完結の考えた方の挟撃その1
長い。
けど、元々は4000字あった。
これでも短くした方なんだ…。
感想を書いたエッセイに対して思いの外早くカウンター的なエッセイがランキングに上がっていた。
自分のエッセイじゃないので名前は伏せておくが、自分のホームから「評価をつけた作品」が二つあるのでその作品から考える話である。
自分は「小説家になろう」が有名になる前からネットの小説を見てきた人間だ。
だから「完結」についての期待、というか基準がかなり緩い。
とはいえ、勿論完結して欲しい読者の立場もある。
とりあえず、最初に感想を書いたエッセイについて今回考えようか。
「小説家」としての在り方を説いていた。
高い意識を持つ事、立派な事だ。
とはいえ、何処までいっても金銭のやり取りが無ければ「遊び」である。
「完結する事」だとか「オチ」をつけるとか。
色々語っていたが自分のエッセイで最近やった「考察厨とアンチ考察厨」で似たような事書いたばかりだな、と思った。
なので自分は感想に
「小説家は連載してる最中に見てくれた人のために配慮してるんじゃないですか?」と書いた。
返ってきた答えは感想欄の返信を見てくれた方がいいのだが自分が見たかった部分は
「連載している人のために完結しているのではないか」
と言う「可能性」に対して何と答えるかだった。
答えは「意味はない」。
「小説家」としての在り方を語る作者さんに答えとして求めていたのは自分の感想で示唆した「可能性」について「関心を向ける」事を求めていた。
「成る程、そうか!」と完全に理解しなくてもいい。
「そういう意味もあったりするんですかね」と疑問混じりでもいいから関心を寄せるのを「小説家」として自分は求めた。
「完結するかどうか」「オチをつけているかどうか」など関係ない。
自分なんてエッセイでオチを見失ったり、堂々巡りをしたり、表現力の技術不足で難しい場合がある。
それを求められるのは「ビジネス」である。
そんな事より他人の考え方を始めとした多様な「可能性」に関心を向ける、そして想像する。
それこそが小説家に何より大切だろう。
実際、可能性の一つとして感想に書いたものだが自分が作品を追っている読者だとして、更新が未定で「ほぼエタる」のを自覚しているなら遅れてしまうのであればオチがつかずとも「完結」としてしまった方が踏ん切りがつく。
「途中のようだが完結するなら仕方ない。こういう話だった。次を探そうか」
勿論それは自分の考え方であり、それが全ての読者に当てはまるわけではない。
それに「連載を追っていた読者の立場」から見た自分の考え方だし、「完結だからその小説を見た読者の立場」ではまた異なる。
だからこそ、そのエッセイの作者はそうした不満を元にエッセイを書いたのだろう。
それはそれで良いが自分の考え方であろうと彼、あるいは彼女の考え方であろうとあくまで「読者」の立場。
「小説家」なら自分には考えつかなかった考えについて完全に「理解」は無理でも「関心」を向ける、つまり「歩み寄る」事を自分は求めた。
勿論、それは一方的な要求であることは自覚しているから「感想を書いてみたら?」というアドバイスを無視するか悩んだ。
そして書くと決めた後も極力「敵意」を見せないように、それでいて意図を伝えるための文章を考えてたかだか100字程度の感想に1日かけた。
どうやらその作者はそうした理解できない他人の考え方を受け入れようとはしなかったようだ。
また、問題は他にもある。
自分は臆病なので面倒事を嫌って「1日」かけて毒気のない感想を書いたがその後に真っ向から感想をぶつけた人がいた。
思わず自分は正面からぶつかるのを避けたのを恥じてしまったが、とはいえ実際自分の語彙力では喧嘩腰になりそうなので恥ではあったが今はそれでよかったと考えている。
その人も小説家らしく自分のような稚拙な文章ではなく、ちゃんとした文章で反論というか自分の考えをぶつけていた。
それに対してエッセイの作者は長々と「そう言うつもりではない」「アレはこう言う意図で」と返していた。
単純に言うならブーメランなのだ。
高い意識を持つのは良い。
「小説家とはこうあるべきだ」と自分自身を律するのも良い。
しかし、それを他人にも強要するのであれば自分の作品で自分の意図しない解釈の取られ方をして反論されたとしても「全て自分の表現力不足」と受け止めて黙って受け入れろ、と自分は思うわけだ。
「オチ」をつけられていないから意図しない解釈をされる。
「完結」したつもりでオチがなかったのはエッセイを書いた作者自身も同じ事。
「表現力不足」を「言い訳」した。
意図と異なる感想に対して言い訳すればするほど「高い意識の小説家」とは遠ざかる。
「高い意識を持つ事」自体はいいとは思う。
だがそれを他人にも押し付けるならこんな風に自分みたいな底辺のエッセイ投稿者やらランキングにも乗るような投稿者からも反論が叩きつけられる。
自分の主張を正当化すればやり返される。
もしも自分の感想について少しでも歩み寄ってくれるような姿勢を向けていたら自分はこのやり返すようなエッセイを書いていなかった。
「小説家とはこうであるべき」と一方的な断定をせず、
「連載中と完結済の二択ではなく、「長期間連載停止中」とか「更新停止中」とかの枠があっても良くないですか?」という提案ならちゃんと理解して貰えただろうし、強い反論や誤解も招かなかったと思う。
だか、そのためにはやはり書き出すため、言葉を選ぶための「時間がかかる」「労力がかかる」「他人の気持ちに寄り添う柔軟性が必要となる」
つまり読者や考え方の異なる人間に対しての「情け」が必要になる。
毎度同じような「愛」「情け」が大事という極々「普通」の結論だ。
悪いけど自分にはそれ以上の結論が出ない。
「普通」を理由にするな、前話で言った人間が「普通」を理由にするくらいだからな。
今の自分にはソレが限界よ。