人間関係の関節
個人、集団、環境。
自分はヘラったり敢えて意図したりしなければこれまで3分割でエッセイを考えてきたし、書いてきた。
その中で人が変わる、挑戦するには「内側」と「外側」の安定が必要である。
学校や仕事、「外側」でトラブルが発生しても家庭だとか会社の仲間のサポート、「内側」が安定していれば自分も安心して動ける。
逆を言えば「外側」と「自分」の間に挟まる「内側」の人間関係にそもそも問題が有れば「自分」は動けなくなる。
鬱になったり、引き篭もったり、あるいは犯罪やギャンブルなどの依存性になったりするのは勿論「自分自身」に問題がある。
そしてそこに問題が放置されたままの「環境」も問題である。
だからその間に挟まる部分、「関節」に当たるところが見過ごされる。
そして6割〜7割の確率でここに「問題」がなければ何とかなる。
引き篭もりや鬱は外側の定義に本来「内側」の存在がスライドする。
だから自分自身とそれ以外となる。
しかしそれだけなら基本的にはサイコパス、獣と同じ事。
弱肉強食、弱い奴が悪い。
しかしそう割り切れないから「自分自身」を分ける。
「前進」と「安定」の2つの自分に分裂する。
そして外部からの「前に進め」の圧が強すぎれば「前進」の自分が動けない自分を責め立てて疲弊する。
逆に外部からの「我慢しろ」の圧が強すぎると「安定」を取るために自分の動きを自分で阻害する。
人体の間接にしても人間関係での関節でも言ってしまえば「消耗品」である。
どれだけトレーニングしても筋肉、そして骨も強くなることはあっても関節部分だけはただ摩耗していくだけ。
それでもトレーニングをするのが良いとされるのは強くなった骨や筋肉、そしてその操作方法の練度が高まる事で関節への負荷を軽減出来るから。
そして関節が歪むのは長い時間をかけて歪む。
瞬間的に強い負荷をかけてもはねのける力はある。
しかし、慢性的に負荷をかけ続ければどんどん歪む。
「昔は大らかな時代」「近所の大人が皆で子供を育てた」
と黄昏る老人の言葉。
田舎のラジオ番組やテレビ番組でレトロな時代を懐かしむ時にそうした時代に子供だった人が語る台詞として定番の言葉だ。
コレは逆に考えると「外側」が「安定」しているから家庭、「内側」が多少問題があっても子供の成長に影響が生まれ難かったという話となる。
じゃあ今は?と言うと「外側」が安定しているとはとても言えない。
「内側が安定していなくても外側のおかけで何となく育っていけた世代」が「大人」として存在しているから。
特に高齢者の多い田舎はそうだ。
「外側」が安定していない事に目を向けない。
そして「内側の安定性も重要視しない」。
コレはつまり親として「内側」として子供の人間関係の「関節」となり、
そして誰かにとっての「外側」であるという意識がないからだ。
内も外もない、それは自分の視点から見えるもの、聞こえるものが全てとなり、見えないもの、聞こえないものを無いものとする。
先日もSNSのトレンド入りしていた「弱者男性」だが文字でコレだけ羅列されていても「無」とされる。
だから「無敵の人」が生まれる。
そして事件が起きた時「誰でも良かった」という言葉と明らかに子供や女、老人など「自分より弱い相手」を狙う「ターゲット」を選ぶ矛盾。
今回の理屈でいけば結局のところ「誰でも」というのは「関節」なのだ。
自分の存在を動かすための「関節」。
やり返される相手では動けない。
だからそうした相手には武器を用意する、毒を使う。策を要する。
聞いても教えてくれない。
対価を払っても持ち逃げされる。
媚びても更に要求される。
それが弱者男性が挑もうとしている「男社会」なら、同じ事をするしかない。
事の大きさは関係なく、「強者」からやられてきた事、それを真似ただけである。
今までは「弱い自分」が誰かの「関節」だった。
擦り減って、何もない。
他人に大切にされた経験がないから他人を大切にもできない。
弱者と言われる自分が基準だから強者の他人がそれを出来ないわけがない。
「やれば出来る」
と言われて苦痛を耐えてきた。
そのくらい、他人様も耐えれる筈。
女の生理の話でその苦痛を男にも理解しろと主張する人がいる。
そのカウンターで男の社会の苦しみを理解しろと主張する人がいる。
男と女の主張の争いの゙脇で子供が泣いている。
誰に手を差し伸べるか。そして誰が手を差し伸べるべきか。
関節は固いが柔らかい。