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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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呼び水と開放

先日、あるエッセイに感想を書いて返信も貰ったわけだが3つほどエッセイに書き出すことにした。

「アドバイスをすると言う事について思ったこと」

「自分が感想を書いたエッセイとランキングから見る小説家になろうの状態」

そして今回の「感想やコメント」についての自分のスタンス。


自分は過去のエッセイで人間には3種いる、3分割としてきた。

「陰キャ陽キャ」だったり「80点」だったり、「賢者、勝者、敗者」。

色々独自の表現をしてきた。

そしてさらに今日、ラジオで聴いた話からもう一つの表現をする。

「世界」を「敵」か「味方」で捉える人間と尊重するべき「パートナー」とする人間である。


自分は「世界」を「敵」だと考えた。

一方、世界を味方だと考える人間は多数派で自分のような考え方は少数派だ。

どれほど「世界は希望や幸福で満ちている」なんて言われようとも現実問題として格差が生まれている。


二つの主張がぶつかれば自分は「論」で、向こうは「数」で争いとなる。

自分が感想を書くために選んだエッセイの主張は自分の考えは対立した。

また自分が感想を書く前にあった感想はどれも

「よく言ってくれた」「分かる」「共感します」

と同意するものばかり。

もうこの時点で止めれば楽で良かったわけだが逆にそんな作者にコチラの「論」をぶつけた反応を知りたくて書くことにした。

こっから長い。


正直な所、エッセイの内容は相反する考え方であったが別にお互いに知り合いでも何でもないし、敵対したり害を与えようと思うわけでもない。単に主張が異なるだけ、考え方が違うだけだ。

だが感想にはたかだが100字程度に1日かけた。

理由は「どれだけ穏便に、それでいて意図を伝えられる文章を書けるか。」

エッセイを読んですぐに書き出したものは自分で書いておきながら「初対面だけどいきなり臨戦態勢」のように感じた。

その後仕事をしながら考えてみたが今度はワンクッション置くために書いた自分の立場、自分語りが長すぎる。

書いては消して、を繰り返してやっと感想を送信したのである。

そして実際、返ってきた返信を見て「期待していた通り」の内容であり「穏便」にしておいてよかった、と思う。


自分は少数派であり、弱者である。

だからこそ多数派や自称強者といった人間に振り回されてきた。

自分の意思、考えなどを抑え込む傾向にあった。

自分のエッセイの感想で「関心するより恐怖を覚える」とあったがそれが「情熱をもった人間」と「没頭する人間」の違いであり、「普通の人間」と「死を常に意識している人間」の違いである。


1年半前、色々な物を捨てた。

リアルに物質として存在するものからデータの類も処分した。

エッセイは全てスマホで投稿している。

「いつでも終わることが出来る環境」を維持する。

そして「いつでも実行出来る手段」を手元に用意する。

そうして「死」を意識してやっと「生きていける」。


「情熱」によって「生み出す」と言う楽しみについてはどちらかと言うと自分の中では筋トレの成果が近いだろう。

何度も試行錯誤して繰り返し、フォームを見直す事で筋力向上、筋肥大、身体の感覚の向上。

そうした成果が普通の感覚のエッセイスト、あるいは小説家が持つ「情熱」の産物である作品に近い。


だが自分にとってのエッセイとは自分の中にあるものを捨てる事に等しい。

なので書き出せば止まらない。

外からの刺激は呼び水に他ならない。

自分の身にならず、自分の器にそのスペースはない。

そしてその呼び水で汲み上げられなかった場合、今度はその呼び水がやがて自分の中で「モヤモヤ」とした感情として変化して残る。


物を創作する「生む喜び」がある一方で吐き出す「開放の快感」がある。

それは似て非なる感覚である。

創作の「生む喜び」は所謂「達成感」だがそこに至るまではストレスがかかる。

そしてそれは一つの「我慢」によって成し遂げられる。

「世界は味方」である、と考える人間は「生む喜び」→「開放の快感」へ繋がるだろう。

しかし「世界は敵」として考えている自分のような人間は「怒り」や「悲しみ」でソレが「生まれている」

「これから作る」のではない。「既にそこにある」のだ。

それを生きる為に忘れ去り、心の底へ、記憶の奥へ押し込めて生きてきた。

「開放の快感」を知らぬまま奥底に息を潜めて待つ。

自分にとってエッセイを書く、とはそれらを引き上げ「開放」してやる作業である。


エッセイを書く前の単なる読者だった時は感想やコメントは書いていた。

ただ、エッセイを書くようになってからは意識的に感想やコメントは書かないようにしていたし、自然と他人の作品を見なくなった。

「普通の人」は外から刺激を受けて自分の価値観と結びつけて「新しいもの」、そして「生む楽しみ」を持ってクリエイトしているだろう。

しかし自分は既にある。

「待ちわびた開放」をしてやってるだけだ。

ラジオやテレビ、ネットでほんの少し見聞きするだけでそれが「呼び水」となり、トラウマの「ぶり返し」のように引き起こされる。


今回、意識して感想を書いていなかったのを意識して感想を書いた。

他人の作品からの影響、異文化、異なるものとの邂逅。

確かにエッセイスト、あるいはクリエイターのアイデアを生み出す上では必要なのは確かだ。

しかし、今の自分には他者の作品をあえて気にかける優先順位が低い事を「再確認」した。

しいて必要性があるとすれば言い回しなどを学ぶ為だろうか。

単純に面白くて見る、聞く、そうした娯楽のためならともかく、わざわざ自分のエッセイのためなら「呼び水」は世界に溢れかえっている。

出力にはあとはもう単純に仕事の疲れと時間の問題である。

他人の作品へかける「情け」よりも自分の作品へかける「情け」。

というより自分自身への「情け」。

「呼び水」がその力が弱まった時。

自分から他人の作品を気にかけるようになるだろう。




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