考察厨側からの考察厨の姿。考察厨側から見たアンチ考察厨の姿。その5
その4までに書いたアンチ考察厨、というか前回に5分割したうちの5番目「考察すること自体を嫌う人」で追加で考える。
追加で「5」のタイプの人の主張を観測した。
その4で「主張が合っていたとしてもムカつく」との事だったがその一方で「主張が間違っていたら消せ」と言う事。
自分としては「何故消さなくてはいけないの?」と思ってしまう。
勿論、コレが「作者に不当なレッテルを張り、名誉毀損」に当たるだとかそうした物だとしたら消す必要があると思う。
と言うか本来、それは考察でもなんでもないわけだが、前回での「1」に当たる「自分の考察を押し付ける考察厨」はそれをやってしまう事もある。
SNSなどで簡単に作者と繋がり、言葉を投げつける事ができる現代においては直接的にそれを作者に伝え、さらに自分の考え通りにいかなければ「ファンを辞めます」のような脅しのような言葉を叩きつける考察厨も存在する。
もっともそんなのは大した脅しにはならないのだが。
かと言って罵倒混じりの他人を支配する行為は許されない。
そしてこの「1」と同じ「他人の行動を支配する行為」を「5」の人間は考察厨の「1」、あるいは考察が好きな「2」の人達へ向けてやっているわけだ。
そしてその支配行為を指摘すると帰ってくる言葉は「正確ではない考察だから」というもの"だろう。"
ここで断定しないのは5の人間は「命令」ではなく「圧力」で考察を自ら削除、あるいは訂正に仕向ける。
何故なら責任を取りたくないから。
あくまで「1」、あるいは「2」の「自己責任」で間違えていたから訂正した、という体裁を取りたいわけだ。
だからSNSなどで考察することについて「悪の所業」と喚いても実際に考察が作品の中で間違いだった、と判明しても何もしない。
そのくせ考察を見て勝手に苛ついて発狂する。
ここでも「情け」を他人にかけられない「5」の人間性が出てくる。
自分自身で「情け」を作品にかけたくないから他人が作品へかけた「情け」のお零れを得たい、けれど「不正解」は掴まされたくない。
しかし、考察なんて事をする「オタク」と関わりたくないから間違いを指摘したくもない。
そして万が一、「5」の人間が考察の間違いに痺れを切らして指摘するとなっても非常に攻撃的である。
「間違っている」という事自体を指摘したとしても文章が罵るようなものであるパターン、そして肝心の「何処が間違っているのか」という事も丸投げ。
作品への与える物が最低限の「愛」ならば、見下す相手への「情け」も最低限だ。
話は少し変わって昔話の「浦島太郎」について最近調べる事があった。
ラストの「開けるな」と言われた玉手箱を開けてしまった事で老人となった結末について
「約束を破っては罰が当たる」というような物を教訓として汲み取れる。
しかし、異文化の人間、つまり浦島太郎を知らない外国人がこの本を読んで感じた事が書いてある記事を見つけた。
その外国人曰く「玉手箱は乙姫が浦島太郎との竜宮城での思い出が入っていた。きっと乙姫は浦島太郎に自分を忘れないで貰うために贈ったのだろう」という解釈だった。
日本の昔話の浦島太郎だが、恐らく外国人の感じたような甘いロマンス的な物は意図していないだろう。
恐らく国語のテストでなら不正解の解釈であるだろう。
だとしても果たして外国人の解釈が「悪」と言えるだろうか。
色んな解釈の仕方はあってもいい。
そしてその解釈がその時は間違えていたとしても別の所では必要な考えかたになるかもしれない。
宗教、文化、世代、性差。
所謂「価値観」というもの自体には「正解、不正解」はない。
時代に合っているか、そぐわないかである。
「間違っているのは向こう側なのに何故私が被害を被り、我慢しなければならないのか」
と怒るのは間違えている。
それを我慢と考えているのなら自分に対して考察不足。
自分に「情け」がないのを自覚するべきだ。
考察を含めた「遊び」というのは他人、あるいは物、概念といった自分以外へ「情けをかける」トレーニングともいえる。
それを邪魔するというのは「ソレに情けをかけるくらいだったら私に情けをかけなさい」と言うような事。
果たしてそんな他人からの情けを期待する「情けない存在」に「愛情」をかける「価値」があるというのか。
あるとしたらそれは「弱者」として「守るべき存在」としての価値だ。
「私は弱者じゃない」「私に情けをかけなさい」
それは「ソチラ」 が決める事ではなく「コチラ」が決めるべき事。
考察という「遊び」を通して自分が満足する事ができる。
同じ価値観を持つ者道士で楽しみを共有する事もできる。
しかし、誰も他人のために「遊び」をしているわけではない。
自分のために「遊び」を楽しめ。
ここ数日、考察している漫画のためにレンタルして別の漫画を見ていた。
作者も世界観も異なる、全然違う作品。
しかし連載された雑誌が同じ、そして時期は同じ世代。
そして同じ、あるいは近いジャンルだ。
違う道から覗く事ができる景色もある。
間違いも考え方次第だ。