聞く事はできても聴くことはできない
間開くと長くなりがちだな。
前回の話で母親の話を出したのでついでだからコレについても語りたい。
自分の一つの経験としてタイトルの「聞く事はできても聴くことはできない」がある種のサイコパスの象徴だと思う。
聞く、というのは「物音を聞く」とか動物的、本能的な能力であり、物質的、現実的、というか受動的な感覚の表現だ。
一方で聴く、というのは「講義を聴く」のように単に耳から入ってきた音を聞くだけではなく、人の言葉の意味を考えたり、共有したり。
精神的、想像的であり、そして能動的な感覚の表現だ。
サイコパス、あるいは他人に対して60点、最低限の労力しかかけられない人間は聞く能力も最低限だ。
「音」を耳から受け取る事は出来ても「意味」を受け取る心がない。
動物のように本能的な感覚としての聴覚としての器官の能力は問題なくても人間として「耳を傾ける」事ができないわけだ。
そういう意味では「恥」の字、上手い事出来ている。
耳を通して心を通わせる。
だから他人の言葉に恥を感じる共感性羞恥などがある。
例えば誰かが倒れたとして、それを「目」で見ているだけなら「人が倒れた」と思うのが最初。
それに対して助けようと思うかどうかはその次の段階だ。
けれどもしもその転んだ人が「悲鳴」を上げたらどう思うか。
もしも「奇声」を上げたらどう思うか。
転んだ原因としてつまづいた物があってそれに向かって「怒声」を上げたらどう思うか。
その人の上げた声や言葉で同じ助かるでも緊急性を感じたり、少し笑いが込み上げてしまったり、あるいは無視しよう、と感じるのは「耳」は「心」の器官である事を表現した「恥」という字と言える。
恥を感じる、という事はその言葉、耳から入ってくる情報に対して心を向けているからこそ起こる反応だ。
さてそれを踏まえて自分の母親はというとまさにこの通りである。
基本的に母親は自らの話を「聴く」事を他人に求める。
一方でコチラからの話に対して「聞く」事は出来ても「聴く」ことは滅多にない。
「聴覚」という物理的なセンサーとしての能力自体はかなり高いと言ってもいい。
遠くで音がなった、とか誰かが話してる、とかを聞き分ける能力が高い。
それが例えばラジオが鳴っている、雑音がある、そんな状況でも僅かな音を拾う事が出来る。
しかしその一方で会話するのにコチラが歩み寄って話をしてもまるで話が聴こえておらず何度も聞き返す。
しかし母親の話は強引に聞かされた。
父や祖母に対して、近所に対しての愚痴や泣き言を聞かされていた。
しかしいざ子供である自分からの悩みだとか疑問、そうした物を親として受け止めるとなった時、行うのは「耳を傾ける」ではなく「聞き返す」という行動だ。
「何度も聞き返す」というのがなぜ問題か。
何度も聞き返すのだから「耳を傾けているのではないか」と疑問に思う人もいるだろう。
というか自分もそれで長い間勘違いしてやってきたから勘違いして当然だ。
焦点となるのは「歩み寄っているか」という点に尽きる。
俯瞰して振り返ったり、あるいは第三者視点で観察していると母親は伝える努力も足りなければ聴く努力もしていない。
順番にコチラが話かけるというパターンで行こう。
1.話を聞いてもらうために自分から歩み寄る
2.聴き返されるから「声量」の問題と考えて声を大きくしてもう一度。
3.再度聴き返され、今度は「早さ」の問題、と考えて、ゆっくりと話す。
4.また聴き返され、今度は話を「短く」区切って応答を取りながら。
5.また聴き返される。コチラの話す気が失せる。
話すのを止めると「ちゃんと聴かなかった」事についての謝罪もなければ呼び止めてもう一度聴かせて、というわけでもないし、今は都合が悪いから後で、と機会を設けるわけでもない。
コチラから話が終わればそれて終わり。
その一方、母親側がコチラに愚痴などを聞いて欲しい、という場合。
1.自分が作業中でもお構いなし。今忙しいから、と伝えても強引に手を止めさせる。
2.主語などが無く、コチラの理解度を無視して話を進める。
3.理解度を無視して進めるくせに単に愚痴を聞いてもらうだけではなく、コチラに対して何かしてもらうための話だったりするので再度コチラが「聞き返す」ハメになる。
4.コチラが聞き返された時は何がダメだったのか、と反省と改善をしながら話すが向こう側は再度同じ事を繰り返すだけ。
5.コチラ側が向こう側の話から推理して主語や依頼内容やらを考えなければならない。
6.向こう側、母親の話をコチラがまとめて母親に明示する。
この6段階を母親側の希望、正解に達するまで場合によっては何度も繰り返す事になる。
しかもコチラが聞き返された時に行ったような改善はしない。
・コチラの手を止めさせる癖に雑音などお構いなしで喋るか「声量」や「話の早さ」的な問題があっても声を大きくしたり、あるいは向こう側から物理的に近寄ったりして「対話」しようと歩み寄る事もなく、常にコチラ側が近寄って耳を傾け、理解度を高める努力をして歩み寄らなければ聞き取れない。
コチラが歩み寄る、歩み寄らざるを得ないのに向こう側は一切その努力はない。
自分のエッセイ、あるいは自分のこの状態はこの積み重ねで溜まった我慢、「塵も積もれば」。
出来上がったのは「怒りの山」、山に流れるのは「悲しみの川」。
一つの指標である。
能力の高さではなく、歩み寄れるかどうか。
本物のサイコパスは擬態するのが上手い、だが本質的には心を持たない獣に近い。
単にわがままなだけ、とかあるいは純粋に耳が悪いとかそうした物ではない。
こちら側から話しかけようと歩み寄った時、向こう側はどう動くか。
というより労力をかけようとしないために、姿勢を変えたり耳を傾ける仕草をしない、動く兆しを見せないかどうか。
場合によってはどうしても姿勢を変えられない事もあるだろう。その時「何が問題で聞き取れないのか」をちゃんと教えるかどうか。
声量なのか、早さなのか、一度にコチラ側が話す量なのか。
逆にコチラが聴く立場になった時、コチラに歩み寄る努力はしているか。
強引にコチラの手を止めさせてはいないか、コチラの理解度を無視して話を進めていないか。向こうはコチラの理解度に配慮しないままで力関係で無理矢理にコチラ側に歩み寄らせようとしていないか。
最終的なラインはコチラが話す側、聞く側、両方であっても謝れるかどうかだろう。
そして「もう一度」をあちら側が言えるかどうか。
彼らは「何も聞こえない」のではない。音は聞こえているが心のメッセージに耳を傾けて聴こうとはしていない。
「何も聴く気がない」
にも関わらず
「自分の話を聴け」
を行う。
自分はどうなのか、と言われればそれを間に受けて育ってきたからサイコパスと同様に
「何も聴く気はない」
と自分から拾う気はない。考えるつもりはない。
しかし、これだけ情報に溢れた社会では目に入った物、耳から入ってきた話に無意識に考えてしまう。
そして自分から話しかけてもそうやって聴いてもらえなかったから「何も話す気になれない」。
しかし、拾う気も考えるつもりもないのに入ってくる情報に対して拾ってしまう、考えてしまう。
それが「呼び水」となるから、エッセイで書き出す。
自分は自分のためにサイコパスに、「恥知らず」になろうとしている。
だが考えてしまう、心を向けてしまう。
「恥」を持ってしまう。
だから疲弊する。
だから1人になりたい。
けれど1人で人間は生きていけない。
その矛盾から解き放たれるために死を選ぶ。
人間に疲れないためには相手の理解する「能力」ではなく聴く「姿勢」を見る。
音を聞けても言葉は聴けない。
そんな人がいる。
そしてそんな人に自分はなっていないかどうか。
理解能力の前、歩み寄る姿勢。
「恥」は自分が生む。
「他の人と違うから」は恥ではない。
「他の人に歩み寄る」から恥という土台の概念を作り上げる。
その上で人に歩み寄れない自分を自覚した時、歩み寄らない人を見た時、自分が作り上げた恥に殴られる。