飴と鞭と黒い箱、その1
SNSの呟きで目に入ったものがあった。
「『○○出来たら△△を買ってあげる』という教育は悪いとされるけど自分達は給料貰うために働いてる」
この呟きに対してそこそこのいいねがつけられていた。
この呟きを見た時に自虐的なネタとして言っているのか、本気で言っているのか分からなくなったがリプライへの返信している様子を見るに「本気」なんだな、と自分は解釈した。
この理屈の大前提にあるのは教育を受けている「子供」と社会人である「大人」を同じ台へと上げてしまっている点だ。
そして教育については子供はあくまで「受け身」であって教育するのは親である「大人」でこうした考えの比較する場合なら親側の方に焦点を当てなければならない。
「自分達は給料貰うために働いている」
というのであれば
「親は将来子供に面倒見てもらうために子供に金かけてる」
とするべきだ。
話を元に戻して仮にSNSでの呟きを本気で言っているのであればそれは大人と子供を同じ立場、対等な存在であるかのような前提で「不公平」のようにして語る時点で精神的に追い込まれているから休め、としか言いようがない。
大人と子供は対等ではなく、大人が強く、子供は弱い存在だ。
またこうした立場の違いを無視して愚痴るのは大人の所を個人事業主や上司、子供を会社員や部下と入れ換えたような愚痴もたまに見かけたりもする。
そして何故そんな愚痴になるか、といえば「我慢」の割に報われないからであり、それはつまり「○○出来たら△△をあげる」という教育の行き着く先の一つである。
自分語りになるが子供の頃は「○○出来たら△△を買ってあげる」という事すら満足にその報酬を貰った試しがない。
「○○出来たから△△を」と当初の報酬を望む声を上げればそんなの出来て当然、いちいちそんな事で報酬を与えられない。
次の課題をやったら買ってあげる、となっていた。
結局、その次の課題を成功、終わらせてもまたさらに次がきていっこうに報酬などでない。
不幸自慢をしたいわけではないが結局のところこうした飴と鞭は教育というよりビジネス的だ。
そして立場が対等ではないから何処かで強い立場の方に欲が出る。
「金をかけたくない」「面倒くさい」「時間がかかる」
そうした親側の欲が報酬を子供から遠ざける。
「簡単に与えたら甘ったれになる」
「子供のために心を鬼にして」
そんな親にとって都合の良い言い訳もあるし、立場を個人事業主と会社員に変えた話や会社の先輩後輩、上司と部下に変えた場合にもこの「正当化」は成り立つ。
実際は与えるのを嫌がった上の立場の人間が甘え、下の人間はそれを分かっているからこそ「やっても損をする」という考え方になりがち、と言う話。
飴と鞭、確かに短期的に見た場合は効果を上げやすい。
だがすぐに報酬と痛みに慣れる。
飴玉では物足りなくなり、ケーキなどのより美味しいご馳走を求める。
欲が増える事自体は良い。
欲は夢の種。
小さな欲が夢となり、それを実現したら次の欲へ。
欲、というネガティブな言葉だから少し違和感を感じるかもしれないが成長とはそうした段階的ならものだ。
しかし鞭は罰則と脅しだ。
確かにその二つはルールやマナーという意味では必要だがそのうちそれありきになる。
出来れば褒美、出来なければ罰。
そんな極端な飴と鞭の方針では欲は出なくなる。
飴よりケーキが食べたいが、その欲に手を出すと鞭は1発では済まされなくなる。
だから進歩も緩い。「子供は親のもの」という飴と鞭の考え方ではケーキを食べたい、と欲を子供が持っても親のチラつかせる鞭を気にして飴を望む。
だから「『○○出来たら△△を買ってあげる』という教育は悪いとされるけど自分達は給料貰うために働いてる」
というような呟きはその主張が行き過ぎれば「給料を貰うために働いているのだから子供にも同じように教育させるべきだ」となるから自分は非難するし、そのためにエッセイに書き出した。
そしてそんな呟きをするのであればそこまで追い詰められているからこそ、「休む」判断をするべきで仮にその判断すら出来ない環境ならその環境を見直すべきだと案じている。
ぶつ切り