疲弊すると碌でもない選択肢しか見えてこない。
最近、某タレントが自殺した。
・男なのに女性ホルモンを入れたからホルモンバランスが崩れて自殺した。
・父親としての責任から逃れるために自殺した。
・誹謗中傷に耐えかねて自殺した。
と、色々な憶測が飛ぶ。
どれもコレもタレントとしての画面を通してみるだけの情報から考える偏見、レッテルからスタートした憶測だ。
自殺未遂をした人間から言えば「やりきった」事に対して僅かな羨望がある。
と、同時にアダルトチルドレンである自分が、このエッセイでも何度も語ってきた「親」「大人」の責任を放棄したのは個人的な感情を含めてその「やりきった」事を認める事はできない。
その一方で多様性を考えると彼の生き方、在り方を考えていくと彼もまた「疲弊」して頭が回らなくなっていた、のだと同情はする。
中々自分としても複雑な思いはあるが総合的には「お疲れさん」という気持ちである。
さて、そもそも「親」「大人」の責任と言ったが自分は責めるつもりはない。
そもそも当のパートナーとしていた女のタレントとは法律上は離婚しているわけだから養育費などをちゃんと支払ってさえいれば問題はなかった筈だし、それについては実際問題なかった額は支払っていただろう。
何が問題なのか、と言えばそのパートナーとしていた女性タレントとはもうパートナーとしては成立していなかったのにパートナーとして成立させようと彼が無理をしていた、のだと思う。
あくまで自分の偏見ではあるけど。
自殺の一因とされる女性ホルモンの投与、それをするくらいに自分の性的な自認が曖昧だった。
しかし社会的には性別は確かに意味があるが自己を考える上で性別にそこまで意味はない、と個人的に思う。
そこまでその性別で生きた以上、「本当の性別」をいくら探しても違う性別の自分などあり得ない。
実際、古くは「オカマ」「オナベ」といった蔑称や「ボーイッシュ」「オネエ系」などの人間達は見た目や精神が必ずしも性別に見合う物に適したものとは言えなくともそれを受け入れて完全に性転換などしなくても生きている。
何故自分の性別に拘るか、と言えば社会から、あるいは他者から性的役割を押し付けられて来たからに他ならない。
そしてその役割を我慢してきたからこそ「性別」に拘りを持ち、「違う性別の自分」に「本当の自分」がいると判断する。
自分も過去にそういう「本当の自分」が「異なる性別」ではないか、あるいは性的志向について考える時期があった。
しかし自分個人は別に男であることに不満はない。
ただ、「農家の長男」や「男子だから我慢」そうした外からの押し付けられた物を自分は我慢してきた。
「そんな事を言ったら女だって苦しんでいる」
と反論が来そうだがそりゃそうだ。「個人差」がある。
男である事を楽しむ男がいる。
女である事を楽しむ女がいる。
そこに至るには「子供として受け入れられて大人になった自分」がいる事が必要だ。
そこには「男」でも「女」でもない「子供」と言う性がある。
そこを強引に男性器があるから「男の大人」として、男性器がないから「女の大人」として扱うから面倒になる。
前に何度かエッセイでも語ってきたが「人生40年」の時代では6歳程度になれば長男、その予備である次男以外は奉公へ出される可能性が高くなる。
言うなれば「6歳」から大人である。
しかし現代でそれをやったら親は育児放棄と見なされる。
人生100年時代、最低限「18歳」までは未成年、というこの時代に早くから性別の区切りをつけた「大人」として扱えば40歳までしか生きられない人間となっても不思議ではない。
自殺した件のタレントは沖縄出身らしい。
そのパートナーである人は大阪出身だ。
沖縄、といえば「田舎」、どう言い繕って「地方」だ。
そして大阪は「都会」だ。
彼、彼女が「現在」を通していくら「パートナー」であろうとしてもそこには大きな差がある。
ましてや純正の「女」と「女になりたい男」だ。
あくまでレッテル張りにはなるが子供を得た時点でパートナーとしてはもう方向性が異なっていたのだろうと思う。
「女になりたい」、そして「女同士」を求める男。
一方で「女として男」を求めた過去はあっても「男より父親」である事を求めた「母親」。
仮に自殺せずとも、そして女性ホルモンだけではなく手術をして「女」になったとしてもそこには「女」と「母親」の立場の歪なパートナーが出来上がる。
両方が「女」、あるいは両方とも「母親」ならパートナー足り得たがそうではなかった。
田舎と言う「性役割」を求める傾向の高い環境で違和感を覚えたまま幼少期を過ごし、都会で成功し、パートナーも得た。
あとは何が欲しい?
「過去の清算」
幼少期の違和感、我慢。
それをバネに頑張った、といえば聞こえはいいが彼の足元には失敗した者の骸が大勢ある。
それを越えてきた。
超えたからにはやり切る責任感を覚える。
幼少期に植え付けられた「男として」の役割を果たすため。
「子供をかつての自分の様に不幸にさせたくない」
「パートナーの事は好きだから一緒にいたい」
それとは裏腹に
「過去から解放されたい」
「自分のような人間が大勢いる」
そうした自分が成功し、生きていける多様性を肯定しなければならない。
自分の事だけを考えれば「籍は抜いたけどパートナー」と言うような中途半端は止めて彼女と子供を忘れて完全に離婚して性的マイノリティーに寛容な土地、国に一人で生きていけば良い。そしてそれだけの力はあったはずだ。
だが「男として」惚れた女と子供を置いて行きたくない。
「大人」として弱者である子供を支えたい。
自分を殺すか、パートナーと子供を切るか。
だが両方なければ「過去の清算」にはなり得ないし、「多様性の肯定」もなり得ない。
そして結局両方手放した。
SNSを見ていると彼に向けられた過去の誹謗中傷が大量に出てくる。
また、自殺した事を父親として「逃げ」だと「責任」を叩きつける者もいる。
自分には彼らの主張は「俺だって逃げたい」「お前だけズルい」と言っているようにしか見えない。
それを「子供やパートナー」を盾にして石を投げている。
人が一人死んでいるんだ。
その故人に対して、そしてそのパートナーや子供の事を考えればどうしてそこまで責任を追求できる。
有名税?
同じ様に責任を問われる有名人には時に「英雄色を好む」だとか「それが芸の肥やしになる」と言ったりしているじゃないか。
性的マイノリティー、多様性、そうした事を主張する「少数派」だから叩いても良い、と勘違いしていないか。
「自分だって我慢している、成功してるんだからその位我慢しろ」と言いたいのか。
そんな人には伝えたい。
「他人の足を引っ張った所で何も起きない。」
どこにでも語られる、「普通」の理屈だ。
少数派、弱者である自分が子供の頃からそう言われて自分の考えを主張するのを口を塞がれてきた。
自分の言葉、「冬の老人」が考えて出てきた言葉じゃない。
「強者」と「多数派」、いわば責任を追求し、故人を責め立てる側の人間から散々聞かされた台詞だ。
自分には他人の足を引っ張るつもりなんてないのに。
ただ自分が欲しい物や事を主張したい、そのために自分の思う努力をしたい、自分の夢を叶えたい。
それ以前に夢を持ちたい、探したい。自分を高めたい、鍛えたい、勉強したい。
それで他人の夢と衝突するなら妥協点を考えるのは「大人」の役目だ。
「子供」には出来ない。
けれどそれを「大人」として強要する。
「男」として、あるいは「女」として強要する。
子供だから出来ない事をするから疲れる。
けれど子供だから疲れているかどうかも分からない。
出来ないから我慢するしかない。
そしてそれが我慢なのか努力なのかも分からない。
「他人の足を引っ張っても自分は幸福にはならない」がそれでもやる。
気に食わないから。
そしてその言葉は自分に対してへの戒めでなければならず、自分から湧き出る物だ。
その言葉を他人へ向けて発した時、結局それこそが「他人の足を引っ張る」行為にしかならない。
その言葉を大人になった時に自分の内側から引き出すために、呼び水で引き上げる為に子供の頃に色々な経験をさせる必要がある。
色々な夢を見る必要がある、関心を寄せる必要がある。
そして大人にはその環境を作る責任がある。
人生40年時代が通用する時代でもなければ庶民が拠り所にできる守護者たる神や仏、侍や将軍がいないわけだから。
だから自分は自殺した彼については複雑なのだ。
責めるべき部分と共感できる部分と羨望する部分がある。
だからこそその辺を無視して責任を追求して石を投げる者達の「我慢させる」意図の言葉に嫌気をさす。
そして今日もまた疲れる。
疲れている、だから「やり切った」事に今日も羨望と手段を考えてしまうのだ。
まぁエッセイなんてスカッとするようなものではないし
、特に自分のエッセイなんて死ぬ事ありきで書き出してるわけだがそれでも死ぬ事ばっかり考えてると気が滅入るね。
そのままやり切れていたら今頃エッセイなんて書いてないのだけど。