「ソレは本気じゃないからです」
暑いね、しかし。
畑の生育が進みがちで今年の夏は休みが少なそうだ。
自殺する、しない、したけど失敗した、そんな勇気ない。
まぁ、自殺に限らずだけどこうした色々な話において「成功」以外の時に外野の「それは貴方が本気じゃないから」という言葉ほど萎える言葉はない。
そういえば元メジャーリーガーの有名選手がこんな事を言っていた、というのをネットでみた。
「自分は死ぬ気で努力した選手でプロに成れなかった人は見た事はない」
割と無茶苦茶な理屈ではある。
勿論、体格で劣る者が努力でプロになった、という美談はよく聞く。
しかし、それでも死ぬ気で努力したとしても成れない奴は成れない。
仮に才能に劣る者が死ぬ気になった所でどれほどの時間や労力、金がかかるのか。
支援する人、例えば親族などがいたとしても「名目上」プロになれたとして一軍の試合にでない者を誰がプロと認めるか。
他人は勿論、支援した人間、何より努力を続けてきた自分が認めない。
また野球繋がりだが、あるお笑い番組で野球の上手い身長180cmオーバーで高校球児だった現役時代では150キロの球を投げる30歳前後の芸人が先輩芸人で運動は苦手、身長も平均以下、年齢も40代、あるいは50代の人に
「先輩も頑張れば140キロ投げられます」
と番組内で言った。
それは結局ネタなのか、本気なのかは分からないがウケていた空気だったのでそれは芸人としては良かったのだろう。
しかし、仮にその先輩、運動能力も体格も平均以下で年齢もかなり上という存在が140キロを投げる事が出来るようになるには当に死ぬ気で野球のトレーニングをする以外にも基礎的な体力作りからストレッチ、若くもないからケアも非常に重要であり結局そうなると仕事を止めなければならない。
正直なところ「現実味」がない事を提案している上にリターンも少ない。
流石にその40代、50代の芸人を例にすると極端ではあるが何かの分野において「強み」がない人間が「本気」になる事自体がリスクとリターンの天秤をかける事になる。
「本気になりさえすれば」は結局のところ「自分が出来たから他人もできる」という自分から見える世界、「陽の光が照らす世界」から判断している「陽キャ」の性質と問題だ。
勿論、だからといってそれを盾にして何もしないのはただの「言い訳」でしかない。
だが考えるべきは
「本気になってもいいかどうか、と天秤にかける人間」
は決して悪ではないという事。
「どんな事にも全力で」
と聞こえはいいがそれをやれば疲弊して最悪死ぬ。
自殺に失敗した時、当然「自分は死ぬのに本気じゃなかったのか」と自問した。
しかし自殺が本気だっかどうか答えが出る前に一つは分かった。
「生きるのに本気じゃなかった」
それだけは明確に分かったし、それが自分の自己責任でもある。
いつも人の目を気にして、気を使って、そして気を揉んでいた。
勿論今も自殺する事を考えるのは日常茶飯事だ。
真剣に、真面目に、あるいは本気で「生きている」とはどう言い繕っても言えない。
しかし
「それでも生きている」
本気でも、適当でも「生き物」である以上、「生き物」としての本能や社会の常識に縛られる。
その中で天秤にかけ続けた。
人の失敗、あるいは踏みとどまる様を「本気じゃない」と評価するな、とは言わない。
しかし評価する立場の人間なら「陽の光が差す世界」、「目に見えるもの」「結果」だけを見て短絡的には判断はしないでほしい。
自殺なんて本気にならずとも衝動的にやりきる奴もいれば準備万端でも最後の最後に思いとどまったり、外的要因で失敗する奴もいる。
生きてる奴だってそうだ。
人に助けられて上手いこと生きてる凡人もいる。
他人を背負わされてハンデの中生きる才能に溢れた者もいる。
「本気」になるのは「天秤」にかけた物だけ。
他人の目を気にして、そして他人に気を使って、そして他人のために「本気」になって疲弊した自分は自殺を天秤にかけようとした。
本気になるのは自分の為。
なら、本気かどうかは自分にしか分からない。
ネットに書き殴った少ない情報量の呟き程度で「本気」か判断する事など普通の人間に不可能だ。
もしそれで本気かどうか分かるならネットの呟きなどみずに然るべき場所でその特技を活かして生きて欲しい。
結局、自分はあの時、「本気」だったかどうか、考えるには時間が経ちすぎた。
「本気だった」という思いはある。
「それでも生きている」という事実がある。
じゃあ「本気だったけど失敗した」という答えがあってもいいじゃないか。
自殺をネタにポジティブな話に持っていくのはどうかと思うが
「本気」の自分と「失敗」したという事実。
その過程には「足りない物」や「障害となる物」があった筈だ。
改善点、改良点、あるいはそれこそが「教訓」
「成功したら本気」「失敗したから本気じゃなかった」
そんなスタートとゴールか直結した両極端な答えを他人が投げつけてはいけない。
その言葉で人は自分をさらに責める。
助けを求められずにさらに心は内側を向く。
「本気」じゃなくても「生きている」者が圧倒的多数派だ。
それが「普通」だと言うなら「本気」かどうか、それを天秤にかけた人、かけれる人は一つの経験、一つの考え方、教訓を得た。
「本気」じゃなくても「恥」ではない。
黙って自分の心の音に耳を済ませてその教訓を言語化すればそれはいつか自分の、あるいは誰かの役に立つ。
役に経たなくてもそこからさらに思考を発展させれば見えるものも変わってくる。