シーソー
暑い。
日本の「上流階級」、金持ちだとか政治家だとか。
そうした者達の一般国民を無視するような不祥事が後をたたない。
まぁ、そんな事を言っても今更でそれに文句をつければ「自己責任」の言葉が返ってくる。
犯罪の被害者には「抵抗しなかったお前が悪い」
ブラック企業で精神を病んだ者には「転職しなかったお前が悪い」
アダルトチルドレン、引きこもりといった者には「努力しなかったお前が悪い」
そうやって語る「一般国民」がいざ自分の番となると自分のような底辺が足を引っ張るから、無茶苦茶な政治や規則やルールが悪いと「上」と「下」のせいにする。
そして「正直者が馬鹿を見る社会は間違っている」と訴える。
毎日のようにそうした「上」と「下」を非難したり馬鹿にする話はネットなどを見れば出てくる。
自分は以前から現代日本において「中流」、「多数派」、「陽キャラ」が問題だと思っている。
それは「底辺」ゆえの、「少数派」ゆえの、そして「陰キャ」ゆえの僻みが混じっている事は否定出来ない。
そしてだからこそ「中流」も「上流」も自分から見ると「上」であり、自分からすると「上流」の人間が起こしているテレビなどでも取り上げられる大きな事件や問題と「中流」の人間が起こしている小さな事件も変わらないように感じる。
何が言いたいのかといえば「中流」の人間が仮に「上流」に行けた時、同じ事をするんじゃないかな、と思う。
というより、そうした「上流」に見合わない本来なら「中流」程度の人間が経済的に「上流」と同じような状況になっているのだと思う。
「努力」、「夢」、「自己実現」。
アメリカンな、あるいは欧米風の価値観が入ってきた事で正当化される価値観であり、現代ではそれらを満たしていれば全て正当化されるように思える。
流石に「全て」は言い過ぎか。
だが「努力」して「夢」を「自己実現」してそれが認められればある程度の問題は見なかった事にされるように思える。
逆に言えばそうした「自分の抱える問題に目を瞑って貰える」ためにそうした努力、夢、自己実現を掲げていても自分自身以外には中々見分けがつかない。
努力と対になるのが我慢なら。
夢と対になるのが責任なら。
自己実現と対になるのは手助け。
この正当化で掲げられる物が「成長」の本質であり、対となる事こそ「教育」の本質ではないか、と自分は思う。
結局、全て自分に返ってくる言葉ではあるが
我慢していたから努力出来なくなった。
責任ばかり言われるから夢がない。
「長男」「男なんだから」と言われて時に親のため、妹のため、女のため。つまりは他人のため、他人を助けるために自己を表現することなどしてこなかった。
結局のところ日本の国民の多くが生きづらいという本質は「他人を助けるために責任を負い、我慢するべき立場」の人間が「自分のために夢を語り、努力を正当化」してきたというのが問題である。
その立場が会社の上司部下、先輩後輩、家庭の親と子。
だがその更に外側、社会が不安定で高齢化が進む。
上司が、先輩が、親が責任を負わない、我慢しない、他人を助けない。
だから部下が、後輩が、子供がそれをしなければならない。
そして立場がスライドした時、今度は自分が責任から逃れ、我慢から解き放たれ、自分のために動く。
「今まで我慢してきた、今度は自分が」という話である。
対等な関係である夫婦関係、男女関係でも結局コレが発生している。
「妻である自分が何故夫を教育しなくちゃいけないのか」なんてのは典型的な例である。
「男として我慢してきた」「息子として我慢してきた」から「夫として我慢から解き放たれたい」。
しかしそれは妻からすれば知らんこっちゃない。
何故なら「父親」から甘やかされた娘が「女となって我慢する事が増えた」
だから女の方も「妻になったから我慢から解き放たれる」。
両方が「我慢」からの解放を望むからうまくいかない、だから結果として矛先は子供に向かう。
「息子は王子様に」「娘はお姫様に」
何故ならいずれ「年老いた自分が楽出来るように」。
そうやって子供が我慢する結果、前話でしたように子供の中で「挑戦する自分」「安定させる自分」に分かれやすくなり、片方が磨耗する。
結果としてどこぞの回転寿司騒ぎのように歯止めをかける事ができなくなったり、逆に引きこもりが発生する。
結局、立場毎の為すべきことが為されない状況が「国民」の中でされない場合、いずれ国がその権利と責任、自由を奪う。
子供は親の財布から遊ぶための金を盗む。
それが全員が経験している事なのかどうかは分からない。
悪い事ではあるがそれは「普通」の範囲らしい。
しかしそれはドンドン高齢化しているとの事。
40年、50年前なら小学生の子供が。
30年前なら中学生、20年前なら高校生、そして大学生、社会人。
小学生が引き抜く額など数百円だが中学生なら数千円、高校生なら1万円、大学生なら数万円、社会人なら物を盗む。
子供を「支配」して「我慢」させるからそれから解き放たれた時、我慢した分だけカウンターは強く極まる。
何話か前に「厳しく躾ける」事よりも「信頼関係」を作る事が必要と語ったが結局の所、ただ単に強く支配するだけの躾など子供を成長させるための借金の支払い遅らせるだけである。
そして遅らせる程に利子が増える。
だから「解放」と「我慢」は適切に行う必要があり、そこには子供を見守る事で生まれる信頼関係と余裕が無ければならない。
その支払い方法が「家庭内」のいわは「自己流」が許されていた。
だが自己流では最早日本では許されない。
何度か語っているが「引きこもり」は7割が家庭環境に問題がある。
そうした家庭の親は「自分達に限ってそんな事は」と残りの3割であると主張する。
それだけ「普通の家庭」と社会的に見下されている底辺を作り出す家庭環境は大差がない。
皆自分達は「普通」だと考えている。
それに沿って成長しない人間、弱者となる子供が悪いと。
だから「世の中運が全て」という極論が一定数支持される。
「運」は残酷である。
肉食動物はどれほど慎重になろうとも「運」に左右される。
だから徹底的に親子の中で愛を通わせる。
狩りのやり方を教え込む時まで時間を惜しむようにべったりである。
「弱肉強食」を掲げるなら人間は肉食動物を見習う必要がある。
だがそれが出来ないのが現代社会。
だから草食動物のように集団で外敵から弱者の子供を守る必要がある。
そして、それも出来ないなら寄生生物として、大きな生物に相当するものに所属して宿主に守られ、宿主に奉仕するしかなくなる。
それが会社や家庭などであったがそれが国となる。
寄生生物はネガティブなイメージが付き纏うが世界のバランスを考えた時、居なければそれはそれで問題である。
しかし寄生生物だけでは成り立たない。
それは同時に肉食動物だけでも草食動物動物だけでも成り立たない。
様々な動植物が存在して成り立ち、それが「普通」である。
そして地球外の「太陽」も同じ。昼と夜が無ければならない。
スケールのデカい話にはなったが突き詰めれば「バランスを考える」というシンプルな話でしかない。
シーソーに乗っても1人じゃ動かない。
そして2人で遊ぶなら重い方が加減しなければ遊びにならない。
重い方が「自分は動きたくない」と駄々をこねても1人と変わらない。
それならお互いにシーソーなんてやる意味がない。
シーソーが廃れるなら「重い方」が動かないから。
「軽い」と楽しい。
だから「重い」方は軽い方の楽しさとは別の楽しさを見つけなければならない。
それは他人や物に価値を見出す「陰キャ」や「オタク」と近い物がある。
当初は某「中古車販売店」のニュースの話も絡めた物を書いていたけど最近の暑さにやられて一気に書ききれず、途中まで書いて中断。そして翌日みたら「何か違う」「何書くつもりだったっけ」というのを数日繰り返してこんな風になった。
多分、当初の意図とは違うのだろうけど次に進めないからとりあえず投稿。