えさせる」は別物。
「厳しく躾ける」事と「ひたすら我慢させる」事も別物。
誰のための「敢えて」なのか。
「弱者男性」を通して強者自身の自分の持つ「子供」への考え方が漏れ出る。
「嫌われる覚悟」で子供を厳しく、強く育てるその責任があるか。
「歩み寄る気持ち」で子供の弱さを受け入れ、一緒に成長する意志があるか。
それとも子供を作り「一人前の大人」の称号が欲しいだけか。
「弱者」が人のせいにばかりする未熟者なら、「敢えて」付き合う選択をして、思い通りにコントロールできなかった自称強者は果たして「成熟」しているのか。
そして日本の「成熟した大人」とは誰のことを指すのか。