全力と本気
前話の補足、というか、言い訳みたいにはなるが敢えて力を注ぐ事を「本気」で統一して語った。
ただ物事に対して「本気」で取り組む事と「全力」で取り組むのは若干ニュアンスが異なる。
ゲーム、RPGで例えるなら「本気」というのがボスに対してレベル上げをした上で攻略法を生み出し、様々な準備を行い挑むという事。
一方、「全力」というのは希少なアイテムだとかボス戦後の帰りの道中など、後のことは何も考えずに戦う事。
「80点」の理屈で語るとするなら「本気」が80点。「全力」とは100点、そして前話で自分が主張した「本気になる必要はない」は60点、という風に分類できる。
そして自分はこれまで「80点を目指すべき」とは語ってきた手前、80点に相当する「本気」ではなく「60点」に相当する「本気になる必要はない」を推奨するのは矛盾してはいる。
しかし、最近「疲労」についても語ってきた。
その上で考えれば結局、80点を目指すというのは理想だ。
「丁度いい」というのは難しい。
人間の思考に偏りがあるように、身体にも利き手や利き足があるように左右の身体の操作の練度すら異なる。
80点を目指す、というのはそれらのバランスをとって均等にする事。
「本気」を目指せばいずれ行き過ぎて「全力」になる。
「全力」は疲労する。
疲労すれば雑になる、視野窮鼠にも陥りやすくなる。
自分自身を含めて人のことを考えられなくなる。
「何もやる気がない、やる気がないから嫌嫌やる。」
それでも「本気」でやる。
勿論、やる気がない、嫌嫌やるから「本気」だけでは足りない。
だから尚の事「全力」でやってしまう。
その全力を正義である、と少なくとも自分は幼少期から刷り込まれてきた。
日本人の美意識からすれば程度に差こそあれどそれは割とある事なのではないか。
結局のところ、人間なんて自分の力だけで完全に自分をコントロールするのなんて精神的にも、肉体的にも難しい。
サイコパスの能力は高い、というのは先天的に、あるいは教育によって後天的に自分第一にして「配慮」や「気遣い」などを「弱肉強食」を基準にして「不要な物」と切り捨てる事によって「本気」を維持し続ける事、そして貯蓄してきた「全力」を機を見て投入出来る事。
エッセイでサイコパスを非難してきた自分にとって割と心苦しい主張になるが「本気になる必要はない」とはつまり他人への配慮を切り捨てる「サイコパスになれ」といっているのも同義だ。
だがたとえ同義だとしても自分は「サイコパスにならないで欲しい」と主張したい。
そうした他者に対して配慮や気遣いのないサイコパスになるのはあくまで一時的、「無気力なのに全力」という時だけであるべきだ。
真の意味で「全力」が出来る体力が貯まったら、また「本気」で当たればいい。
生きていれば他人から迷惑をかけられる、そして自分もまた他人へ迷惑をかける。
「全力」⇔「本気」⇔「無気力」
この3つの間を行ったり来たりして生きていく。
そして無気力状態から回復するには「休息」が必要だ。
極めて普通の事だが「休息」する事が悪く見られる。
「皆我慢して頑張っている」
とは他人は語る。
肉体的に疲れているのにそんな風に言われたら更に精神的に疲れてしまう。
そして「皆我慢して頑張っている」という同じ過程を進むのであれば皆同様の報酬が与えられるべき。
しかし実際は貢献してきた年数だとか能力、成果で報酬は異なる。
それは話が違う、と言えば
「そんなの当たり前」
「弱い奴、無能な奴が悪い」
「自己責任」
そうした話も分かる。
だから「休憩」を「自分の選択」でする。
「無気力でも全力」
矛盾しているようで成り立つこのスタイル。
やり続けても
・コストに見合った成果は得られない。
・身に着くのは「見た目だけ全力を寄り添う」能力
・達成感もなければ手応えもなし。喪失感と虚無感しか生まれない。
だからこそ自分の「気持ち」を知る。
「無気力なら最低限の成果で」
「本気なら本気でコスパを重視した成果を」
「全力ならコスパ度外視、ただ突き進む」
そのためには疲労を知らなければならない。
全力が日本社会で愛されるなら「無気力の在り方」に目を向ける必要性がある。
100点と0点ではない。
あくまで
「無気力なりには無気力なりの力」を身につける。
「下限」の力を上げる事。
また過去のエッセイの堂々巡りになるが、結局自分の主張したいのはそこになる。
200話近くきてるのに何度も同じ結論を擦ってる。
自分の事ながら他に言う事ないのか、と思うがそれでもそれが書きたい事の根っこにある事なんだから仕方ない。