時間の使い方、その前に考える事。
「他所の作品に感想書いてみた」をテーマにエッセイを書いている直前というか最中に書いていた物を改めて書き直した。
いつも通り「普通」の事をアレコレとクドクドと語っているだけだが。
「時間は有限」だが自分を含めて上手く時間を時間を使えない人間は多い。
そもそも「時間を上手く使う」とは何なのか、といえば「無駄のない時間の使い方」である。
さらに言い換えれば「意味のある時間」という事にもなる。
結論を言えば自分のエッセイではおなじみとなった「教育」、「親」の問題となる。
そもそも「意味のある時間」というのがあるなら「意味のない時間」も存在することになる。
以前例に出した「筋トレ否定で炎上した女タレント」からすれば筋トレなんて「無意味」な時間であり、それに熱中する者達は「無意味な時間」を過ごしている事になる。
しかしその筋トレが好きな者達からすれば筋トレをする時間というのは重要な時間であり決して「無意味」ではない。それどころか「価値のある時間」である。
話を戻して結局のところ「立場」の問題であり、「上手く時間を使える」というのは「自分が価値を見出した事に時間を使えること」を指すと思う。
「価値」とはあくまでも「自分」が基準となる。
そしてその「自分」を作り出しているのは「過去」、つまり「経験」である。
「今より前」を全て「過去」とする事もできるが仮にそれが当てはまるのであれば「時間の使い方」 は老若男女、誰しもが上手くなる。
実際、「仕事」「作業」「趣味」といった事については必要に迫られるおかげで個人差はあるが時間をかければ技術が向上し、無駄がなくなり洗練されていく。
であるならば仕事だけではなく「人生」そのものも年齢を重ねる毎に上手くなる筈だが、実際はそうではない。
仕事と人生の違い、それは「自分」が起点となっているか、「親」が起点となっているか。
結局のところどれだけヨボヨボ、シワシワの爺さん婆さんでも子供の頃があり、親がいた。
どこまでいっても人生とは親の都合が起点となる。
結局「自分」のための事なら努力も我慢も苦にならない。
「誰かのため」だから些細な事も面倒だし、それをイヤイヤながらも我慢して成果を挙げた事について自慢もしたくなる。
けれど社会は「我慢」させるし、「自慢」は許さない。
だからより「自分を満たす」ための欲求が大きくなる。
時間を上手く使えないのは「上手く使いたくない」という可能性があるという事だ。
別におかしい話ではない。
よくブラック企業なんかでも言われるように
「早く仕事を終わらせた所で評価もされないし、それどころか下手に能力がある事を知られると報酬は据え置きなのに作業量だけ増える」
といったもの。
それじゃあ「どうせ頑張ったって意味ないし、ギリギリのラインでやったほうがマシ」
このブラック企業の問題はそのまま親子関係にも当てはまる。
「時間を上手く使えない」
これは言い訳できない「弱み」である。
それが単にその作業に慣れていないからというだけなら成功者の真似をすればいい。
世の中には色々な分野の成功者、偉人の格言、またルーティンや考え方が書籍などで販売しているし、ネットの記事や動画でも取り上げられる事も多い。
生活に取り入れる事は簡単な筈だ。
だが自分のような過去のトラウマから
「時間を上手く使いたくない」
と無自覚に思っている人間はいくらそうした成功者の真似をしようと無理な話だ。
身は乗り出している。しかし及び腰。
意識は前、身体は後ろ。
逃げるか挑むか中途半端。
そしてそんな中途半端な状態では疲労感が溜まるだけで何も身につかないし、成功確率も低いから失敗してさらに自己嫌悪。
「基本が大事」
なら時間を上手く使うための基本とは?
基礎能力の向上?真似をする成功者の解像度をさらに上げる?それともお金や時間、交友関係を広げる?
どれも大切かもしれないが基本とは違う、と自分は思う。
結局は「価値のある時間」を作りたいのだからそれは夢や目標のための物となる。
そしてそれらは「過去」に作られた「価値観」を土台にしている。
夢や目標のために時間を上手く使いたい。
そのためには逆算すれば価値観を完成させるところから始まる。
そして時間を上手く使いたくない、という気持ちを抱えているというのは価値観が安定していないから、という事になる。
安定しない理由は見たくない部分、「弱み」を放っておいたからだ。
価値を見出すという事。
他人から与えられたものに対して価値があると判断しているのは過去の経験から自分の強みや得意な事、好きな事だから価値があると判断している。
なら「無駄」「無価値」と判断するのは自分の弱みがそれを判断している。
与えられたもの一つだけなら探るのは難しい。
だがこれだけ物が溢れた時代なら、それだけ自分にとっての無駄と無価値がある。
「あれ」も「これ」も無価値。
別な物を無価値としているように思えるが違う。
無価値と判断する自分の弱みに触れる部分、共通点があるからそう判断している。
他人に無駄や無価値の判断を任せず、自分でそれらの共通点
を見出す事で自分の価値観が完成する。
1からスタートして10がゴール。それが「普通」。
だけど3や5がスタートの人間もいるし0からスタート、マイナスからスタートもいる。
「1から10」が普通ならそこの範囲に自分がいれば価値がある。
しかし1より下にいれば苦手と感じる。
逆に10より上にいれば1から10に留まっている意味を理解できない。
「1までの道のり」の開拓。
「10を振り返る」というゆとりを持つ事。
開拓とゆとりを持つ事は「1から10」の普通を生きる事と同じくらい重要だ。
皆違う。皆普通じゃない。
逆に言えばそれが普通だ。
だから絶対的な無駄な事も価値のある事もない。
だが各々の立場から見た時に無駄なことや価値のある事がある。
それを知る為に弱みを見つけ、価値観を完成させる。
時間の使い方はそれからスタートする。
時間の使い方の上手さとは
「自分のスタートラインと普通のスタートラインの差の認識」
「普通を行く事」
「ゴールのあとは普通を振り返る事」
この3つが最低限必要な土台にあるのだと、今は考えている。