表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
何か書きたい。  作者: 冬の老人
193/352

キツい躾の前に。

やっとなんとか書ける状態になった。

ネタとしては数日前に見かけた呟きのネタではあるがどうしても書いておきたい話でもあった。


疲労しないためにエッセイだけじゃなくネットそのものもあまり触れないように最近していたが季節柄、子供達の水難事故がニュースになったりする。


そうした水難事故絡みについて親の躾が甘っちょろい、と怒り心頭な人の呟きを目にした。

そうした危険な物や場所へ親の言う事、ひいては大人の言う事に従わせるように日頃からキツくしつけないとダメだ、とのこと。

理屈は分かる。実際、危険な場所、触れてはいけない物について子ども自身の身を守る意味でもそうしたキツく躾るべきポイントは必要な事である。


しかし「キツくすれば良い」が教育全てに当てはめるとまともな大人に成長するか、といえばそうではない。

「無敵の人」系の事件の加害者達は必ずしも「甘やかされた」からそうなったわけではない、それどころかむしろ「徹底した躾」による教育によって生み出された者もいる。

それについては呟いた本人も「メリハリのある教育」としていたが実際は「キツい躾の教育」や「甘やかす教育」よりもそこが一番難しい。


この「メリハリのある教育」を「親なら皆できる筈」という前提で「もっとキツい躾を」と言っているのだろう。

だが例え親でも出来ないものは出来ない。

何故なら「親になれば辛さがわかる」「大人になればわかる」「成長すればわかる」という経験論を下地にした家庭での教育は少なくない。

「考える」よりも「やってみた方が早い」という実践重視、と言えば格好はいいもののようは「考えて言語化する」事から逃げた者達が周りから言われるがままに「結婚」「子作り」をしてきた。

勿論、「考えて言語化」した「教訓」を交えた教育が出来る親もいるが難しい。

何度も同じ事をしなければならないからだ。


子供の成長に合わせて、子供の理解力に合わせた言語で「実践」と「教訓」を織り交ぜて徐々にレベルを上げていかなければならない。

幼稚園児に犬なら「ワンワン」、猫なら「ニャーニャー」、車なら「ブーブー」と伝える。

しかし小学、中学、高校と年齢が上がるにつれて言語もより明確に、詳細な物にならなければならない。

そのためには子供の理解度を観察しなければならないし、理解していないようなら理解するまでレベルを合わせて下げたり、違うやり方を模索する必要が親にはある。

しかしそれを「やってみなくちゃわからない」と急かす。


それこそ自分の経験論にはなるがこのタイプの「手間を惜しむ」親は子供が挑戦したり理解するのを待たない。

子供が物事に対して0から1人で挑戦したり、理解するのは非常に時間がかかる。

失敗したり、成功しても何故成功出来たのか分からなかったり、そもそも興味を持たなかったり。

そういうのをサポートするのが親の役目と教育の意味であるがそれをしない、というのは「最後まで自力でやるのを見守る覚悟」で行う「敢えて手を出さない」場合。

もしくは「面倒だから教えない」のどちらか。


「キツく躾をする」という事を正解とするのであれば子供の能力や理解度を親が把握した上で親が子供に理解できるように「言語化」しなければならない。

言語化をせずにキツく締め付けるだけの行為を教育とするのなは子供が水辺で溺れているのをみて「やってみなくちゃ分からない」と死に覚えさせる必要がある。

高難度の「死にゲー」「覚えゲー」とされるものと同じ。

「やって見なくちゃわからない」を「教訓の言語化」の逃げ道にする、言い訳に変えるなら終着点は「死に覚え」となる。

それで子供が死ぬなら子供の能力不足、「親の責任」ではない、と言い訳したいのかもしれないが残念ながら日本ではそいはいかない。

だからこそ「メリハリのある教育」が必要なのだがそのためには日頃から「教訓の言語化」が必要となる。


堂々巡りになるが言語化については子供を観察し、子供の能力を考えた上で言葉に落とし込む必要がある。

専門用語や難しい言葉でいくら説明したところで子供に理解されなければ意味がない。

そのためにはコミュニケーションを日常的に親子間で取る必要がある。

そこで親は子供の能力を把握できる。

一方で子供は親とコミュニケーションを取る事で信頼関係を構築できる。

「親が自分を見てくれている」「親が自分に関心を向けてくれている」「親を信じて行動してみよう」


「どんな事を言っているか」よりも「誰が言っているか」で感情が変わる。

コレは最近では同じ事を言っても男が言うか、女が言うか。

あるいは金持ちが言うか、貧乏人が言うかで受け手の感じる事が違うと言う事、つまり「説得力」が異なる。


普段から「やって見なくちゃ分からない」と言うばかりで何も具体的なことを言語化して教えてくれない親の言う事など聞く必要性が薄い。

それが子供自身の命の危険に繋がる事だとしても。

逆に言えば最初からその辺にちゃんと信頼関係がある親子関係であるのであれば危険そのものに子供が踏み込む可能性そのものが低下する。


「キツい躾」で正解ではない。

親の「キツい躾」を子供が信じる事ができて受け入れる「信頼関係」を作る事こそが正解である。

そしてその信頼関係を作るには前話で語った「10〜15cm、15〜20kg」の差、子供が精神的、そして肉体的に男女ともに弱者である「10〜11歳程度」まで。

人生100年時代と言われる中で10年程度を「子供」との信頼関係構築のために尽くせない人間が親になるべきでは無い。

そして親になるべく大人となる。

しかしながらもう既に「大人になったら結婚」「結婚したら子供」。

そしてそれが「普通」。だから「結婚する」。

そして「立場が人を作る」と言う言葉に乗せられて「親だから子供を支配できる」と勘違いした人間が子供とともに作り上げる「信頼関係」の工程を無視する。


体罰などもこの令和でも肯定する人間が一定数いる。

それ自体はその人達がそれで成功した体験などがあるかもしれないし、実際「痛み」や「苦しみ」などを通して人は学ぶ。

しかしそこに信頼関係が無ければただの暴力。ただのイジメ。ただのハラスメント。

そしてその信頼関係には「愛」と「情け」が必要。

「親子」だからその信頼関係が無条件で発生する、と思っているのはその人間が子供の頃に無条件で信じる事が出来る、と親に甘えさせて貰ったから。


どれほど親を信じたくとも親から突き放され、馬鹿にされ、笑われて心の底から信じられなくなった者もいる。

そうした心の闇、あるいは陰。

そこに目を向けられない者が親になった時、子供の心に寄り添えるか、信頼関係を構築できるか。


日本の結婚率、そして出生率の低下はフェミニズムや海外からの多様性などの影響もあるだろう。

しかし根本的な問題として「親子間の信頼関係の構築」がそうした多様性などによって「まともに成されていない」事が曝け出されただけ。

既に曝け出されたこの「信頼関係の構築」から目を背けている限りどうにもならない。

「躾」をキツくするか甘くするか。そんな事を悩む以前の問題だ、と自分は思った。


久々に書いたのと少し熱が入って長文になったが、まぁ自分のエッセイなんてこんなものだろう。

にしても本当に最近暑い。

水分と休憩を充分にとって。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ