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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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「多様性の否定」と言う「多様性」

既に世間的に最早意味すら分からないまま一人歩きしているような「多様性」である。

一番有名な少数派となるとやはりLGBTQのような存在か。

後は精神的な発達障害なども取り上げられるようになってきた。

男女格差や地方格差など多様性の問題と言える。


自分のエッセイでもたまに多様性のワードを出すわけだが昔からこの多様性について見ているとどの問題でも

「多様性を認めろ、というなら『多様性を認めない』という否定意見も認めろ」という主張が出てくる。

本人は「コロンブスの卵」的な自分の主張を押し通すための画期的な表現のつもりだろうが割と使い古されたもので正直見飽きた。

主張した当人はそれが初めての事だから仕方ないのだが。


結局、この「多様性の否定」を「多様性」として認めろ、についてだが、別にいいんじゃないか、とは個人的には思う。

先々週辺りにウガンダで「同性愛者はエイズを振りまく」という名目で同性愛者に向けられたかなり強い処罰の法が出来上がった。

名目は一応それっぽい理由だがウガンダのトップが「同性愛者とか気持ち悪い」というスタートから決まった法案だ。

コレについて日本人としては何も言えない。

ただ、それについてのリプライ、コメントで賛否両論であった。


基本的に他人の性癖など見ていて気持ちのいいものではない。

理解できないのも分かった上で3種類のコメント。

1.「国際社会の方向性から外れている悪法だ」

2.「同性愛とか性的少数者とか気持ち悪いんだから大人しくしてろよ」

3.「良くも悪くもこの極端な法の結果から得られるものは大きい。日本は10年くらいは動向を注視するべきだ。」

2が一番多く、1がちょくちょく見かけ、そして3は極少数。

自分は3のスタンスこそ外部の人間の正解だと思う。

2が一番多いのは大手を振って性的少数者を攻撃できる口実が与えられたからだ。

過去のデータから同性愛者の犯罪件数やらエイズの流行などを補足している者は殆どおらず、基本的に感情的に「気持ち悪い」が主張の根っこにある。

アンチ考察厨の主張と同じで昭和、平成初期の頃のように思考停止で「見下せる相手」を得たいだけだろう、と自分は思う。


性的少数者の話がヒートアップしたが、それはそれとして多様性を認めた上での否定なら肯定するもしないもその人自身。

個人の権利だ。

だけど「国」「社会」といった大きな物が「多様性」を認めていこう、肯定していこう、というのであれば「多様性の否定」をぶつける相手は多様性の「少数派」ではなくてそうした国や社会そのものにぶつけなければならない。

そして国際社会の一員である日本は多様性を認める他ない以上、さらに日本より上に対してぶつけなければならない事になる。


そもそもとして多様性をどこまで掘り下げるか。

日本の文化、なら草履や下駄を履いて着物、袴、下着は褌、サラシを着ていた時代にまで遡るか。

それとも石斧、石槍を持って狩猟していた時代か。

恐らく否定したい人間の中にあるのは「自分の価値観」が完結する世界だろう。

そこに「日本」はあるのか。

それじゃあ日本ってどこからどこまで日本の時代、価値観、人間と言えるのか。

非常に曖昧だ。


洋服一つとっても描かれた模様、値札やサイズなどの表記、日本語のみだけで書かれているものなどない。

天気予報でも「降水確率30%」を「降水確率三割程」なんてのは自分が生きてきた中で見た事がない。

そもそも日本語は漢字がある以上、ひらがな、カタカナオンリーで生活するというのか。いや、それすらも漢字が由来だから文字自体がダメなのか。



「多様性」は既にあった。

既にそこにあった多様性。多様性から生まれている今という環境。

そこを「最初からあったもの」として勘違いしているから「多様性なんていらない」としている。

けど「自分の生まれた時」と最初、仮に「日本成立時」と考えてもまるで異なる。

聖徳太子が「日出づる処」を自国、つまり日本を示し、中国を指す言葉として「日没する処」として書を送り面倒な事になったのは小学生の頃に学ぶ話だ。

陽キャラ的考え方だ。

「陽」の当たる自分自身を中心に考える陽キャラにとって自分から見た「日出づる」「日没する」である。

だがそれ故に他者の怒りを買った。

事実のように見えるが実際は日は出てもいないし没しているわけでもない。

何故なら地球と太陽は別物だから。

海から出てくるわけでもないし海に還るわけでもない。


この日の「出づる」「没する」という表現は当時の人間を考えると「太陽は宇宙にあって海から出たり入ったりしているわけじゃない」と言っても理解されないだろう。

そもそも宇宙とは?それじゃあ太陽はどこにいったのか?とたくさんの疑問が返ってくるだろう。

当時の世界の解像度がそこまでだったからそれは仕方ない。

しかし現代はそうではない。


「多様性の否定」はつまり「新しい多様性を受け止める余裕がない」というだけの話であってそれはそれで主張の一つとして重要なものだ。

「弱肉強食」ではなく「日本の社会」としてそうした時代に追いつけない弱者を拾い上げるのも社会の役目。

こんな偉そうに語るが自分だって時代の流れについていけない。

それは多様性の否定ではなく、単に自分の現状であり、そして自分の弱音である。

しかしその上で弱さを隠し、「多様性を認めるのが悪」とするのであればとりあえずその洋服、スマホ、靴から髪型、全部削ぎ落としてから言えよ、となるだけである。

「多様性」ほど古い概念はそうそうない。

そうそうないからこそ「言語化」もされていなかった、当たり前の概念である。

その上で地方やら海外、文化や技術を取り入れるかどうかは「否定」しても何ら問題ない。

その否定は自然の中にはない人間社会の淘汰である。

・自分が価値があると認めた物

・隣人が価値があると認めた物

・社会が価値があると認めた物

殆どの場合、重なってはいるが何処でハミ出る事はある。

日本の社会で生きるなら社会の価値に従うしかない。

その上で自分の家では自分の好きなように生きればいい。

けれど他人の家では身をわきまえる。

そんな風に考えるしかないんじゃないかな、と思う。



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