イラストレーター兼vtuberの切り抜きや漫画家のある呟きを見て思う事。
イラストレーターの中には自分のイラストでvtuberになっていたりする人もいる。
そうした転身したVの切り抜きがたまたま流れてきた。
そうしたイラストレーター、漫画家兼vtuberで有名な人は何人か知っているが、失礼ながら今回切り抜きで見たその人の事はvtuberとしてもイラストレーターとしても初めてしった。
なので切り抜きだけ見ているのでその前後の話とかは分からない状態で思った事を書き出す。
切り抜きの内容はイラストのアドバイスの話であり、そのなかでそのvtuberが感じた「伸びない人間」の話であった。
よくある「素直に言われたことが出来ない奴は伸びない」に落ち着くわけだ。
そのイラストレーターにアドバイスを貰いに来た者の中にそれが出来ない人間がおり、謂わば自分の考察を他人へ押し付ける考察厨のように「自分の拘りを押し付ける」タイプの人間なわけである。
そのVのイラストレーターは「自分のアドバイスを聞き入れないなら勝手にやれば?」と切り捨てた話をしていた。
その一方、SNSでベテランの漫画家が今の時代についていくために現代風の画風を学び直そうとして感じた事を呟いていたことがある。
「アドバイスを貰うにしてもその先生と言える人に信頼が無ければ心を擦り減らすだけで先生選びには気をつける必要がある」
最初のVの話だけを聞けばアドバイスを求めた人間は自分の絵を褒めてもらいたいだけの人間に思える。
しかし、そのベテランの漫画家の呟きを考えると果たして前述のイラストレーターのVの話だけを聞いて判断しても良いものなのか、と迷う。
昔のイラストレーターや漫画家などの職業の黎明期、貧乏だが若くて情熱のある、クリエイター達がお互いの作品を評価し、褒め合って、励まし合い、そして切磋琢磨していた時代があった。
一方、今の時代は誰でも簡単に技術を学べる事が出来る一方でクリエイター自身だけではなく見る側も、皆が目が肥えているので褒められるのは一部の人間だけ。
仕事として安定しているのは今の時代だろうが昔は下手でもお互いを褒め合うことのできて金銭的には辛いが精神的にはそれほど辛くなかった、という話も見た。
イラストレーターからすると自分のアドバイスを聞かないような奴を相手にする価値はない、無駄かもしれない。
それはつまり「結果」重視である。
その先生のアドバイス通りにやれば確かに上手くなるかもしれないがベテランの漫画家がSNSで呟いたとおり「信頼出来なければ心が疲弊するだけ」になるかもしれない。
結局、そうした指導の先に絵は上手くなっても自分の表現したい物がわからなくなったとか絵を描くのが楽しくなくなったという状況に陥る。
あるいは先生を信頼出来ず、かといって独学では評価されず。
そうなると「辞める」という選択肢しか今まではなかった。
しかしそこに前話で触れた「AIイラスト」という技術が現れた。
今はまだまだイラストレーター、漫画家に力がある。
もしかしたら今の有名になっている人間は「他人から褒められる事なく自分の情熱だけ」がエネルギーとなって努力してきた結果、今の稼ぎや立場があってそこにプライドがあり、「他人から褒められる事」を求める人間に「甘ったれるな」と思っているかもしれない。
しかしながら昔の黎明期世代の人間、ベテランの漫画家から言わせれば今の成功者である人間もまた「甘ったれ」だ。
昔のオタクへの風当たりと比べてカジュアルになったオタクへの「差別」、そして「貧困」は昔の人間からすれば相当緩い。恵まれた環境から生まれた成功者だ。
勿論、「あの頃は〜」と言っても時代が違う以上、どうにもならないのだがそれは今の成功者にも当てはまる。
vtuberの時代はvtuber自身が終わらせるという事を過去のエッセイでも書いた気がするがアチラはメタバースだの、AIvtuberなどが出てきて成功し、やっと世代交代が見え始める、つまりまだまだ先の話。
しかしイラストレーター、漫画家は違う。
AIイラストはまだその技術も、そして使う側の意識や法整備もまだまだだがvtuberがAIに取って代わられるよりも先に代替わりが来る。
結局のところ「後続」がいるから「前を歩く存在」は「師」として「先生」として「尊敬」される。
単に成功して「金持ち」なだけであるなら「尊敬」される筈もない。
「自分のアドバイスを聞かないなら切り捨てる」と言うのもイラストレーター、漫画家というビジネスとして間違ってはいないが「生徒を受け入れる」「生徒の拘りに理解を示す」と言う工程を蔑ろにしていたら道はそこで終わり。
「伝統工芸」「多様性」の一部と化した少数派のそれは「田舎」となる。
「見て盗め」などの古い職人気質のそれと「自分のいう事を聞かないなら切り捨てる」といった切り抜きの現代のイラストレーターには近い物を感じる。
どちらも本職は「教師」じゃないから仕方ない、と言い訳は出来る。
…果たして本当に言い訳として成立するだろうか。
「生徒の拘りを受け止める」事などは柔軟性、受身である。
そして時間と労力。
「情け」があるかどうかは教師か否かはあまり関係ない気はするけれど、と切り抜き動画とか、漫画家の呟きを見て考えた。