多様性の教育方針
先日SNSを見ていたら多様性、主に性的な多様性について学校で学ばせよう、みたいな話が出たりしているようだ。
かなり否定的な意見が上がっており、昨今の性的志向、トランスジェンダーだとかも含めて問題のある当事者だとか政治的に多様性というものが利用されているものも含めて「必要ない」と言う事であった。
中には政治的な「洗脳」であるとする意見もあった。
自分も基本的にはそうした状況がある以上、多様性への理解は進めて欲しい、とは思うものの子供の学校教育では無理に入れる必要性はない、と思う。
ただコレはそもそもとして日本の教育者にそうした物に深い理解がないから、という物がある。
いくら教育者とはいえそっち方面に関して素人の人間がマニュアルや本などから得た知識のみで教えられるわけがない。
ましてや相手は子供である。
とはいえ国際社会にならざるを得ない状況で性に限らず、様々な多様性は求められる。
そして日本は海外の多様な「技術」を産業へ結びつけて「メイドインジャパン」のブランドを作り上げた。
「子供達にはまだ性的多様性などは必要ない!」
と言う口で
「様々な技術を身につけて国際的に活躍できる大人になりなさい」
と言う。あるいは言ってきた。
この矛盾があるからこそ「多様性」を早くから学校教育で学ぶ必要性がある、と「弱者男性」と言う目線から思うわけだ。
結局の所、性的志向の多様性について学校教育程度で理解出来るわけがない。
そもそも当事者ですらよく分かってないような状況だから昨今の問題が話題に上がる。
性自認が女だと言うトランスジェンダーの男性が女子大に入学したいとかいう話が1ヶ月くらい前にあったらしい。
まぁ、時期はどうでもいい、というかSNSで「女子大出身」の人間でそのトランスジェンダーに対して「意味が分からない」と呟いていた。
意味が分からないと告げたのは「女として女子大に入っても精神的に歪むだけで女どころか人間としておかしくなるぞ」
と言うトランスジェンダーに対してどうこうと言う話ではなくその人が経験したその人の「女子大」の歪さからくる疑問であった。
自分はこの呟きを見た時に、この疑問を考えられる事が「恵まれている」と思った。
結局のところ、一口に女子大と言っても個人の資質や環境で必ずしも「歪む」わけではないし、仮に歪んだとしても彼女のように卒業して歪んでいた事を認める事ができる事も可能なわけだ。
それには「まとも」という存在、あるいは状態を知っていなければならない。
自称トランスジェンダー、と言って異性へ潜り込み性犯罪を行うような存在もいるが本当の意味でトランスジェンダーであるなら生まれてこの方「まとも」ではない扱われ方をされていたわけだ。
では「まとも」ではない扱われ方とは何かと言えば「性役割」の押し付けである。
身体の性と心の性が異なる。
その上で身体の性の役割を強引に押しつけられる。
トランスジェンダーでなくても社会的に、あるいは自分が持っている「異性への偏見」を自分自身に向けられたらどうか、ぐらいは想像できるだろう。
それが生まれてずっとあるわけだ。
とはいえ「女性」は割とマシだ。
何故なら思春期などで女性全てが、とは言わないが一定数が「同性愛風」になり、過剰なスキンシップを同性の友人、先輩後輩で取る事もなくもない。
比較的親などにも「性自認は男かもしれない」など相談しやすい環境にあると言える。
しかし男はどうか、と言えばまず間違いなく悶々とする事になる。
「性自認が女かもしれない」「女よりも男に興奮する」。
まぁその辺の悩みの詳細は人それぞれだが
「男らしさ」という性役割とはそういうものだ。
話はズレたが結局の所「トランスジェンダー女性、女子大に入りたい」ってのは「女子大に入る事」が目的なのではない。
「女として認められたい」という欲求、コンプレックスを満たすための証明として「女子大」があるだけだ、と自分は思う。
何故なら「男としての性役割」を求められてきたから。
ここで最初の話、「性的志向の多様性を学校教育に取り込むか否か」についてに立ち戻る。
「性的自認だとか性的な多様性の知識を教える必要ない。」
これは確かにそうなのだけど何故それが「洗脳」などと言われるのか、というとそもそもとして「性的役割」を子供に押し付けて「洗脳」してきたからだ。
教育する側としては「性的役割」を押し付ければ楽だから。
この間、タイムラインにバズっていた漫画が流れてきた。
「子供の頃から男は女から馬鹿にされても黙って耐えなければならず、言い返すと女は泣き出して男は庇われるどころか先生からも悪者扱いされて怒られた」という実体験を元にした漫画があった。
この漫画の男の子は女の子に言い返す際に「死ね」と強い言葉を使っていたために咎められる部分はあるものの女の子を庇うように立ち回った教師なども含めて「性役割」の安易さ、そして改めて「性的役割」という概念が人格形成に与える強さは「性的多様性の学校教育」と比べても遜色ない影響を与えると考えてもいいだろう。
結局のところ「性役割」も「性的志向の多様性の学校教育」についても問題は同じで「子供」をちゃんと一人の人間として見ないという事である。
「男らしさ」「女らしさ」を子供に求めてもちゃんと「愛情」を与えていればいい。
時に褒める、時に甘えさせる、時に厳しくする。
ちゃんとその辺が「普通」に機能していれば性役割を求めていても何とかなってきたのが以前の日本、日本人だ。
しかし性役割だけを押し付けて我慢だけさせる。
そうして様々な格差が広がり、余裕がなくなれば「性的志向の多様性」、「男女平等」などの都合の良い所にだけ目を向ける。
「性的」な多様性はシャットアウトするのに「技術」の多様性は子供に押し付ける。
誰が押し付けている?「親」だろう。
良い学校、良い就職先、良い縁談、そして自分達にとって都合の良い老後のための設計。
本当にそうした老後を迎える為には「子供」をちゃんと見て教育できる親だ。
しかしその親が自分優先。
だから子供は安心できない。親を信用できない。
そもそもとして本来、性的志向云々の前に「性教育」ですら学校教育にぶん投げている時点で親は親としての問題がある。
小学校入学前に数字や平仮名も書けない子供をそのまま入学させるだとかもそうだ。
根本的に教育とは「親」がやるべき事であり、あくまで学校は「社会に出るために必要な事」を教える場所。
しかしアレもコレも学校任せの教育。
今の日本の教育のどこに親がいる?
「性的志向の多様性は学校教育に必要ない」は確かである。
何故なら「子供」をちゃんと一人の人間として尊重して道徳を教えていれば別に敢えて必要のない教育であるから。
けど子供の最低限の「衣食住」だけ確保して「親」のつもりをしている男女がいる以上、学校で教育をせざるを得ない。
繰り返しになるし、毎度毎度の結論のパターンだが何回でも言う。
こんな人格形成において当たり前の安心感を与えるのは「親」の仕事。
子供を「政治的利用」「洗脳」をされたくないのでまずは親が子供の事を守ってやれよ。見ててやれよ。安心させてやれよ。
それが親の責任だろうが。そう思うよ、自分は。
自分が子供の頃に多様性とかの概念が今みたいにハッキリしていたら、と思うと「救われていた」のか「逃げ込んでいた」のか分からないくらいには性役割とかは押し付けられていたからね。
まぁ、その性役割を自分一人では全う出来なかったからこういう自分が今あるのだけど。