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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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正論を通した後に残る物

また暑くなってきたねぇ。

ここ暫くずっとSNSのトレンドに「弱者男性」や「フェミニズム」のようなワードがある。

ことの発端は海外の人形を実写化した某映画?それとも日本のアニメ映画の敵役に使われた「弱者男性」が関係しているのか?


まぁ、事の発端はどうでもいいか。

アレコレと弱者男性の問題を挙げ連ねて「弱者男性は害悪か」を競争するように呟いている。

弱者男性代表、ってわけじゃないが自分は自殺するつもりだったし、他にも「自分が末代」という人もいる。

良かったじゃないか、いずれ自分達は種も残さずに死んでいく。

そのくらい我慢しろよ。

弱者がしてきた「一生」という期間の我慢よりも短期間。

弱者が感じていた生きる事への「不快感」は他人事だ。


弱者男性が道連れのように起こす事件、犯罪で人が傷ついたり、死んでしまう事もある。

弱者男性としてそれに心が痛むが、仕方ない。

「弱肉強食」が社会というなら弱者男性如きにやられたやつが悪い。

「男らしさに暴力性は必須」と語るのはソチラ側。


こうやって人のせいにするのが弱者男性たる所以、と言う人もいるだろう。

それは理解できる。

かつての自分もそちら側であり、「全部自分が悪い」と抱え込んだ結果、自殺未遂の後に3分割や他責を肯定してエッセイに書き始めたわけだ。


さて、ここまでボヤキ。

ここから今回のタイトル、「正論を通した後に残る物」だ。


ようはネットの意見の主流は「弱者が足を引っ張る」として世間の皆様は語っているわけだ。

世間で騒がれてる「弱者男性」だとか日本のネットで暴れる一方的な「フェミニズム」とか。

自分を含めてそれらが人間として正しい在り方とは思わない。

思わないがそうした個人、集団は所詮は「少数派」だ。

だからそれが悪であり消されるべきなら将来的に消される。

それで消された後に何が残るのか。

「凄い奴ら」と「普通の奴ら」?

最初こそその区切りだろうけどすぐに「普通の奴ら」から「弱者」が作られる。

それでまた弱者を消して、その時点での「凄い奴ら」「普通の奴ら」を残したあと、また同じ様に切り捨てて?

最終的には「普通の奴ら」も消して「凄い奴ら」だけにしたいのかもしれないがそれってつまり優生思想的な事かい?


弱者男性が消えました、暴れまわるフェミニストが消えました。

踏ん反り返ってセクハラ、パワハラをする老人も消えました。

回転寿司屋で信じられない不良の若者も消えました。

社員を自殺に追い込むブラック企業も消えました。

果たして社会は正常に回るのか。

たかだか「今ある癌」 を消しただけで上手く回るわけがない。

根本的な事を考えない限り、いくらでも問題は湧いてくる。


正論はマニュアル。

誰にでも口に出せる。

マニュアル通りとは「成功例」であり、「普通」ではない。

田舎では移動手段として車は必須だが、交通手段が整った都会では重要性は落ちる。

女には生理があるが男にはない。そして同じ女の中ではキツイ者もいれば軽い者もいる。

低身長で悩む苦悩は200cmオーバーの高身長で悩む人間には分からないがその逆もしかり。


「弱者男性」も「フェミニスト」も、あるいは「LGBT」やら「少子高齢化」に「地球温暖化」。

考えるべき事はいくらでもある。

けれど「自分には関係ない」「弱者が悪い」と問題そのものに見て見ぬふりをしていった結果の一つが田舎である。

地方、時期的には祭りか。

今年、青森県のねぶた祭りではスタッフへの暴力事件が問題となった。

徳島県の阿波踊りも以前から問題があった。

結局のところ「自分達が良ければ良い」という考えが地元の権力者の根幹にあったから起きた問題であり、その権力者からすれば弱者など何をしてもいい存在でしかなかったのだろう。

そしてそうした地元に嫌気が差して上京して強者の立場になった人間達が今度は同じ様に「田舎」「学歴」「年収」「見た目」、そうした物で他人を馬鹿にする。


「日本全国から地元で権力者になれなかった弱者達が集った都会」

だからこそ多くの問題が別の地域や価値観、手法で解決していき発展した。

そして地元じゃ強者ではいられなかったという「過去」の現実を無視して「現在」の力ある自分を「本当の自分」と考えるから「未来」に待ち構える弱い自分を受け入れられない。


「男らしさとは女の性質を持つこと」「女らしさとは男の性質を持つこと」

エッセイを書き始めた初期の頃から考えは変わっていない。

今、「男女平等を正当化したら女がつけ上がった。やはり女は家に縛り付けておく必要があった」

「男女平等の結果、男はナヨナヨした。それを恥とも思わない。なんて情けない」

と過去の日本の社会に戻そうというような主張も聞こえる。

つまり「現在の自分達が悪い」とは一つも頭の中にない。

政治家のせい、制度のせい、環境のせい、過去の誰かのせい。

そうした「誰かのせい」と考える事自体は自分は「悪い」とは思わない。

「悪い」と思う部分は救いを求める他人に自己責任を叩きつけておきながら自分の責任を他人に背負わせる事。


「自分は普通」「間違っていない」「自分は価値がある」

だから「弱者のような価値の低い人間より価値の高い自分を助けろ」

だから「間違っている相手には石を投げつけてもいい」


貴方の兄弟が、子供が、友人が、身内があるいは自分自身が「弱者」になったとき。

ただ「稼いだ金」「過去の威光」「弱者を支配する事」に縋る事しか日本の「多数派」に未来を生きる術が他にないなら。

それはもう「今の自分達」が間違いだと認める事が「強さ」と考えを改める必要性は感じてもらえないだろうか。

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